"いつでも、お別れ、大丈夫ですから――――――" あたしがそう言ったのを切っ掛けに、直前まで暖かかった筈の部屋の温度が急に下がったような気がした。 「・・・知紗、自分が何言ってるのか、解ってる?」 あたしの足の間で、生まれたままの姿で膝立ち体勢の先輩は、さっきまでの火照りが嘘のように、まるで蝋人形のような青白い顔色であたしを見下ろしていて、 「いつでもお別れしていいって、――――――え、それ何? 俺とはこれで終わりって事?」 今まで聞いた事もないような、とても低い声で、仰向けのまま動けないあたしにそれを問いてくる。 「あ、あの」 どうしよう。 篤先輩が心底から怒っているのが、びりびりと伝わってきていた。 これまでの優しかった先輩からは想像も出来ない、 まるで作り物のように鈍く光った焦げ茶の眼で、突き刺すようにあたしを睨んでいる。 「ねぇ、もしかしてさ、――――――まさかと思うけど、・・・前に告白してきた光陵のヤツ?」 「・・・え? どう、・・・して?」 思わず声が震えてしまった。 どうしてその事を、篤先輩が知ってるの? あたし、告白された事、篤先輩に言ってないのに・・・。 知ってるのは、その時傍にいた、麻花ちゃんだけ――――――。 それなのに、どうして――――――? あたしの頭の中に疑問が走るたびに、先輩の眉が中央に寄っていく。 「―――――は、マジで、そういう事?」 小さく呟いた後、 「ぁ」 篤先輩の体が、あたしの中から抜けていった。 ズルリとしたその感覚が、まるで余韻の糸を引くように、あたしの何かも引き攣らせた。 どうしよう・・・、あたし、何か、 何か凄く、大きな間違いを・・・、 「スゲェ、うける」 ハッと、息を吐くように笑った先輩は、 「・・・せんぱ」 「何、俺って、知紗にとって、処女捨てる為の男?」 言葉を刻むたびに、体を震わせているような気がして、 「ちが、違います!」 「――――――意味、わかんねぇ」 ――――――え? どうして? どうして篤先輩が、泣い、 「悪ぃ、ちょっと、このままだと、知紗に酷い事しそうになる」 あたしの目の前で握られた先輩の拳も、やっぱり震えていた。 「俺、ちょっと頭冷やしに出てくるから、その間に知紗も、 ・・・そんな、 「せんぱ、」 まるで操られるように、あたしは先輩から目が離せなかった。 ベッドから降りた篤先輩は、床にあったティッシュの箱から数枚をとって、あたしに背を向けて何かをして、 それからゴミ箱に白い塊を投げ捨て、散らばっていた服に手を伸ばそうとして屈みかけて、動きを止める。 その視線を追うと、先輩の目を引き止めているのは、ついさっきまで篤先輩が着ていたコートで、 「・・・」 無造作にそれを掴み取った篤先輩は、そのポケットから小さな包みを取り出し、 「―――――知紗にあげるよ、それ」 あたしの方へと放り投げてきた。 「・・・え?」 コロンと、手の中に入ってきた包みに、何も言えずにいると、 「初めて、"彼女"の為に選んだものだから、・・・俺には捨てられそうにない。知紗が、好きにすればいいよ」 ――――――嘘・・・。 これって、篤先輩があたしの為に選んでくれた、――――――クリスマスプレゼント・・・? 「っていうか、やっぱり今、服着て」 「・・・え?」 「タクシー呼ぶから、車来るまでに帰れるように準備して」 「・・・」 「消えてなんて言ったけど、こんな日の夜に女の子が一人で歩くのは、やっぱり危ないから」 「篤先輩・・・」 「振られたからって、知紗なんかどうにでもなれって、そんな非道な男じゃないよ、俺は」 強張っていた顔を少し緩めて、嘲笑気味に息をついた篤先輩。 振られ、た、って・・・、 「篤、先輩――――――」 さっきから・・・、 「あの、篤先輩・・・」 あたしの呼びかけに、拾い上げたシャツだけを羽織って、PCの上に置いてあったスマホを手に何やら操作をしていた先輩は、 「――――――・・・何?」 チラリと、目線だけをあたしに向ける。 「あの・・・」 『可愛い、知紗』 『好きだよ、知紗』 『キスしよっか、知紗』 これまで、あたしが素直に受け止められなかった先輩の言葉が、 まるで、 あたしの事を"ちゃんと好き"って、 そんな、都合のいい希望が、はっきりと含まれている気がして――――――、 『知紗、俺の事、好き?』 『俺も好き。知紗、ほんと可愛い』 もしかしたらって、 もしかするかもって、 「あの、」 信じたい、 信じたいです。 篤先輩、 あたし、これでお別れなんて嫌だから、 本当は、もっとずっと一緒に居たいから――――――、 信じたい――――――ッ。 「――――――好きです・・・」 ピクリ、と。 先輩の体があたしの方を僅かに振り向いた。 「あたし、篤先輩が好きです」 自分の中で、 "きっと、先輩に直ぐに飽きられる" ずっと確定していたその答えが、これから全て覆ろうとしている現実。 「・・・知紗?」 「好きなんです」 ここしばらくの間、近づいて来る先輩とのお別れの悲しさに胸がいっぱいだったあたしは、 「好きなんです」 色んな事がぐちゃぐちゃと混ざって、 もしかしたら本当に先輩もあたしを好きになってくれたのかも。 でも、やっぱりそんな事ないのかも、――――――って、 今まさに、プラスとマイナスと、色んな想像や感情が全身に溢れていて、 「好き、です・・・」 「え、ちょっと、知紗?」 「あた、あたし、・・・何か間違えたかも、・・・だから」 あたし、最初から、 最初からずっと、 ボタンを掛け違えていたのかも知れない――――――。 「――――泣かないでよ、知紗。・・・俺が一番わけ解んないのに、ズルいと思う」 ズルい、なんて言われると、また悲しくて、ギュッと泣きたくなって、 「・・・先輩だって、さっき、・・・泣いた、です」 「・・・そりゃ、あそこは泣くでしょ、普通」 バツが悪そうに、前髪をかきあげる篤先輩。 「この二か月、知紗の事、すっごく大事にしてきたつもりだったから」 「・・・」 「超好きって伝えてきたつもりだったから」 「・・・」 「いつだって何してたって、知紗の事、一番に考えてきたつもりだったから」 一つ一つ、強く口にした先輩は、 いつもの、あたしの反応を見て愉しむような口調とは、本当に全然違っていて、 「それなのに、やっと知紗を抱けた直後に、あんな宣言がくるとか、思わないし」 でも――――――、 もし、それが先輩の本当の気持ちなら・・・、 「・・・――――――じゃあ、それじゃあどうして、クリスマスの後のデートの約束が一つも無いんですか?」 「え・・・?」 「だからあたし、・・・きっと、今夜・・・一緒に過ごしたら・・・、きっとそれが最後で、振られちゃうんだって・・・」 それでも、たった一度でいい。 大好きな人と、素敵な思い出を作りたい、 「・・・"初めて"は、絶対に先輩がいいと思ったから、あたし――――――ッ」 「ちょ、待って、知紗」 先輩が、ベッドに座ったままのあたしの方に近づいて来る。 「せんぱ、」 伸ばされた先輩の手が、あたしの頬に触れた。 裸に、シャツを着ただけの先輩が目の前に居る事に、顔が燃えるように熱くなってしまう。 そんな事、慣れた様子の先輩は、特に恥ずかしがっている様子もなくて、 「それって、――――――俺が知紗と別れようとしてるって、そう思ってたって事?」 ――――――う、 答えは口に出来ず、心の中で反省に溺れて唸りながら、あたしはただコクリと小さく頷いた。 しばらく、呆気にとられたような篤先輩の顔がずっとあたしの正面にあって、 「―――――俺、知紗に、なんにも信じてもらえて無かったんだね」 「・・・・・・ぁの」 「そういう事だよね?」 「・・・すみません・・・」 篤先輩の眉が下がったのを見て、ズキンと胸が痛む。 そうだ。 つまりあたしは、 付き合ってからたったの一度も、 篤先輩を 篤先輩の言葉を、 何一つ信じていなかったって事だ――――――・・・。 好き。 そう篤先輩が口ずさむのは、キスをするくらい慣れた事で、 今、あたしに興味がある内は楽しんで、 飽きれば、また別の人に、同じように囁くんだろうな――――――って・・・。 「ごめんなさい・・・」 「・・・まぁ――――――、俺の自業自得なのかな」 はぁぁぁ、と深いため息の後、篤先輩は小さく笑った。 そして、 「知紗!」 突然大きな声で呼ばれて、 「はッ、はい! ――――――きゃ」 反射的に返事をした瞬間には、あっという間にベッドに押し倒されていて、 「あのね」 「はい!」 「俺、すっごく性欲強いの」 ――――――え? 「本当は、付き合ったその日から、知紗が可愛くて、知紗とシたくて、ほんっとうに仕方なかった」 「・・・」 「そんな俺がさ、二ヶ月以上も我慢したワケ。右手が恋人とか、かなり久しぶりで照れくさかったし。一回ヤったら、正直、大みそかとか初詣とか、そんなの完全に翌年にまわして、しばらくはイチャイチャしたいのが本音」 ――――――だから、年末年始のデートプランは口にしなかったんだ・・・。 「というワケだから」 チュ、 耳の下にキスをされる。 「――――――・・・先輩?」 疑問を返したあたしを優しく見つめて、また耳の下にキス。 チュ、チュ、チュ、 何度も何度も繰り返されている内になんだか敏感になってきて、 「・・・先輩、・・・なんか、きゃ」 チュ、チュ、 それはまるで、いつかカゴの中に見た事がある、鳥の求愛。 「ふふ、先輩、くすぐったいです、――――――先輩」 我慢が出来なくなって思わずクスクスと笑い出したあたしを、 「――――――先輩?」 「もうやばい。もの凄っごく可愛い、知紗」 幸せそうな蕩け顔で見下ろしていた篤先輩に、胸がキュンとする。 「俺ね――――――」 先輩の指先が、あたしの髪を優しく梳いた。 「知紗を初めてあの雨の中に見た時」 その言葉の合間合間に、まるで言葉を肌に縫うようにキスを繰り返す先輩からの、 「まるでツリーのてっぺんの星を見つけたような気になった」 泣きたくなるくらいの甘い告白。 「それからずっと、知紗の事を思い出すと、凄く目の前がキラキラして、あのオレンジの傘みたいに、俺の世界が明るくなったんだ」 その言葉と同じくらいに、首筋にかかる息がくすぐったい――――――。 「本気だから、知紗」 「・・・はい」 「こうして笑ってる知紗を、ずっとずっと、俺の腕の中に囲っていたいから」 「・・・」 「この星に、真剣に誓うから――――――」 篤先輩はそう言って、焦げ茶色の瞳を優しく細め、 「――――――はい」 あたしの首にかけてくれた、クリスマスプレゼントの星型のチャームを、ピンと指で弾いた。 今夜は 初めての恋に戸惑って足元ばかり見過ぎたあたしは、 あたしらしくボタンを掛け違え、随分と遠回りをしてしまったけれど、 「あたしも、頑張ります、先輩」 ずっとずっと、先輩が見つめてくれる星でいられるように――――――。 「・・・可愛い、知紗」 ――――――・・・あれ? 心なしか、先輩の焦げ茶の眼差しに、火がついたような気がします。 「ちょ、先輩」 「あのね、今のは知紗が悪い」 「せんぱ」 「シィ、――――――黙って」 甘い甘い先輩の声が、あたしの耳元に煌めきを落とす。 「好きだよ、知紗」 キュンと痛くなる胸を、自分で抱き締める事は出来なくて、 先輩に抱き着くことで、抱きしめてもらった。 「あたしも、大好きです、先輩――――――」 ――――――世界に奇跡が降りた時、そのベツレヘムに導く星を、いったいどれだけの人間が目にしたのか。 あの雨の日。 あたしと先輩の星は、それぞれに同時に輝いた。 そして、その互いの星を育めるのは、二人が培う時間だけ――――――。 「知紗、来年の 「はい――――――」 そして、 言葉を交わすごとに甘くなる、これから二人で育てる"実"の色は――――――・・・、 「知紗、顔赤い」 「・・・」 「食べちゃいたいくらい、可愛い」 「・・・ひゃ」 「――――――ほら、やっぱり美味しいや」 「・・・い、意地悪、です・・・、先輩・・・」 「・・・その顔、超反則」 「え・・・?」 きっと、 今の篤先輩の顔と、 |