小説:食べられる花


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Episode:資


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 雪の家に足りないのは、俺達が一緒にご飯を食べるテーブルくらい。
 購入を提案すると、雪から出されたのは"折り畳み式以外却下"という事だけ。
 温度差を思わないわけじゃなかったけれど、新年早々、シフト勤務で雪が出社した日に購入してきた。

 床に座っての向かい合っての食事が妙に擽《くすぐ》ったい。
 社食と違って私服だし、なんなら胸の形とかくっきり浮かぶTシャツだし、半パンで、素足で、ほとんどすっぴんで。

 初体験のそんな環境にプラスして、俺の一挙手一投足を、無関心を装いながら追ってくる雪の目の表情がまた楽しくて、気が付けばずるずると入り浸り生活。

 朝起きたら傍に雪がいて、一緒にご飯を食べて、時には送り出し、時には見送られて、帰ってくれば、

 『ただいま』
 『…おかえりなさい』

 すり寄るように頬にキスをすれば、PCの手を止めて応えてくれる雪に、心のどこからかじんわりと幸せが滲んでくる。

 『あ、トマト買い忘れた』
 『…さっき買ってきた』
 『ほんと?』

 俺の好きなトマトが冷蔵庫から切れなくなった事も、

 『もう眠ろうよ。明日早番でしょ?』

 手招きをすれば平気な顔をしながら寄ってきて、でも凄い心臓の音が触れ合う部分から大きく伝わってきてしまう事とか。






 『――――――可愛い過ぎる』


 カードキーでロックされた会議室、これから始まるオンライン会議のために休憩を兼ねて早めに待機していた咲夜さくやに、思わず口を開いていた。

 もちろん、それを受け取る咲夜さくやから、

 "そう言えば、結局あの女とはどうなったんだ?"

 と話を振られた故の応えだという事は、秘書としてのメンツにかけて言っておくけど。


 『へえ?』

 咲夜さくやの、眼鏡の奥の目が僅かに細くなる。


 『最近、お前の調子が良さそうなのはそのお陰か』
 『ん? そう見えた?』
 『ああ。仕事量は確実に増えたのに、以前ほど負担になってる感じがしない』
 『…前はそう見えてたわけだ』
 『否定はしないが…』

 今日の会議の為に俺が用意した資料を開いて捲り、咲夜さくやは唇の端を上げた。

 『真玉橋が言うには、傍について二年目で、オレの業務スピードに追い付いて下準備が誰のフォローなくこなせるようになっただけでも、かなり凄い事らしいぞ』
 『…素直に受け取っておく』

 親友だからという贔屓目が、最初から無かったとは咲夜さくやも言わないと思うけれど、それを誰にも指摘されないように、もしくは指摘されても鼻で笑えるようにと、出来る努力は惜しまなかった。

 そこまで考えてふと思う。


 『オンオフが…出来るようにはなった…かも…』

 雪と一緒にいるようになって、自分の時間というものを初めて体感していた。
 ユキがいたのはまだ学生の頃で、仕事とプライベートという領域が時間の区別としては存在していなかったし、雪の部屋に入り浸る前までは、寝落ちする直前まで会社の端末を触っていた。

 企業人としてかなり忙しい部類に入る生活を送っている咲夜さくやの秘書になったからというワケではなく、新人社員研修時代から、そのメリハリのラインはほとんどなかったような気がする。

 けれど今、プライベートでどうしても必要な仕事をするのは、雪が趣味の時間に没頭してPCから離れたがらないのを察した時とか、雪がシャワー中の時間を活用してとか…。


 『なるほどな。プライベートを大事にしようとする無意識が集中力に繋がって、成果の効率を上げたというわけだ』

 意味深に笑った後、

 『まあ、順調そうで何よりだ』

 そう言った咲夜さくやの眼差しが、ふと斜めに落ちる。


 『…』

 
 これは多分、咲夜さやちゃん絡み。
 仕事なら、迷ったり悩んだりする時間を惜しむから絶対に懸念は口にする。


 『――――――そろそろお時間です』


 秘書として、俺がそう告げた途端、


 『わかった』


 一切の揺れが咲夜さくやから消えた。

 ここからは、企業家のサクヤ・ロランディ。
 ほんの僅かな仕草さえ、隙を見せる事を拒む完璧な立ち居振る舞いになる。


 考えてみれば咲夜さくやは俺が業務を終了した後も、時差で夜が明けていく各国の会社の仕事が次々と入ってくるわけで、


 …それを加味してスケジュールは組んでいると真玉橋さんは言っていたけれど、


 咲夜さくやのプライベートはもしかしたら、咲夜さやちゃんの事で思考をいっぱいにする瞬間にしか無いんじゃないかと、そんな事を初めて思った。





 ――――――
 ――――


 『あ』


 発見。



 『いたいた。ゆ――――――』


 名前を呼ぼうとして、『はん?』と言いたげな雪の迫力に、声帯を止める。


 『えーっと…藤代さん』

 言い換えたら、ようやく雪から愛想笑いが奮発された。


 『宮池さん、これからお昼ですかぁ?』

 そう言う雪の、手元のカレーはそろそろ終盤。
 仕事の合間にチャットしてるのに、ランチの待ち合わせとか一切応じて貰えない事に寂しさを覚えているのはどうやら俺だけらしい。


 『うん。そう。良かったらここいいかな? お昼みんなとずれちゃって』
 『もちろんですぅ』
 『藤代さん、今週は遅番?』
 『そうなんですぅ』
 『じゃあ次の泊まりは金曜かなぁ』

 ここ数日は、早朝から深夜にかけてランダムに動くスケジュールが満載で、さすがにそれに付き合わせるのはどうかと考えて自分のマンションに帰っていたけれど、約束さえ取り付けられれば活力にはなりそうだ。


 『…話題は厳選してくださいねぇ?』

 そんな俺とは正反対に、舌を小さく打った雪は、頬をピクピクさせながら笑顔を作っている。

 『お行儀悪いよ、藤代さん』

 内心では、ムキムキ毛が逆立っているんだろうなと思うと、楽しくて笑いがこみ上げてしまった。
 部屋の中で二人だったなら、きっと言葉で悪態をつかれながら、その手でポカポカ叩かれたんだろう。

 『…』

 想像するだけで可愛い。


 どうしてここは部屋じゃないのか。
 酔っていないのに、目の前に雪がいるだけで、撫でまわしたいくらい可愛い愛でたいが湧き上がってくる。
 

 『…ねぇ、藤代さんさぁ、周りに人がいない時は別に普通に話してもいいんじゃない?』
 『ダメです。そういうのが気の緩みになってボロを出すんですぅ』
 『ボロ、ねぇ…?』


 社内で会っても下の名前で呼ばない事。
 社食でもし隣に座っても密着しない事。
 この手を餌にして操ろうと思わない事。


 これが雪から出された、いわゆる彼氏彼女としてお付き合いをする為の条件。

 実情が"彼氏彼女"であったとしても、外でいたって普通な"彼氏彼女"を出来ないのであれば、ガンガン攻めた方がいいんじゃないかとも思ったけれど、


 "もし約束を破ったら、二度と部屋に入れませんからぁ。シャットアウトされたかったらいつでもどうぞぉ?"


 なんて脅しに屈して、今に至る。


 『あーあ。残念。藤代さんとオフィスラブしたいんだけどなぁ』
 『いいじゃないですかぁ。不倫かってくらい秘密要素あった方がきっと刺激がありますよぉ?』


 秘密の関係。

 単語だけなら淫靡な蜜の香りもするけれど、それなら、もっと刺激的に社食で手を繋いでみるとか、例えば目で合図しながら合鍵くれるとか――――――、

 『――――――あ』

 俺の呟きに、雪が驚いたように目を見開いて眉を顰める。

 『…なんですかぁ?』
 『いえ、何でも』

 疑いの眼差しが俺を見据えているけれど、正面から受け止めてにっこりと笑い返す。



 …合鍵、いいかも。


 "次に攻める時"は、合鍵までセットで付けてもらおうかな。





 【これが咲夜さくや様の明日の日本側《こちら》のスケジュールだ。すべてオンラインで完了できるよう調整してある。そちらのチーム内で連携しておいてくれ。必要書類はいつも通りボックスに入れてある】
 【承知いたしました。Mr.マダーンバシ。これから四日間、咲夜さくや様の事はこちらのチームにお任せください】


 ホテルの会議室入り口。
 既に閉め切られたドアの前で、真玉橋さんの指示に会釈をして微笑んだのは、ロランディ側の咲夜さくや専属チームでチーフを務めているマリアンさんだ。
 淡い白金髪《プラチナブロンド》に灰色の瞳がとても透明感のある女性で、着ているスーツがいつもお洒落。
 今日は濃いグレーのツーピースで、一見お堅く留まるけれど、細かいフリルがウエストとジャケットの裾に入っていて、銀の留め具の合間にそれがアクセントとなって見え隠れするところが甘くてカッコいい。

 そして、何より注目すべきはそのブランド。
 大学時代、周りにいた女子にアパレル好きが多くて、ブランドはメジャーもマイナーもある程度は知っている俺だからすぐ気づけた。

 咲夜さくやが愛用しているシャツと同じブランドである事に。


 それを加味して観察すれば、二人の距離感に他のスタッフと差異がある事は明らかで、

 …咲夜さくやの親友視点で言えば、ぶっちゃけ元カノ…もしくは現在進行形で大人のお付き合いをする相手ならいいな――――――と、ずっと密かに願っていたりする。
 咲夜さやちゃんと出会う前まではそれなりに男として遊んでいたわけだし、行き場がなさすぎる想いを昇華するには"新しい恋"とも、今の俺なら言えるからだ。


 実際そうなのか、そうでないのか。

 それを話すような咲夜さくやじゃないから、真実を知る事はこれから先もないだろうけど。


 『宮池、昨夜からご苦労さん。今日はこれで上がりか?』

 会議室から離れたところまで歩き進み、真玉橋さんが尋ねてきた。
 窓から見える景色には、まだ夕陽はかかっていない。

 『いえ。咲夜さくやが戻ってきてからの方が忙しいですからね。今のうちに出来る事を片づけておきますよ』
 『徹夜じゃないのか?』
 『明け方に仮眠とってますから、まだ大丈夫です』
 『そうか。あまり無理はするなよ』
 『はい』
 『ならここで解散だな。私は明日から二連休だ。もし何か起こっても、出来るだけ連絡せず、限界まで頑張ってくれ』
 『ぷ、…わかりました』


 さすがに、最近のハードスケジュールの疲れが滲みでてきているのか、そんな言葉を漏らして歩き出した真玉橋さんの背中をロビーの途中まで苦笑いで見送って、


 『駐車券駐車券――――――と、その前にトイレ』


 コンシェルジュのデスクに向かいかけていた足の方向を変えながら、PCの入ったバッグのポケットからベルトを取り出して斜め掛けの仕様に変えた。

 それを頭から被るような動作をしつつ、行きついた廊下の角を曲がる直前、


 『きゃ』
 『ぅわ』


 バッグに気を取られていたせいで、ほとんど真正面からやってきた人と無防備にぶつかってしまった。

 『…っと、』

 ちゃんと肩にかかっているんだから落とすはずもないけれど、反射的にPCの所在を確かめてホッとして、それと同時にバサバサと絨毯に雑誌が流れる音が耳と視界に入ってくる。
 俺よりも、相手の状況が散々みたいだ。

 『すみません、大丈夫ですか?』
 『いいえ、あたしの方こそごめんなさ…あれ?』
 『え? 千愛理さん?』
 『たくみ君』

 目を丸くして俺を見上げているのは、久しぶりに顔を見たルビさんの恋人、佐倉千愛理さんだった。








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