小説:食べられる花


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Episode:資


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 ふわふわの柔らかそうな髪を大きなバレッタで纏め留めて、そこから零れる一筋が凄く色っぽいのに、印象の結論は"可愛いらしい"。

 ルビさんと同い年だから確実に三十歳は超えてる筈なんだけど、"パステルカラーのガーベラのようだ"と、ルビさんが言葉を惜しまず愛でて囁くのも納得の、本当に可愛いらしい人だといつ見ても思う。


 俺から見た千愛理さんは、雪が猫なら、小型犬――――――パピヨンというイメージ。


 『お花生けにきてたんですか?』

 適度に外光が遮断されたホテル内のカフェ。
 千愛理さんがやってきたコーヒーを一口飲んだタイミングで、俺は改めて切り出した。


 『ううん。今日は打ち合わせ。イベントがある時はいつも声をかけてくれるの、このホテル』
 『へえ、打ち合わせとかあるんですね』
 『もちろん。色味とか、設置台の大きさとか、トータル的なイメージも含めてちゃんと話し合わないと』
 『お花もそんな感じなんですね』

 俺も、遅れてやってきたホットカフェオレを口にする。
 甘い香りと、気を張らない千愛理さんを目の前にして、仕事モードはすっかりオフ。
 完全なプライベートタイムだ。

 『――――――見てもいいですか?』
 『うん』


 千愛理さんが頷いたのを見て、俺はテーブルに重ねて置かれていた本のうち、一番上の一冊を手に取った。

 表紙の監修に記載されているのは"佐倉千愛理"の文字。

 高校生の時からルビさんの持ち会社である"Stella"をはじめ、あちこちの企業とタッグを組んで実績を積んできた千愛理さんはかなり知名度のあるフラワーコーディネーター。
 叔母さんから受け継いだ店《ショップ》があるから活躍の幅は最小限にしているらしいけれど、とにかく引く手あまたと言っても過言じゃない程の人気アーティストだ。

 テーブルの小さなアレンジメントから、大小様々な花器に合わせたコーディネートの基本、そのポイント。
 ページを捲る毎にカテゴリが違っていて、素人にも飽きさせない内容になっている。

 クライマックスはブライダルブーケ、花冠――――――、


 『ボルトスノー…?』
 『え?』

 資材として使われた花の名前に、意図せず思考を取られていた俺に向かって、千愛理さんが少し身を乗り出してくる。

 『ボルトスノーはね…ほら、この薔薇だよ? 花弁がたっぷりで綺麗な薔薇でしょう? 見映えするから写真撮影とかによく使われるの』

 そう説明した後に、『――――――ああ、そっか』と千愛理さんが目を細める。


 『ユキちゃんの名前だね』

 そう言いながら、別の本を開いた千愛理さんは、楽しそうに言った。

 『白薔薇には幾つかあるんだ。名前にスノーがつく薔薇』

 分厚い本を惜しげもなく開いたページでギュっと押さえて、水仕事や棘とりでカサカサになっている指先で教えてくれる。


 『ほら、トワスノーホワイトに、アニシススノー、ハッピーオープンスノーと…スノージュエル、スノーフレグラント、――――――それから』



 千愛理さんが示す前に、俺はその名前を見つけていた。



 時間が、止まった気がする。






 『マイ、スノー…』





 花自体は小ぶりだけど、凛とした見目の花弁。
 純白というよりも、少しグリーンがかかった爽やかな色。



 マイ、スノー。


 My Snow――――――俺の、雪。



 うわ、


 『…ッ』


 色んな意味での悲鳴が口から零れそうになって、思わず手で口を押さえた。

 ちょっと待って、何て言うか、凄く恥ずかしい気持ちで悶えそうなんだけど。




 『たくみ君…?』


 呼ばれて目線を合わせれば、俺の体たらくに呆気に取られているんだろう千愛理さんが驚いたように眼を見開いていて、


 "千愛理の目は見ない方がいいよ。何もかもを映し出す鏡みたいで、丸裸にされるから"


 ルビさんがいつも言うそれは、千愛理さんを他の男に見つめさせない為の方便だと思っていたけれど、どうやら違っていたらしい。


 可視線。

 千愛理さんの眼差しは、そんな表現が似合う力強さがある。


 『…』


 ほとんど本能的に目を逸らしかけた時、



 『――――――白薔薇の花言葉は、純潔』

 まるで呪文のような千愛理さんの囁きが、心の毛並みを撫でた気がした。



 『99本だと、ずっと好き』
 『ぇっと…』


 『40本だと真実の愛』
 『…』


 『13本なら友情で、12本なら恋人になって』
 『ぇ』

 一本違うだけで悲惨な結果だ。
 手渡す土壇場まで何十回でも数えなおしそうだ。


 『3本だと愛してる。それから――――――』


 千愛理さんの目が、俺を捉えたままゆっくりと瞬いた。



 『1本なら――――――"君だけ"』




 君だけ。



 ドクン――――――と、俺の胸にその言葉が刺しこまれた。

 同時に、千愛理さんの唇も微かに動く。


 『――――――マイスノー』


 紡がれた、確認するようなその言葉に、やばい、恥ずかしさで死ねそう。


 『…スノー…、Snow…雪…、――――――僕の、雪…?』
 『千愛理さん…、それは…』

 一人称が"僕"なのはルビさんで、さすが相思相愛、置き換えも隙間無し。
 形勢逆転、揶揄《からか》ってやろうと口を開いてはみたけれど、千愛理さんの真っ直ぐな目線に、次の言葉が出てこない。


 『たくみ君の好きな人、雪さん…?』


 嘘でしょ。

 この人、実はメンタリスト系?


 『いえッ』
 『…え?』


 違うの?

 千愛理さんは首を傾げただけなのに、何故か見えない壁際まで追い詰められたような錯覚に襲われて、


 『その…』


 顔が、絶対に真っ赤だと思う。

 それくらい、どうしようもない熱が、口の周りに溜まっていて、


 ルビさん、信じてなくてごめんなさい。
 あなたの千愛理さんに丸裸にされてしまいました。



 『…はぃ』


 本人にも、まだちゃんと伝えていないくらい、曖昧な自覚だったのに、


 『まぁ、そういう事、…です』


 肯定する自分の顔が一体どれだけニヤけているかなんて、



 『そっかぁ』


 凄く嬉しそうに微笑んだ千愛理さんを見れば、嫌でも解かってしまった。



 『ルビ君、きっと喜ぶと思う』
 『…うん』

 初めて出会った時からずっと、弟を見守るように接してきてくれたルビさんは、千愛理さんの言う通りきっと喜んでくれるはずだ。

 『ちゃんと恋人同士になれたら、紹介するつもり』
 『まだそうじゃないんだ?』

 ふふ、と笑う千愛理さんからは、さっきの強い視線はもう感じられない。

 『ん、今は、ソイカレ? してる』
 『そいかれ…?』
 『あ〜、男女の行為なしで、ソイ状態で一緒にただ寝るだけの関係? の事みたい』

 漫画の王子様にさせたい裏夢リストを見られたからには、もう隠すものはないと開き直って、雪はPCにロックもかけず、俺にも自由な利用を許している。
 シャワーに入る間にクリアするよう雪に厳命されたゲーム中、メッセージを受信してアクティブになったチャットボックスで、意図せず見てしまったその履歴。
 彼氏ができたのかという問いに対して、雪が答えていたのはソイカレ。

 セックスしない関係の事はそう呼ぶのかと、謎めいた言葉に、初めて五つの年の差をちょっと考えさせられた。


 Soy大豆彼、ねぇ――――――。


 背中から雪を抱きしめて眠ればまあ、莢に閉じ込めている風に見えるのかな、とそう納得した表現だったけれど…、


 『…んんん? たくみ君、それって』


 何かを考えるように上目になった千愛理さんの眉間が、ギュっと中央に寄った。

 『添《ソ》フレって事かな?』
 『ソフレ?』
 『添い寝フレンド。バイトの子がそんな話をしてたような気がするけど…、でも、たくみ君の言うソイ状態? それがよくわかんないかも?』
 『え? ソイ状態だよ?』
 『ソイ…Soy? 大豆? 豆って事?』
 『…あれ? 添い寝のソイ? でもほら、シーツ丸ごとこうやって抱きしめれば――――――』

 首を傾げながらも両手を持ち上げて、架空の雪を抱きしめた格好でそのまま横になる事をアピールすると、千愛理さんが感心したように頷いて息を吐く。

 『それは…初めて聞いたけど、でも、そうだね、そうやって守るように抱きしめてくれる彼氏、Soy彼…可愛いかも』
 『うーん?』


 …もしかして、雪とチャット仲間内での造語だった?


 『千愛理さん、ちょっと恥ずかしい結果になるかもしれないので、"ソイカレ"は聞かなかった事に』

 生真面目に告げると、千愛理さんが笑いを噴き出した。

 『ふふ、解かった。とにかく、これからその雪さんに頑張るところなんだよね? たくみ君は』
 『…』

 俺が返事をせず、カフェオレを啜るように飲んだ事を良いように扱って、

 『あたしは黙ってるから、うまくいったらちゃんとたくみ君から伝えてあげてね?』

 頬杖をついていた千愛理さんは、ゆっくりとした所作で開いていた本を閉じては、傍の椅子に重ねていく。



 『あ』

 ふと、弾かれたように思考が目覚めた。


 『あの、千愛理さん――――――』




 バレンタインに向けて誰かの事を想ったのは、これが初めての事だった。







 朝の気配に目覚めて瞼を開くと、まずは柔らかそうな雪の髪の毛が目に入る。
 それから穏やかな寝息が耳に入り、薄くなったお揃いの花の香りが僅かに鼻孔をくすぐってくる。

 『…おはよ』

 眠りにつく前は背中を向けて、けれど明け方には、俺の胸に縋るような雪の寝相。
 俺の体に沿うように体を僅かに丸めて懐に潜り込んでいる雪が可愛い。
 ユキもこうして、俺のお腹のところで丸まって寝入っていたのを思い出しながら、旋毛のあたりにキスをするとピクピクと眉毛が反応した。


 『雪…』

 そんな彼女を、ギュっと両腕で包む事が、一番穏やかで安心する時間。


 帰ってきた時、出迎えられる事も大事だと思うし、一緒に食事をしたり会話をしたり、そんな時間ももちろん大切だと思うけれど、

 本当に何にも代えがたいと思えるのは、二人きりのこのベッドの中。


 ただ、俺の腕の中で眠っている雪を、この腕の中に留めておけるこの時間。
 世界に、まるで二人しかいないような、そんな幸福に満たされる。




 ――――――
 ――――

 『はい、たくみさん、ハッピーバレンタイン』

 ランチタイム。
 ピークを過ぎたいつもの社食で、にこやかに微笑んだいずみが俺の目の前に置いたのは、小さくて高級感の漂う黒の紙バッグ。
 タグのように下がったメッセージカードには、連名でお馴染みの四人の名前が入っている。

 『…』

 一応、今夜の食事には誘ってあるけれど、もしかしたらこっちで義理完了とか、ありそうだな。
 期待はやめておこう。

 『いつもありがとうございます、水瀬さん』
 『どういたしまして』

 箸を置いて恭しく受け取って、それからいずみの周囲に視線をやった。

 『一人?』
 『そうなの。春日井さんは休暇で、武田さんは出張中。藤代さんはタイミングが合わないかもって言ってたから今日は誘ってないの』
 『残念、顔を見てお礼言いたかったのに』
 『私もまさか、一人であげるハメになるなんて思わなかったわ』

 そう言って、直ぐに立ち去るだろうと思っていたいずみは、何故か椅子を引いて座り込んだ。

 『相変わらずもてもてねぇ』

 俺の隣の席に重なった幾つかの包みを見下ろして、赤い唇を、微笑みから"にんまり"という形にしたいずみにこっそり身構える。
 頬杖をついて目を細めるいずみの、妙に伸びた語尾。

 これは危険区域。

 周囲との距離を窺いながら、いずみはほんの少し首を傾げた。

 『最近マンションに帰ってないみたいねぇ。どこにお泊りしてるのかしらぁ?』
 『…まあ、色々と』
 『ほら、ここ数年、お遊びのお友達もいなかったみたいだし、仕事も大忙しよねぇ? 佑《たすく》見てるからそれは解かるんだけどぉ、小母様も心配してたしぃ、私なりにちょっと観察してみてたんだけどぉ』

 わざとらしく肩をくねくねさせて言い募るいずみの目は、その言葉の柔さとは裏腹に、既に捕獲態勢。

 『たくみ君、なんだかお肌ツヤツヤぁ。目も血走らなくなったわよねぇ。なんか、安眠取れてるって感じ。満たされてるって感じ。この世の春って感じぃ』
 『――――――そう? 始めたサプリが効いてるのかな。おっと、そろそろ戻らないと』

 立ち上がろうと持ち上げたトレイに、思いもよらない重力がかかった。

 『たくみくぅん、随分と効き目の良いサプリみたいねぇ。もしかして、前に話してたスノウマーク?』

 ユキジルシか。

 『…』

 思わず押し黙った俺に、いずみがカッと目を見開いて声を上げる。

 『食べちゃったの!?』
 『食べてない!』

 …まだ、最後までは。








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