小説:食べられる花


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Episode:雪&資


 雪が泣いてる。

 無防備に表情を崩して、他人のための"藤代雪"を演じる事もなく、ただ俺だけの為に、俺を想って、雪が泣いている。

 好きな人が自分の為に泣いている姿を見て、口元が緩む俺のこの神経。
 けれど、その歪さを認める言質は取れた。


 「――――――忘れないよ」


 もう二度と、この掴んだ手を離す気はないし。
 もう二度と、雪を目の届かない場所に置いたりしない。


 「だから雪も、もう一瞬だって俺の傍を離れないで」
 「ぅん…うん、うん――――――」


 俺の胸に額を擦りつけるようにして何度も頷く雪は、このままコンパクトにしてしまいたい衝動を揺さぶる。
 テレポーテーション出来たら、直ぐにでも部屋のベッドに押し倒すのに…。


 ああ、久しぶりに触れる雪の柔らかい髪――――――。

 耳の下から首筋のラインは俺の掌に吸い付く様にぴったりで、顔を上向きに促して、親指で頬を撫でれば半開きになる唇の無防備さもそのまんま。



 意地になって、他の誰かに触らせてないよね?
 やけになって、他の誰かに触れてないよね?


 「雪――――――、ね、これから俺の部屋に招待していい? 話したい事、たくさんあるし」
 「…初めてだね、たくみがお部屋に呼んでくれるの」
 「一介のサラリーマンが一人で住んでちゃおかしい物件でしょ、あそこ。色々説明しないといけなくなる気がして、…躊躇《ためら》ってた」
 「ぅ…まあ、そう、かも…」

 自分の過去が絡むと、話すことに勇気が必要だなんて普通はない。
 国外で育ち、パブリックスクールで特殊な家庭環境が平均的な同級生に囲まれていた俺は、両親に愛され、本当の意味で普通に育った亜希を見て、改めて自分を知った。


 「ねぇ雪、前に俺が話したこと、覚えてる?」
 「え?」
 「雪とずっと一緒にいたい。家族になりたいって」
 「…」
 「あの時から、俺の気持ちは変わってない」
 「…ぅ」


 あーあ、せっかく止まってた涙が、また出てきちゃったね。


 「――――――藤代雪さん」


 逃げられないように、しっかりと左腕で雪の体を抱え込む。


 「俺と結婚して、宮池雪になってください」
 「おう、ぉう、…おうじぃいいい」

 あ、なんかもう、可愛すぎるんだけど。


 「返事は? 雪」


 俺の胸に顔を埋めて、


 「なりましゅ」


 コクコクと頷く雪の口から聞こえた小声の答えと、噛んだ事による非常事態かってくらいの赤面は、誰にも内緒《ひみつ》だ。



 やっとだ。

 腕の中の雪の形を堪能して、そう言えばここって――――――と顔を上げた瞬間、パラパラと小雨のような音が辺りに響いた。



 「…え?」
 「ひゃ」

 二人の世界から現実に戻って周囲を見渡せば、通行人が足を止めて俺達を見ていて、その中の数人がただ嬉しそうに小さく指を叩いているのがその音の正体。


 「――――――行こ、雪」

 恥ずかしさと気まずさが混じって、速攻で雪の背中を押しかけたけれど、


 「あ、王子、ダメだから!」
 「え?」

 甘い雰囲気から一転、眉間に皺を寄せた雪が、俺が故意に倒した空き缶入れを指さしている。


 「…でした。ごめん」

 カゴを起こして、散らばった空き缶を二人で片づけ始める。
 恋人達《コト》の顛末を観賞し終えた人達は、それぞれの方向へと歩き出した。


 「――――――あ、そうだ。あとでユキの写真見せるね」

 言いながら、どの写真を見せるか脳内で素早く吟味していれば、

 「え、要らない」

 一刀両断。

 「見たら全部想像できちゃうもん。それはヤだ」

 ぷいっと口を尖らせた雪は、少し遠くまで転がっていた缶を追いかけていく。


 「元子さんの言う通り、すっきりしたし、それでもあたしと王子の色はちゃんと残ってたから、もういいの。はい、おしまい。クローズ」


 「――――――元子、ちゃん…?」

 反芻するようにその名前を口にすれば、「あ」と雪が口に手をあてる。

 「会ってたの?」
 「偶然会っただけ。普通に、道端で。"Stella"の前で?」

 あ、早口になった。
 …怪しい。

 「何話したの?」
 「……適当、に?」

 絶対にそんな感じじゃなかったよね?


 「雪」

 にっこりと、優しく微笑んだつもりだったけれど、なぜか雪の片脚が一歩だけ後ろに下がった事は見逃してない。


 「帰ったらまずその話からしようか」

 平和を脅かす存在は、しっかりと把握しておかないと。





 雪に言わせれば、それからの俺達は電光石火。

 途中から雪が不機嫌になるくらいにその体温を貪って、翌朝には朝食の席で伯母さんに紹介して、その翌週には伯父さんからアポを取ってもらって雪の両親に挨拶に行った。
 社会的には地位も名声もある人達だけど、親としては金払いの良さだけでようやく最低ライン。
 ただし、俺もそういう人間《おや》を身近に知っているから、特に思う事はなにもない。

 棘がある振りをしていても、性根が優しい雪はきっとこれからも無意識のうちに期待を芽生えさせてはかすり傷を負い続けるんだろうけど、次の瞬間には忘れてしまうくらいに、俺が構えばいいだけだから問題はない。
 ただ、二人がこれまでと同様、生半可な気持ちで雪に関わって来ないようにと願うだけだ。



 「たくみ、お昼どうする? 一緒行く?」

 財津に声をかけられて、集中していたPCの画面から顔をあげて時計を見れば、もう十二時。

 「あ〜、いいや。午後一は会議室にあがるから。その前に咲夜さくやと資料のブリーフィング予定なんだ」
 「りょーかい。じゃあ〜ね〜」

 今日は目黒さんは休暇で、真玉橋さんはロランディのマリアンさんと打ち合わせで夕方戻り。
 咲夜さくやは無謀にも、GW中にすべて海外で予定していた仕事を、日本で決済したいと言い出して、それ以来一日二十時間は働いている。
 こういう時の時差って、ビジネスマンにとっては武器であり毒であり、まさに諸刃の剣。

 「…」

 結構続いてるよな、その――――――"彼女"…?

 咲夜さやちゃんと彼氏が実は破局していたという確定情報が俺のスマホに齎されたのは数日前。
 咲夜さくやにはそれより以前にその可能性について伝えていたらしくて、でもその頃にはもう、今の彼女とシティホテルに籠もった後。

 "遊園地なんか久々に行ったよ"

 そう漏らした咲夜さくやの表情があまりにも蠱惑的で、こういう顔で攻められているんだろう"彼女"に、ちょっと同情したくらいだ。


 「それにしてもさ」

 タイミングが、いいんだか、悪いんだか…。


 ほんとに、咲夜さやちゃんの事に関しては、咲夜さくやはとことん持ってない。
 縁がなかったと、その一言で収めるしかないよな。

 まあ、まだ咲夜さやちゃんへの想いがあったとしても、今が幸せなら――――――、


 「…あれ?」


 社内チャットに、一時間くらい前、昼ご飯を持っていくと俺が伝えたメッセージに咲夜さくやからの返信が入っていた。

 「気づかなかった」


 "昼飯はいい。お前はゆっくり食べて来てくれ"



 「…だから、ご飯はついでで、ブリーフィングなんだって」

 俺がわざわざ会議前にそこに行く目的を、咲夜さくやはすっかり失念しているらしい。




 それから十分後。

 会議室の前で俺は漸《ようや》く、咲夜さくや咲夜さやちゃんに物語が始まっている事を把握した。






 「――――――じゃあ、やっぱりそうなってたんだ、あの二人」


 すっかり一緒に眠るのが当たり前になったベッドの上で、白いシーツにくるまった状態の雪が呟いた。
 その言葉が表す通り、どうやら雪には咲夜さやちゃんサイドから二人の変化が見えていたらしい。

 「まだ咲夜さくや本人からは詳しく聞いてないけどね」
 「なるようになったよね、きっと。良かったんじゃない? 幸か不幸かわかりませんけどぉ」

 シーツを引きながら俺に背中を向けるように寝返りを打った雪に、俺はまた距離をゼロに詰める。


 「…暑い」
 「空調、もっと下げる?」
 「…」

 俺がプロポーズした日から、雪はほとんど自分の部屋に帰っていない。
 最初は気にしていなかったけれど、外堀をこれでもかと俺に埋められていく現状に、多少の不満を覚え始めたらしい。

 「――――――この前の話だけど」

 雪の背中に向かってそう始めれば、肩越しにチラリと振り返ってきた。


 「いいよ。雪がそうしたいなら、奥の部屋は雪専用にしよう」
 「いいの!?」

 目を輝かせて、雪が再び俺の方を向く。

 「俺も仕事で忙しい時期はあるしね。四六時中一緒にいたいけど、雪にもプライベートタイムは必要だと思う」
 「うんうん」
 「でも、鍵をつけるのはやっぱりダメ。何かあった時に手間取るし、…距離が出来たような気になるから」

 少し伏目でそう告げれば、雪の眉尻が僅かに下がった。

 「…わかった。じゃあ、鍵は無しでいい」
 「うん。ありがとう、雪」


 指先で頬を撫でれば、ふい、と雪が目を逸らす。


 「――――――良いように、されてあげてるんだからね、あたしが!」


 精一杯の雪の抵抗に、俺は口元が緩まずにはいられない。



 「うん。解ってる」

 「籍を入れるのは、まだダメだからね」



 「…解ってる」


 俺としては、今すぐにでも戸籍すら染めたいところだけど、これもまた、落としどころまで幾つかの駆け引きが必要だ。

 雪が、「良いようにされてあげているんだ」と、そう言って婚姻届けに署名するまで。



 「雪――――――」
 「ん…」


 額に、まぶたに、頬に、唇に、

 触れるようなキスを落とせば、雪の白い肌が次第に淡く色づいていく。



 「雪、雪、雪――――――」



 この溺れるような幸せを呼ぶ、尽きる事のない名前という呪文。


 「雪、雪…」
 「たくみ――――――」


 時々は、

 可愛らしく爪を立て、
 膨れっ面で牙を剥いても、



 「――――――そんなに名前呼んだら、埋もれちゃうから」


 シーツの口元まで引き寄せて、幸せそうに笑う雪は、


 「一緒にね」


 俺の為だけの砂糖漬けの花エディブルフラワー










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