王子って、もしかしたらそうかもって思ってたけど。 もしかしたらそうなのかもって、思ってたけど――――――! 「信じらんない信じらんない信じらんなぁぁぁぁぁい!」 王子の望む通り、近くまで駆け寄ってから、あたしはありったけの声で叫んだ。 「そんなの触らないで! ほんと無理! 王子のバカ!」 自分の思う通り相手を縛るためには、手段を択ばない。 やっぱりそういう人だ、この似非王子は。 「よいしょ――――――と」 「ぁ…」 王子が立ち上がろうとするその動作にすら、見ていてハラハラする。 万が一、よろけたりなんかしたら、ベチャってその半乾きの 綺麗な手が! って言うか、普通これ、使う? ほんっとに信じられない。 神経疑うから。 「――――――雪が逃げないなら、触らない」 「…」 きっと、あたしの心情なんか読みまくって予想通りってやつで。 でも、王子の綺麗な手がソレ触るの見ちゃったら、あたしにとっては何よりも衝撃映像。 これから先、王子の手を見る度に、永遠にあたしの中をフラッシュバックすること間違いない。 「逃げない?」 薄茶の目が、あたしに向けて細められる。 「…」 …なんだろう。 良く知ってる王子スマイルの筈なのに、なんだか初めて見るような気もする…。 「…逃げない…」 「ん?」 「逃げないよ…」 もう、逃げない。 逃げたくない。 「あたしは…」 もう、逃げるのは――――――…、 あれ…――――――? 言葉と同じくらいの速度で、何だかまあ、引っ込んでいたはずの涙がじわじわと溢れてきてしまった。 「…どうして、追いかけてきたの?」 王子は、 「水瀬さんと、結婚、するんじゃないの?」 涙の向こうにいる王子が、僅かに目を見開いた。 「もう、あたしは、 聞きたくないけど、聞かなくちゃいけない現実。 でないとあたしはずっと、未練タラタラ、王子を心の片隅に置いてしまう。 "どうせ切り捨てるなら、清々《せいせい》するくらい思いをぶつけてやんなさい" そうだ。 欠片一つ溜めずに、全部吐き出すんだから。 「あたしは――――――」 「雪こそ」 言いかけたあたしを遮って、王子の声が放たれた。 「――――――なんで急に、俺を避けたの?」 ああ、本当に綺麗な顔立ちだな。 そんな感想が何よりも先に来るほど、印象深い静かな表情をした王子が、真っ直ぐあたしを見つめてくる。 「あんな風に避けられて、為す術《すべ》もない。…気が狂うかと思ったよ」 何かを思い出したのか、眉間に似合わない皺を小さく刻んだ王子に、あたしの胸がキュッと痛む。 「それは…」 "王子のユキは、あたしじゃないの。――――――誰も、あたしを一番になんかしてくれない" 「でも、あたしだって…」 言いたい事はあるのに、うまく言葉に代えていけない。 あたしだって、 あたしだって――――――…、 「俺の手なら――――――傍においてくれるの?」 「…え?」 「手だけなら、まだ好きって言ってくれる?」 …どうして…? 「どうして、」 そんな思わせぶりな事をほいほい口に出せるわけ? 「…」 あたしじゃない。 あたしじゃないし! そうだよ、悪いのは――――――、 「俺の手なら」 足元から震えのように上ってくるあたしのフラストレーションに全く気付かず、王子はなおも続けようとして、 悪いのは、 あたし、じゃ、 「…――――――手だけじゃない!」 あたしは、これでもかってくらい両こぶしを握り締めて、絞り出すように大声で叫んだ。 きっとそうしないと、言えずに負けちゃうような気がして、 「王子だからいいんだもん! 零れだしたら止まらない。 涙も、パタパタ言葉と同じくらい頬を流れて落ちていく。 留目を知らずに、何もかもがあたしから垂れ流されていく――――――。 「どうしてあたしじゃダメなの! どうしてもあたしは一番じゃないの!」 ユキなんて、 王子にとってあたしより先のユキなんて、 「ユキなんて嫌い! 大っ嫌い!」 雪の口から、 "好きなんだもん" 「え…?」 望みながらも、すっかり期待をしていなかった言葉が聞けた事に、脳内に喜びの花がぽんぽん咲いていくのがわかる。 けれど、 "ゆき"なんて大嫌い。 「え…?」 可愛く大泣きする雪が口にした"ゆき"は、きっと雪のことじゃないんだよなと混乱して、 「…待って、雪――――――」 ちょっと、ニヤニヤしながらも頭を抱えそうになった。 「えっと…、雪…、もうちょっとわかるように…」 言いながら、もうどこかで解ってる。 ――――――なんか、すっごく最悪なパターンが想定されているんだけど。 「なによ! 王子なんか! 死んじゃったユキが忘れられないくせに!」 「…ぇ…っと…」 …まあ、そうだね。 「まだユキが大好きなくせに!」 …否定は、出来ないよね。夢でユキに怒られそうだし。 「あたしの名前呼びながら、絶対にユキを思い出してた!」 「…それは」 ごめん、だって共通点があるからさ…。 でも、甲乙つけてるわけじゃなく、どちらも可愛さを愛でる分だから、そこは雪にもユキにも許して欲しい。 「あたしを身代わりにしてたクセに!」 「………――――――は?」 ちょっと待って。 俺はしばらく、無言のまま雪を見た。 いつもの可愛い雪に、雪らしい真剣な眼差し。 プラスして俺に訴えてくる表情はもう必死で、更に可愛くて、 どうして、雪がユキの事を知っているのか――――――とか。 身代わりって何? 俺別に、ユキの代わりに雪を抱いたわけじゃないし、とか。 もしかしてユキが猫って考えてもない? とか。 なんかもう、色んな感情が体のどっか底からがんがん湧き上がってきて、 これ、 「――――――へぇ?」 本気の本気モードでいいよね? もう。 「ねぇ、雪」 一気に距離を詰めて、手の届くところに立ち位置を確保。 「どうして来たの?」 「…え?」 「ユキの事でそんなに怒ってるのに、――――――どうして?」 マンションの前で、会った時に巻き戻し。 「ぁ…」 偶然なら、きっと言葉につまらない。 つまり、 「俺に、会いに来てくれたんだ、雪」 自分の声が、まるで誰かのものみたいだ。 ねぇ、雪。 俺のこの目、この声、この手も、指も、この体も、 そして一緒にいる時は思考の全てが、 これからは全部、君に向かって行くこと、覚悟して? 「ユキと初めて出会ったのは、パブリックスクールだよ」 あたしの正面で悠然とした微笑みを浮かべる王子の右手が、気が付けばあたしの左手をとっていて、 「な…ッ」 反射的に耳を塞ぎたくなったのに、右手しかその自由がないから、どこか囁くような王子の声が左耳からばっちり聞こえてくる。 「目が合ってからしばらく、お互い動けなくてね」 「や…ゃだやだやだ!」 信じらんないんですけど! 普通、元カノの馴れ初めとか、未練タラタラしてる元カノに語る? 「太陽の加減で黒目が大きくなるのが可愛くて」 「バカバカバカバカ! あああああああああ」 逃げ出したいのに、いつの間にかがっちりと掴まれた手首痛いし、なんか逃げ腰になったあたしの足は頼れない感じだし、最後の手段として大声で聞こえません作戦――――――だったのに、 「あああああああぁぁ…ひゃあ! 押さえていない左耳にふっと息を吹きかけられて撃沈。 「俺が寝てると、構ってって鼻をついてくるんだ」 ううううう、なんかもう、想像力豊かな自分がほんと嫌! ベッドの上の王子がどんなに酷くて甘いか知ってるから、顔無し彼女とでも簡単にイメージ出来ちゃって、なんか凄くムカムカする。 「ユキはずっと外で生きてたから皮膚の感触がちょっと固めでさ。他の子よりあの丸みが全然違ってて」 もう意味わかんない。 何それ、パブリックスクールに通った王子から見たら、元カノはお嬢様育ちじゃなかったって前説《まえせつ》? ワイルドなおっぱいって何なの? 固いおっぱいが好みって事!? すみませんね、どっちかっていうとふわふわ派で! 「んぅぅ…ぅ」 って言うか、 「み…、耳元で話さなくてもいいでしょ! はははは離れてよ!」 久しぶりの大接近状態。 頭の中ぐちゃぐちゃで、 "雪" 王子の呼吸が耳に触れる度、 王子のその優しい声音が鼓膜に染みる度、 もうやだ。 「ぅぅぅ」 大好きな香りが目の前にぶらぶらしてて、抱き着きたいのに抱き着けない状況に、また涙が溢れてくる。 「週末は爪を研いであげて」 …昔からお世話好きなんだね…。 「ブラッシングはユキにとっても俺にとっても癒しの時間で」 …好きだもんね、髪触るの…。 「――――――俺はずっと両親に放置されて育ったから、ユキが初めての家族だったんだ」 ほんの少し低くなった声に、 「……え?」 あたしは放心した状態で王子を見上げた。 そんなあたしを受け止めた王子の瞳は、至近距離だからこそ分かるくらいに微かに震えていて、 「部屋で誰かが出迎えてくれる事、夜中、ベッドで目を覚ましても誰かがそこにいる事」 ――――――それは、 「おう、じ…」 それはあたしも、小さい時からずっと欲しかったものだ。 どうして、王子と一緒にいると幸せな気分になれるのか、その答えはそれ。 お互いに欲しいものを、言葉にしなくても、あたし達は、無意識のうちに共感しあえていたから。 自分がして欲しい事の幸せを定義として、知らぬまま相手に差し出せていたから。 「だからごめんね、雪」 王子が、あたしを見つめてる。 好きだよって、愛してるって、 言葉にしてくれてたあの瞬間の眼差しで、 「きっとユキの事は、一生忘れられないんだ」 それでも、ユキの事を忘れない自分を、好きでい続けてと願ってる。 …その想いが、悲しいくらい、伝わってくる…。 「王、子…」 言葉を紡ごうとすると、喉の奥が息の仕方を忘れたみたいにひっついて、熱くなって、 「たく、み」 自分でもバカみたいだけど、こうして涙が止められないみたいに、王子が愛おしむ気持ちはもう止められないんだと思い知った。 「大丈夫だよ」 だって、あたしにだって克彦君がいる。 欲しかったものを与えてくれた人がどれだけ大切か、あたしは知ってる。 「ユキさんの事、忘れなくていい」 あたしの決意に、王子は僅かに目を見張った。 「忘れなくていい…」 忘れたなんて、嘘をつかれるより、ずっといい。 でも、 「でもね」 自由な手で、王子の胸に触れて、そして服をギュっと掴む。 「でも、――――――あたしの事も、一瞬だって忘れないで。ユキさんを思い出す時も、あたしの事、忘れないで…ッ」 「雪――――――」 手首を掴んでいた王子の手が、あたしの掌へと上ってくる。 指と指の間に王子がゆっくりと入ってきて、まるで、二人が一つになった時みたいだと思った。 |