考えてみれば、ケリと出会って1ヶ月半程度。 どんなに想いが降り積もったとしても、その時間だけは嵩上げできない。 お互いに知っている事はまだ少ないのは承知で、 それでも―――、 彼女の好きなキスの角度とか、 耳の下が弱いとか、 俺に躾けられた指の感度や、 俺とケリとの2人でしか探れないポイントとか。 自分をもってスタイルを貫いていながら、 俺の好みをどんどん取り入れていくネイルや唇の色、 俺の姿を見つけて、芳り立つ呼吸で微笑む仕草や、 キスしたいと強請(ねだ)る時の表情、 震えるように好きだと伝える眼差し、 俺からの電話を待って携帯を握りしめて眠る姿がある事とか――――。 そんな、時間だけでは語れない俺達だけの積み重ねは、ちゃんと、お互いの心の地層になっていると思っていた・・・。 【ロサ・ファンタジアって、まあ美容液なんですけどね】 ミッシェルのマネージャーであるステファン・ホークがそう言うと、 「ロサ・ファンタジアはケリがロスを中心に展開しているエステサロン"Aroma"のブランド商品の美容液なんです」 透かさずトーマが通訳に入る。 【空港からリムジン待ってる間に、まさか! ですよ】 「どうやらそれを入れていたバッグが置き引きにあったようですね」 ミッシェル・ハワードの控室。 さすがVIP用の部屋だけあって、ベッドを抜いたホテル並みの調度品と、奥に別室があるのに驚いた。 今、ケリとミッシェルはその奥の部屋。 居合わせた関係で俺と藤間も招待され、トーマとステファンの4人でソファに座り雑談中だ。 【あなた、日本の俳優さん。アキラ・アマギさんですよね? ケリさんとお仕事するのは初めてですか? ゴッド・フィンガーの事、聞き返してましたよね?】 ステファンが唐突に尋ねてきた。 【ええ、まあ】 曖昧に返しておく。 そういえば、 【マジュ・ケリって?】 ゴッド・フィンガーよりもそっちの方が気になっていたから、俺は尋ね返した。 【ああ!】 ステファンが目を輝かせる。 【マージュ・ケリ。思いついた人、すごいですよね!】 「・・・」 答えになってない事に気づいていない様子だ。 まあ、いいけど――――。 諦めかけた俺にトーマが解説をくれた。 「マージュとは、古い英語で、魔法使いの意味があるんです」 「魔法使い?」 「ケリはエステティシャンなんですよ。彼女の指でマッサージを受けると5歳は若返ると評判で、本店のあるロスでは、彼女の施術予約を取れる女性が上流の証であると言われているほどです。マージュ・ケリ、"マジカル"と呼べるように韻を踏んで誰かか呼称したのが始まりみたいですね」 ・・・マッサージ。 確かに、彼女の指が俺の肌を滑る時は、これまで感じた事のないような何とも言えない甘い痺れが走る。 俺の気持ちの違いで感度が上がっているだけだと思っていたけれど、ケリのテクニックの可能性があるってことか? (これは・・・ちょっと、楽しみが増えたかな) 緩む唇を見られないように頬杖で隠す。 トーマと目が合うと、俺以上にほくそ笑んでいた。 悪戯を見抜かれた気分になり、思わず舌を打ちたくなる。 【ボクがミッシェルさんの前に担当していた女優さんも、開店当初から通ってるって言ってましたよ】 開店当初? ぽつりと疑問が湧く。 俺はそれをそのまま口にした。 【開店当初から女優陣を客にできるなんて、彼女は俺が思っている以上に凄い女性なんですね】 【彼女は専門学校に居た時から有名ではあったようですけど、―――やっぱりアレじゃないですか? ご主人が、】 【ステファンさん!!!】 揚々と応えていた彼を、大声で制したのはトーマだった。 【はいぃ!?】 驚いた様子でステファンが手をあげる。 声を発した当のトーマは珍しく焦った表情をしていて、ゆっくりと上下した喉仏は、まるで冷静を呑み込んでいるように意図的だった。 すれから数秒、ステファンに向けてやっといつもの顔を作る。 【・・・天城氏に、飲み物、何かお出しできませんか?】 【ああ! そうですね。ボクとした事が】 ステファンは立ちあがって冷蔵庫を確認しに行った。 俺の隣で、藤間は何が起こっているのか全く解せない顔をしている。 「―――・・・」 俺はトーマを見た。 『ご主人が・・・』 確かにステファンはそう言いかけた。 "元"がつかないのは癪に障るが、結婚していた事実は知っている。 今、それをこうまでして制御する必要があったか? 「――――何だ?」 疑問を、低く声にした。 「何がですか?」 トーマが目線を合わせてきた。 「何か、あるのか?」 尋ねながら、可能性を模索する。 "元"がつかない・・・、 「・・・まさかまだ離婚が成立していない―――?」 眉を顰めた俺に、トーマが慌てて首を振る。 「いえ。離婚はおよそ3年前に成立しています」 「じゃあ、」 「天城さん」 トーマの目が、挑むように俺を見た。 「ケリが、自身であなたに伝えようとしている事です」 「!」 蘇る、ついさっきのエレベーター前でのケリの言葉。 『アキラ・・・、私・・・あなたに話しておきたい事が―――』 「ですから、僕からは話しませんし、今は、止める事が適う状況だったので彼の言葉に口を挟みました。それだけです」 「・・・」 沈黙が走る。 それを打ち破ったのは、 「アキラさん?」 英語圏から継続された会話に理解ができず、心配そうな藤間の声だった。 「――――大丈夫だ」 俺はそれだけ応えて背もたれに身を投げた。 その時、 「お待たせ」 俺の好きな、静かなトーンの声が俺の耳に届く。 「ケリ」 ドアを開けて奥の部屋から出てきた2人。 すっかり機嫌を直したらしいミッシェルは、完璧なメイクでの登場だ。 ナチュラルなベースメイクと、各ラインのアクセントが彼女の魅力を存分に引き出すメイクアップ。 雰囲気(オーラ)の質が格段に上がっている。 【はあ〜、すっきりした。あなたのマッサージは下手な男とのセックスよりもホルモンに良いわ】 【ミッシェル・・・】 ケリが頬を染めて苦笑する。 ミッシェルが気づいたように肩をすくめた。 【いいの。私は元々貧困の出よ。教養がないのは必然だったし、近所の子供達をまとめていくには言葉だって粗雑になって当然の環境に育ったの。 言葉の綺麗な美しい人を演じるのは女優だからよ。カメラが回っていないうちは、"上品じゃない私"の存在意義なんかどうでもいいわ。 気を許している人の前では、別に私以外の人を演じる必要なんかない】 ミッシェルの考えに同感だった。 ただし、それが許されるのは、それなりの成果を出した一部の人間だけ。 それをつかみ取った彼女は、そういう生き方をする権利の主張を選択できる存在になった。 大抵の俳優は、その権利を持ちながらも、選択どころか、想像すらできないまま消えていくことが多いはずだ。 【そうは思わない? 天城アキラ】 突然に同意を求められ、俺はミッシェルを見上げた。 さっきまでステファンが座っていた位置に腰をかけ、足を組む。 すべての所作が、計算されているように美しい。 まるで海を泳ぐ魚のように、ゆるりゆるりと空気を舞う。 【――――思います】 【スクリーンで観るよりも美しいのね、天城アキラ】 【その言葉、そのままお返ししますよ。―――どの作品をご覧になって下さったんですか?】 【あなたは好きな俳優の1人なの。映画への出演作品はすべて観ているわ。それにしても・・・ケリを味方につけて、今度は女形の役にでも挑戦するつもり?】 【――――そうではありませんよ】 "俺達の関係"を、ケリが何も言っていないのなら、ただスルーするだけ。 友人というより、顧客だろうから、俺のことを伝えていないのは仕方無いと思う。 少し寂しい気持ちになるのは俺の器の問題だ。 俺の顔から何かを読み取ったのか、ケリがこちらをジッと見つめている姿が視界の隅に映っていた。 もう少し、心を落ちつけてからでないと、視線をあげて彼女の目を見る事はできない。 ケリと出会ってから、こんなふうに情けなく思える自分に気付いてばかりだ――――。 【今度のオスカーにはあなたの映画も出品されるわね】 【そう聞いてます】 【"Stella"の件もあるし、来年こそは個人賞、獲れるといいわね】 【ありがとうございます】 【私は獲るわよ】 ミッシェルの眼差しが、光を宿した。 俺は、彼女の出品作品のタイトルを告げる。 【"ピカレスク"ですね】 【そう。私がこれまでで一番集中して没頭できた役だった。私自身の事のように】 【―――ライバルは"マスカレード"】 その作品名を口にした時、ケリや藤間が黙って成り行きに沈黙で従っている中、トーマが、ふと顔をあげた。 ミッシェルが笑う。 【ふふ。よく知ってるわね。日本ではまだ未公開でしょ?】 【公開時にちょうどアメリカにいたので鑑賞しました】 【どうだった?】 【・・・素晴らしい映画でした】 【そうね。分かってる。あれは確かに良かった】 【上流階級からの転落が、胸に痛いほど沁みてくる。人としてのステータスとは何か、常に考えさせられる作品でした】 【・・・貧困層からあがっていく"ピカレスク"と真逆の作品】 【――――はい】 俺が答えると、ミッシェルは楽しそうに問う。 【あなたの印象では?】 【作品としては互角―――】 ピクリ、と笑顔のまま、ミッシェルの頬が震えた。 【個人では?】 あくまでも、俺の評価。 【ケヴィン・モーリス】 その名前を口にした瞬間、 「!」 俺の視界の中で、ケリの身体が大きく揺れた。 (ケリ?) ケリへと、俺の視線がゆっくり動く間、ミッシェルの言葉は続く・・・。 【あなたは正直ね、天城アキラ。ほんと、あの男は"女神"を失っても輝きは失わない。まったく憎らしい男だわ。ケリ―――、】 その時、ケリと、目が合った―――。 『アキラ、あなたに話しておきたい事が―――』 彼女の漆黒の瞳が、後悔に染まって俺を見つめていた。 【あなたの元旦那は――――】 |