―――――空耳かと思った。 『抱いてほしい』 ケリが口にしたそのセリフはあまりにも俺の想定から外れていた事で、 「――――は?」 頭の中でその『抱いてほしい』の意味を反芻してから、思わずそう返してしまっていた。 しまったと思った時には口から出た後で、もう遅い。 彼女の指先がビクリと縮まり、肩が震え出したのが横目に映る。 抱いてほしい、と。 彼女がその望みを口にすることにどれだけの勇気を振り絞ったか、これまでのケリを見る限りでは並大抵の覚悟ではなかった事だと理解している。 俺の一言は、それを全て否定したように届いたはずだ。 ケリの心情を思うと、チクリと胸が痛んだ。 「ケリ」 呼びかけてもこちらを見ようともしない。 この通りには十分な路肩も無いから、車を止める事は出来なかった。 前方に留意しながら、手探りでケリの腕に触れようと手を伸ばす。 「ケリ、悪かった。今のは・・・」 「・・・降ろして」 「!」 強く弾かれた俺の手。 あからさまな拒否に、少なからず動揺が走る。 「ケリ」 「降ろして!!」 「ケリ!」 「意味ない!」 頭を抱えるようにして叫ぶケリ。 「ケ、」 「もう意味ないでしょ!?」 俺を遮って、身体から絞り出すようなケリの言葉。 「あなたに気持ちが無いのなら、もう一緒にいても意味ないでしょ! 降ろして!」 「――――は?」 俺の中で何かが切れた。 今度の聞き返しは、反射だ何だと弁解する気はさらさら無い。 俺に気持ちが無い? 「・・・どういう意味だ?」 自分でも驚くほどの低い声が出た。 胸が熱い。 苦しいくらい、ドス黒い感情がこみ上げてくる。 さっき知らされたばかりの事実。 ケヴィン・モーリスが夫だったという現実。 冷静ぶって、収録の間にどうにか黒い感情を飼い馴らし、余裕のある態度を努めてケリの傍に座っていた俺の中で、確かに、音を立ててそれは切れた。 流れ来る景色の中にコインパーキングを見つけて、急ハンドルで入り込む。 スピードがあった分、僅かな段差にも車体が大きく揺れて、「きゃ」とケリの声も耳に聞こえた。 どのタイミングでチケットを取ったとか、車を頭から突っ込んで止めたとか、全てが無意識で行われるくらい、冷静さは微塵も無い。 車を停止させ、サイドブレーキをかけた後、俺に湧き上がっている感情が怒りだと確認してから、改めて叫ぶ。 「ケリ! 俺の気持ちが無いってどういう、意、み・・・、」 声音は荒いままケリを目に入れると、 「ケリ・・・?」 俺は、心が鷲掴みにされた気分だった。 まるで、初めてケリのマンションを訪れた夜、眠りながら号泣していた彼女を見た時・・・いや、それ以上の衝撃が、俺に走る。 涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔。 嗚咽を飲むようにして眉尻を下げる彼女の唇はカタカタと震え、俺を見つめる間にも、ぽろぽろと新しい雫が頬を伝う。 愛しさが、胸に突き刺さる。 庇護欲とも呼べる感情がほんのりと灯って、 「ケリ・・・」 俺は、毒気を抜かれたように冷静さを一気に取り戻した。 ゆっくりと手を伸ばす。 指先で涙を拭おうとすると、彼女の体がピクリと動いた。 また拒否されるかと身構えたけれど、また何かが込み上げてきたらしいケリは、両手で口を抑えて泣き堪えるのに必死の様子だった。 「ケリ」 濡れた前髪を手梳して顔から避けてやり、その顔の輪郭を両手で包むようにすると、自然と彼女の手と重なる。 「うぅ・・・」 俯きそうになる彼女の顔を支え、その額にキスをした。 「ケリ、ごめん。俺が悪い」 瞼に、頬に、続けてキスをして、震える華奢な肩を抱き寄せる。 最初は小さな抵抗が感じられたが、しばらくすると、嗚咽の余韻で生じる震えだけが伝わるようになった。 そして、俺の首筋に当たる、落ち着いた様子の彼女の温かい吐息にホッとする。 「あの後、不安にさせたまま、放置して悪かった――――。」 この"ケリ"という人の形、その存在を抱きしめる事が、ただそれだけでこんなに幸せだと感じるのに、俺の不甲斐無さで失いかけるなんて、 なんて馬鹿だったんだと反省する。 「ア・・・キラ」 頭を何度か撫でて、身体を離した。 「―――酷い顔だな」 クッと笑い、バックミラー近くのルーフに備え付けてあったティッシュを数枚取って、ケリの顔を拭ってやる。 そんな俺の手首に恐る恐る縋ってくるケリの指先。 水晶のような透明感を纏ったケリの漆黒の瞳に、俺が映っている。 ケリが、一心に俺を求めている。 初めて彼女を抱いた時に感じた。 ケリが"俺の女"だと解した瞬間。 あの時の感情の再現。 再来する、支配欲――――。 「ケリ・・・」 食むように、その濡れた唇を俺の唇で挟んだ。 何度か啄ばんで、離れてケリを見ると、何かを言いたそうな様子が伝わってくる。 わざとそれには構わずに、俺は親指でケリの唇をなぞる。 「俺に気持ちがないなんて冗談だろ?」 「アキ・・・」 「"香織"」 俺がそう呼ぶと、ケリはハッとしたように目を見開いた。 「アキ・・・、ッ」 少し開かれたままのケリの唇を割って、俺の指を銜えさせる。 暖かくて柔らかい舌の感触を、2本の指で求めるように回す。 同時にケリの耳に舌を這わせると、 「んッ・・・」 切なげな声がケリの喉から零れた。 元夫の正体を知った時から、俺に渦巻いているこの感情をどうやって彼女に伝えて晴らそうかと考えていたけれど、 ――――結局この方法が、どんな言葉の羅列よりも一番早い。 「俺の気持ちを疑った罰――――」 首筋を舐めながら囁くと、ケリの身体がビクリと震えた。 繋がりたいんじゃない。 俺のこの子供染みた独占欲は、こちらから攻める事では溶けて消えない。 目的はたった1つ。 狂うほどに、俺を求めさせたい――――。 これまで感じた事が無い欲望が、俺を埋め尽くしていた。 |