僕の母親であるケリが、ようやく離婚を決意したのは、3年半前のあの日の事。 きっと、"あの日"がなかったら、ケリは未だに泣きながらも、あいつの傍にいたんだと思う―――。 その日は、大学の午後の講義が休講になったのは、多分そういう運命だったんだろう。 スキップでの特待生だった僕には親しい友人は少なかったし、大輝をはじめとするその数少ない友人達はもちろん授業がある。 その頃、"Stella"は既に大半の経営をエリカに任せていて、企業の切り売りをしていた投資会社の方も珍しく落ち着いていた時期だったから、突然、半日の暇を持て余した僕は、ケリが好きだった大学前カフェのチョコケーキをホールで買って、普段とは違う時間に帰路に着いた。 当時のケリは、"Aroma"の経営者として振舞う時以外はまるで人形のようで、妻として、あいつからどんなに酷い扱いを受けても、ただ静かに微笑んで頷いていた。 正直言って、ケリがケヴィンの何に縋っているのか、当時12歳の僕には全く理解できず、離婚調停をすれば絶対負けるはずがないのに、と。 "ケリ自身"の事も訝しかった。 何気にそうぼやいた時、 【愛が混ざると、人の感情はそう単純ではないんです】 苦笑して僕の問いに応え、空を見上げたウェインの哀しそうな顔を今でもはっきりと覚えている。 【ただいま】 玄関を入ると、二階への螺旋階段があるエントランススペースでメイドのイリーナや料理長のジョン達が立ち尽くしていた。 みんな、僕が生まれた頃からいるメンバーばかりだ。 【・・・ルビ様! どうして・・・】 イリーナが驚いた顔で僕を見つめている。 黒い肌に目立つ白目が、いつもの2倍は見開かれていた。 【? 講義が無くなったから帰って来たんだよ。なに? 何かサプライズの準備中だった?】 茶化してみたけれど、誰の顔色を見ても、子供にも分かる異様な雰囲気。 【旦那様が・・・!】 【おい、やめろ、ルビはまだ子供だぞ】 【だって・・・ッ】 泣きそうなイリーナ。 既に泣きだしているメイドもいた。 【あいつ? 居るの!?】 辺りを見回すようにして、状況を感じようとした。 そして、耳に入ってきた微かな喧騒。 ――――――、 【いや! やめて、ケヴィン!】 【ケリ、どうした? 僕のことが好きだろう?】 【やめて、酷いわ! 酷い!】 体中の血が、沸騰するかと思った。 ケーキの箱が落ちる音が、僕の何かが潰れる音と重なった。 【ルビ様!?】 重なる制止の声を背後に、螺旋階段を一気に上る。 2階の奥にあるリビングにたどり着くと、半ば開いているドアから見える、床に組敷かれたケリ。 覆いかぶさる、――――あいつ。 【・・・いやっ! いや!!!!】 涙ながらに懇願するケリに、思いやりの一つもない。 【大丈夫だよ、ケリ。僕を感じた後は、またいつもどおりの日常に還れる】 【ケヴィ・・・・・・っ・・・】 絶望したケリの瞳。 全てを諦めたように、ゆっくりと床に投げ出されたケリの腕の白さが、今でも忘れられない。 身体を揺すられて、ただ泣くだけのケリに、愛の言葉もない行為。 ただの、暴力だ――――。 込み上げてくる熱い涙を呑み込んで、僕は、踵を返してあいつの部屋に向かった。 重厚なデスクの引き出しから鍵を取り出し、施錠された戸棚を開ける。 4発装填式のライフルを取り出して、中に弾が入っているのを確認した。 黒と茶のそのライフルは、僕が思っていたよりも軽くて手に馴染み、まだ子供の体系だった僕でも自在に操る事ができた。 来た廊下を突き進み、弊害となっていたリビングのドアを蹴り飛ばす。 そのドアノブが室内の壁に激しく当たる音がして、ハッとした驚愕の様子で、ケヴィンとケリが僕を見た。 僕の手にあるモノを見つけて、ケリの瞳が何かを言いたがっていた。 あいつの、僕と同じ琥珀色の眼も、少しくらいは動揺したように見えた。 【もう、いい加減に目を覚ましてよ!】 トリガーは、本体よりも軽かった。 射撃場で練習した事がある拳銃よりも、ずっとおもちゃみたいだと思った。 それはきっと、僕の怒りが強すぎて、いつもよりアドレナリンが放出されて大人以上の力を持っていたからだ。 つまり、怒りで我を忘れたという事。 ダアアアアアアアアン! 空気を裂く銃声。 【ッ】 苦しげに、僅かに眉を顰めたあいつ。 瞬間、頬に一筋の血線。 次第に、ぷくりと液体が丸く広がり、涙のようにぽろりと落ちた。 【外した!】 悔しくて、僕ははっきりとそう言った。 撃ち殺す気だったから、出て当然の言葉だった。 この時込み上げていた殺意を、僕は決して否定はしない。 けれど、僕のその言葉に反応したのはケリだった。 蒼白な顔をして、身体を引きずるように起こし、僕の元に駆け寄ろうとする。 乱れた衣服の様が、僕の悲しみを一層駆り立てた。 弾送りをして、2射目を構える。 【ルビ! やめて!】 泣き叫ぶケリの後ろで、あいつは静かに僕を見ていた。 (映画のワンシーンを撮っている気でいるのか?) そう思うほど、あいつは潔く立っていた。 流れる血の色さえも、まるで口紅のようにあいつを彩っていた。 僕の魂からのこの怒りを、まるで嘲笑っているようだった。 【ルビ! やめろ!】 騒ぎを聞きつけ、僕に追いついたウェインが羽交い絞めにしてくる。 【離せ! ウェイン!】 【ルビ!】 【お願いルビ!】 涙でぐちゃぐちゃのケリ。 僕の目からも、つられたように身体が溶けそうなくらい涙が溢れたのを覚えている。 ウェインの温もりが背後にあったからか、 ケリの悲しそうな顔がそこにあったからか。 僕は、心の深い所から出てくる感情を、そのまま口にせずにはいられなかった。 「・・・Mam, It's enough for me(母さん、もう、嫌だよ――――)・・・」 【ルビッ・・・!】 珍しく、嗚咽交じりに泣きながら、 幼子のように訴えた僕の言葉に、僕を抱きしめたケリは何度も頷いていた。 【うん! うん! ごめんね、ルビ――――】 それから半年かけて、裁判を繰り返し、ケリは無事に離婚。 二人で培った総資産の半分である76億円の慰謝料と、ランチョ・パロスバーデスの別荘が12年近いの結婚生活の証。 マスコミが賑わったのはほんの一瞬。 あいつのマスメディアに対するコネクションは強く、ロスの社交界でのケリの人望は厚かった。 各方面からささやかな圧力がかけられて、ほとんどハリウッドの内部ニュースとして型はついた。 ―――あの時引いた引き金(トリガー)の感触が、まだ僕の指に残っている。 "あの日"を境に僕は銃を見るのも嫌になり、寂しそうな女性を見ると放っておけない性分になった。 あいつとは違う、女性を愛せる僕でありたい―――。 そう、祈るように女性を抱く。 それも随分なエゴだと思う。 良い意味でも、悪い意味でも、あの日は僕とケリの分岐点になったわけだ。 ふと、思い出にふけっていた僕が顔をあげると、携帯を手にしたままウェインが僕を見つめていた。 その眼差しの深さに、僕の胸の内に何が想い返されていたのか知っているのだと分かる。 「―――そうだ、ウェイン」 僕は素っ気なく、一つの箱をテーブルに置いた。 「これ、天城アキラに届けておいて」 ウェインが不思議そうに手に取った。 「あいつに頼まれていたアレキサンドライト。代金は小売価格でもらってきてね」 僕の言葉に、ウェインが困ったように肩をすくめた。 「いいんですか?」 「20億は持ってるんでしょ? 2千万くらいケリの為なら大した事ないよ」 「2千万!?」 驚いた声に、僕は清まして答える。 「ケリのものなんだから、最高品質じゃないとね。これでも、大きさを譲歩したからこの値段なんだけど」 その後は、何も言えずに苦笑だけ返してきたウェイン。 ったく。 こんなんで、僕と天城アキラの関係が良好なんて思わないでよ。 『ケリに・・・アレキサンドライトを探して欲しいんだ』 『なんで僕に?』 『逆に訊くが、お前以外に適任な奴が他にいるのか?』 『――――石はすぐに探せるけど・・・何に加工するの?』 『ピアス』 『ふーん、指輪とかじゃないんだ?』 『それはまた別で。まずは、俺の言葉がちゃんと届くように』 こいつ、馬鹿なんじゃないのか? 恋人の息子に、こんな話。 『―――分かった』 『サンキュ』 ―――まあ、しばらくは、ケリを幸せにする権利を、貸してやる事にした。 そのピアスが入った箱を大事そうに仕舞うウェインに、僕は顔を合わせないまま告げる。 「ケヴィンの事、僕が言うまではケリに言わないでね」 「――――はい」 今はただ、感じられる幸せを、ぎりぎりまで感じてほしいと願っていた。 |