昨日装けたばかりのネイルチップが剥がれないように、注意しながらストッキングを上げる。 ドレスは私のお気に入りのワンピースをチョイス。 黒のベルベット。 袖の切り替えの深緑と、ウエストの左についた同じく深緑の大きいリボンがポイントになっていて、そこからスカートがラップデザインになっている。 絶妙な膝丈で、ヒールが高いパンプスを履くと脛が長く見えて美脚効果抜群。 耳元はオニキスのピアスで飾って、ゴールドのバングルでアクセント。 私が、アキラの為に選んだ、私――――。 鏡の中で仕上げを確認したちょうどその時、ピピピと携帯のアラームが鳴った。 「やだ。もうこんな時間?」 慌ててコートを羽織り、バックを取ってウォークインクローゼットを出る。 見計らったかのように今度は携帯が着信を知らせた。 『ケリ?』 「アキラ」 『準備は?』 「なんとか。もうすぐ出れるわ」 『こっちもどうにかなった』 ホッと息をつきながらの耳を擽る甘い声に、 「良かった!」 思わず嬉々として笑みが漏れる。 今夜は、クリスマス休暇を完全に却下された代わりの、四日前倒しの仮想クリスマスデート。 『じゃあ、ホテルで』 「ええ」 『気をつけて来いよ』 「―――はい」 顔が赤らんでしまう。 どうしてこの人は・・・。 ふとした事で幸せを噛みしめる事を、何気ない日々の中の一瞬一瞬に許してくれる人――――。 こんな風に、幸せを与えてくれる人――― トーマが運転する車がホテルの前に正面に乗り入れると、鮮やかなタイミングで後部席のドアが開けられた。 サービスレベルが高いと評判のこのホテルのドアマンが暖かい笑みを携えてお辞儀をしている。 「いらっしゃいませ」 「ありがとう」 私が応えた後を見計らって、トーマが肩越しに振り返る。 「ケリ、良いクリスマスを」 「ありがとうトーマ」 車から出た私がトーマにそう応えてからドアマンを見ると、敏感に察した彼は透かさずドアを閉めてくれた。 私が手を振るのと同時に車は徐行を始める。 ホテルの敷地内から見慣れたベンツが出て行くのを見送って、私はロビーに足を向けた。 厳かな雰囲気の漂う内装。 天井は高くない。 シャンデリアの配置が細やかで、まるで老舗のオペラ劇場のようだと思った。 バッグから携帯を取り出して時間を確認する。 思ってたよりも早く到着できた。 アキラと待ち合わせをしているイタリアンレストランのフロアを確認したくて、手っ取り早くエレベーターを探そうと目を泳がせた所へ、 「お客様、よろしければご案内させていただきます」 初老の男性が声をかけてきた。 ネームプレートを見ると、コンシェルジュの刻印。 「助かるわ。フィオーレに行きたいの」 「イタリアンレストラン・フィオーレでございますね。当ホテルの最上階8階にございます。エレベーターまでご案内させていただきます。どうぞこちらへ」 時々、こちらを窺うようにして僅かに身体ごと振りむきながら、私を先導するコンシェルジュ。 エレベーターが閉まるまで、礼を尽くして見送ってくれた。 (こういう形に残らないサービスは、やっぱりポイントを掴んで印象に残る事が大事よね) すんなりとサービスを受け入れず、分析や改善プロセスに参考にしたいと考えるのはある種の職業病だ。 自嘲して、最上階に着いたエレベーターから降り立つと、まずは右のレストルームへ。 左に行けばフィオーレがあるらしい。 全身鏡で身なりの最終チェックをして、携帯のメール受信に気付く。 件名: 本文:もうすぐ着く 文字から、アキラの声が響いてきそう。 鼓動が、甘く私の体中を巡る。 早く会いたい――――。 とても、 とても幸せな気分で廊下に出て、エレベーター前を通り過ぎ、レストランへ足を進めた時だった。 【ケリ】 ネイティブな発音で私を呼ぶ声。 「!」 全身が総毛立った。 薄皮一枚が、私の身体から脱皮のように剥がされる感覚。 (嘘・・・) 足が、杭で打たれたように、 動けない――――。 【――――ケ、ヴィン――――】 目の前に姿を現したのは、およそ3年ぶりに見るケヴィンだった。 ウェービーに波打つアッシュカラーの光沢のある髪。 最後に見た時と色は違っているけれど、圧倒的な存在感が、脳を浸食するようなその声が、じんわりと伸びてきて、私に絡む。 【やあ。久しぶりだね、ケリ】 【・・・ええ】 何の表情も作れず、私はただ茫然と応えた。 離婚から3年。 接近禁止の期間も明けた。 でも、接触があるとしたら、もう少し先だと思って油断していた。 こんなに、直ぐに来てしまうなんて―――――。 【相変わらず綺麗だ。恋をしているから、かな?】 愛していた声が、懐かしい優しさを振舞う。 けれどそれで紡がれた意地悪を孕んだセリフが、私をビクリとさせる。 【よく顔を見せて】 手を伸ばされて、身体が震えた。 駄目、―――動けない。 2本の指が私の顎に添えられ、顔を上げる事を強要される。 バリアが、その触れられた場所から剥がされていくような錯覚――――。 『俺以外の男に、その身体を触らせるな――――――』 アキラの声が、私の中を反芻した。 【ケヴィン・・・やめて】 力を振り絞って声にして、何とか彼の手を避けるとケヴィンは笑った。 【潤んだ瞳が、色っぽいね。天城アキラのお陰かな?】 【!】 私はハッとして目を向ける。 目が合って、大きく後悔した。 大好きだった瞳の中のヒマワリが、久しぶりに私を見つめていた。 結婚生活の終盤には、もう咲く事は無かったこの輝き。 その光に、胸が痛む。 まだ、私の心のどこかに、それを愛しいと思う感情が残っているというの? 【ああ、それともケリ。僕の事をまだ愛していて、その名残がこんな色香を?】 【・・・やめて―――・・】 じわりと泣きそうになる。 ほんの少し前まで、アキラを思ってあんなに幸せだったのに、どうして・・・。 【僕は愛してるよ、ケリ。この3年、やっぱり君の事だけだった】 『女性で、愛したのは君だけだよ―――』 「やめて・・・」 【君の従順な愛を受け止められるのは僕だけだよ。傷つく前に僕の所に戻っておいで】 『どんなに"男(あいじん)"を抱いても、最後は君の元に戻ってくるんだ。それでいいだろう?』 【"彼"だって、君の"そういう所"を知ればきっと・・・】 泣きそう―――――。 「そういう所って?」 そんな言葉と共に、突然、誰かが後ろから私の肩を抱きしめた。 私を包み込む、大好きな香り――――。 「また俺に嫉妬させる気なのか? あんたは」 「アキ、ラ・・・!」 奈落の底から容易く私を掬いあげてくれる声。 あっという間に、強い希望の光が見える。 大丈夫――――。 声になってもいないのに、アキラがそう伝えてくるのがはっきりと分かる。 ギュッと、彼の腕を抱きしめた。 3人の間に走る僅かな沈黙の時間。 「ん? 今の、聞きとり違ってた?」 私の頭にキスをしながら尋ねたアキラに、私は小さく首を振る。 「待たせて悪かった」 アキラは私を抱いていた腕を解いて隣に立つと、改めて私の手を取って指を絡めてきた。 温もりに、涙が出そうになる。 【で? 俺の恋人に何か用ですか? ケヴィン・モーリスさん】 面と向かってケヴィンに話しかけるアキラ。 この状況はケヴィンも想定外だったようで、一瞬体内時計を止めたように息をのみ、そして笑った。 【いいや。ちょっと彼女が懐かしくて、挨拶だけだよ】 【そうですか? それじゃあ、予約の時間に遅れるので今夜はこれで失礼します。挨拶は、また改めて】 【・・・それはどうも】 アキラに手を引かれ、笑顔を象ったまま瞬きすらしなくなったケヴィンの横をすれ違う。 【―――またね、ケリ】 追いかけてきたケヴィンの声に、私は逃げるように目を閉じて、アキラの手を強く握りしめた。 |