ただでさえ過密な普段のスケジュールに、ミサとの騒ぎや俺の我儘でリスケする事になった仕事が詰め込まれた。 当然、ケリとの関係が始まった頃に"一応"リクエストしてみたクリスマスのオフは、遠一と樋口さんのタッグにより却下。 それに関しては、仕方なく異論せずに呑む事にした。 『最近の事は、長年事務所に貢献してきたお前に免じて大目に見ているんだ。次に何かあったら、今度こそ、社長も報告を受理するだけじゃあ治まらんぞ』 樋口さんの言葉が重く響く。 確かに、これまでの俺は女よりは仕事が上で、仕事の優先順位が下がる俺らしくない所業はケリと付き合うようになってからだ。 (これからの事を考えると、事務所の上層部にケリの印象を悪くするわけにはいかないからな・・・) そんな事を考えている内に、乗っていたタクシーは緩やかに車体を揺らし、ケリと待ち合わせをしているホテルに乗り込んだ。 正面玄関前に停まり、自動ドアが開くとドアマンがその扉に手を添えて歓迎してくれる。 「いらっしゃいませ、天城様」 「ああ。―――釣りはいい」 何度か顔を合わせた事があるドアマンに笑みを返して、後者は運転手に告げる。 ロビーを歩くと、世話になった事があるコンシェルジュが合図のように会釈をしていた。 軽く手をあげてエレベーターに進む。 上昇する箱の中で、サービス業種の人間の凄さを思う。 特にこのホテル――――。 こっちにとってホテルマンは限られた顔触れだが、向こうにとっては星屑ほどの客の中の一人。 顔が売れている俺ならまだしも、二度目に訪れた藤間の名前を呼ばれた時の驚きは今でも忘れられない。 そうか―――。 ふと気付く。 ケリもエステティシャンとして専門職になるのか。 サービス業の、――――経営者。 女としての弱く、泣き虫な彼女しか知らないから、その代名詞に違和感がある。 けれど確かに、ミッシェルをドア越しに対応した雰囲気は少し違っていた―――。 チーンという音が鳴って、エレベーターの扉が開く。 予約しているイタリアンレストラン・フィオーレは左に進んだ先にある。 何気なく、ほとんど無意識にそこへ足を進めて、 「!」 目に入った光景に、俺は指先まで自分の鼓動が響く音を聞いた。 (ケヴィン・モーリス?) 確か、今年40歳。 煙るような色気と、内側から放出される圧倒的なオーラ。 ヘーゼルの瞳は、スクリーンで観るよりも透明度が高く、遠くから観てもまるで宝石のようだ。 日本に来ていたのか―――――。 そして、そんな彼の指に顎を取られ、泣きそうになっているのは、今にも崩れ落ちそうなほどに震えている彼女の身体。 泣いて、夢にまで求めていた元夫を前にしている女とは、到底思えなかった。 今は俺が居るからか? それとも――――、 足音が立たない絨毯の廊下を、俺はゆっくり二人へと近づいていく。 スクリーンの中でしか聞いた事がなかったケヴィンの声が、記憶のモノより少し低いトーンで耳に届いた。 【僕は愛してるよ、ケリ。この3年、やっぱり君の事だけだった。君の従順な愛を受け止められるのは僕だけだよ。傷つく前に、僕の所に戻っておいで。"彼"だって、君のそういう所を知ればきっと・・・】 ケヴィン・モーリスの言う"そういう所"が一体どういうところなのか。 視姦するような強い眼差しは、まるでレーザーのようにケリの心にメスを入れているようだった。 畳みかけるように言われていたケリは、彼の思惑通り、内側から籠絡されているように見えた。 あの黄色に近い火傷しそうなほどの瞳は、ケリにとっての呪縛なのかも知れない。 少し足早に駆け寄って、俺はケリの肩を背後から力強く抱きしめた。 「また俺に嫉妬させる気なのか? あんたは」 「アキラ・・・!」 一瞬強張った身体が、すぐに柔らかく解ける。 縋るように俺の腕を握ったケリの頭に、キスを落とした。 「待たせて悪かった」 そう言いながら目の前のケヴィンへと視線を向ける。 この状況で、顔色一つ変えずに俺の事を見つめていた。 【俺の恋人になにか? ケヴィン・モーリスさん】 【いや、ただ懐かしくて、挨拶をね・・・】 【そうですか。それじゃあ、予約に遅れてしまうので、挨拶はまた改めて】 深く指を絡めたケリの手を引いてレストランへと歩いて行く。 【―――またね、ケリ】 ケヴィンの声が届くと、俺の手を握るケリの手に、ギュッと力が籠もった。 俺も一度握り返し、親指で慰めるように撫でてやった。 レストランの入り口にたどり着くと、俺の顔を見たスタッフが奥の方にエスコートしてくれる。 名前を偽らずに予約したからなのか、案内されたテーブルはたくさんの観葉植物でガードされて、ウォールパーテーションよりもかなり優しい隔離空間になっていた。 メニューを置いてスタッフが去っていくと、 「――――ごめんなさい」 ケリが小さく口にした。 「何を謝ってる?」 「気分・・・悪くしたでしょう?」 俯いているケリの瞳が、悔しそうに震えていた。 惑わされた事を、彼女自身が一番自覚して猛省中らしい。 俺は手を伸ばして、ケリの顎に触れた。 「・・・?」 ケリが驚いた表情で見返してくる。 「消毒。俺のコーティングが剥がされた気がするから」 「――――」 見る見る内に、泣きそうだった顔が笑みに変わる。 ―――可愛い。 愛しさがこみ上げる。 「その服、似合ってる」 俺はガラリと話題を変えた。 黒のベルベットのワンピース。 袖の切り返しと腰のリボンに深緑のアクセントがついた、まるでケリの為に作られたような服だと思った。 「ふふ。ありがとう。見て、ネイル」 「ああ」 今夜の為に俺が選んだネイルチップ。 唇も、俺がマットが好きだと言うとグロスやリキッドを使わなくなった。 俺に染まっていくケリが、心から可愛いと思う。 俺が豪語していた恋愛の醍醐味を、こんなにも惹かれ、心から愛しいと思える女性と分かち合えている。 そんな、今までに感じた事がない充足感。 "幸せだ" と、俺自身の存在が満ちる――――。 「ケリ」 ポケットから白い箱を取り出して、ケリに差し出した。 「――――何?」 「今日はクリスマスデートだから」 「え?」 「少し早いけど、クリスマスプレゼント。開けてみて」 戸惑ったような手つきで、ケリは包みを開けた。 「これ・・・!?」 ケリの瞳が驚きに揺れている。 「本物?」 「今が赤なら、そうだろ?」 「アキラ・・・」 「つけてみて?」 「――――はい」 僅かに頷いて、ケリはオニキスのピアスを外し、そのアレキサンドライトのピアスをつけた。 「ルビに原石を探させて"Stella"でカットとデザインをしてもらった」 「ありが、とう・・・」 そのピアスは、大粒のアレキサンドライトがティアドロップ型にカットされたデザインで、彼女が動くたびにキラキラと揺れた。 耳たぶに触れる所はアンティーク調でゴールドが彫刻されている。 「さすがルビ。良く似合ってる。綺麗だ――――」 そのピアスを着けたケリは、ドレスに配色された緑と、耳元で人工の光に輝くその赤で、存在そのものがアレキサンドライト。 「ケリ」 手を伸ばして、テーブルの上で手招きすると、誘われるようにケリの手も伸びてきた。 指先が触れる。 何度か擦るようにお互いの感触を確認した後、しっかりと、奥まで指を組み合った。 彼女がケヴィンと過ごした結婚生活12年という月日は、ほとんど半生だ。 ケヴィンに依存していたという事は本人から聞いて知っていたが、さっきのケリを見ていて痛感した。 俺が思っていた以上に、その依存は洗脳に近い。 そして、ケヴィンもそれを分かっている。 あんなふうに韻を踏んだような言葉のリズムを使って、過去の記憶へと誘導する。 俺が覚えさせた身体の快感なんか、隙を突かれたら、あっという間に吹き飛んでしまいそうだ。 俺にも、不安はある。 「ケリ・・・」 目線を合わせ、ゆっくり告げる。 「そのピアスは俺の声を聴くためのものだ。他の男の声を受け入れるなよ」 「アキラ―――」 ケリの瞳が揺れる。 零れそうな涙が、ゆらゆらと溜まっている。 意思を持った唇の端が、キュッと上がった。 頷いたと同時に、宝石のような雫がポロリと落ちる。 「ありがとう――――」 花が綻ぶようなその笑顔に、握り返された手を、俺は更に強く握りしめた。 |