"シン" その名前を、久しぶりに聞いた―――――。 目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。 優しい声音。 柔らかい言葉。 風に靡くチョコレートブラウンの髪。 見守るような、どこまでも奥深い、暖かい眼差し――――。 日々を耐えて乗り越えるのに必死だった結婚生活5年目。 何カ月も帰ってこないのは当然で、たまに顔を合わせて、義務を思い出したかのような仕方なさで抱いてくる、そんな扱いを受けながらも、放置されていた反動で肌の温もりに縋っていた私。 『ケリ、そんなに僕が好き?』 泣きながら揺すられる私に、ケヴィンは必ずこう言った。 『本当に、愛すべき愚かしさだよ。ケリ。そうやってまた、君は僕に絡み取られる―――――』 笑いながら私を見下ろすのに、その琥珀の瞳は輝きを失っていて・・・。 そんな弱さを見せるのは私の前だけだと、最初の1年に培った愛の時間だけを支えに、私は冷え切った現実から目を瞑っていた。 その頃のケヴィンには、既に出会った頃の面影は一切なかった。 優しさで包まれた、陽だまりのような時間を作りだしていた彼の暖かさは片鱗も残さず消滅し、 ――――ただ美しく、計略に長けた1人の男。 『ママ?』 『ルビ・・・』 ケヴィンにそっくりな柔らかい金髪を撫でる。 何に縋っているのかも分からなくなっていた私には、目の前にいるルビだけが、現実に引きとどめる光だった。 ルビの存在だけが私を癒し、それなのに、私はケヴィンの愛を求めて依存していく・・・。 お酒も覚え、泣き明かす夜が続いていた時、ケヴィンが突然、自ら長年傍においていたボディガードを私に充てた。 『ケリ。僕が居ない間、守ってもらうといい』 不思議だった。 影のようにケヴィンに付き従っていたボディガード。 シン・ホン。 無口だと思っていた彼は意外と雄弁で、 『大丈夫ですよ、ケリ。あなたは間違っていない』 『ああ、素敵ですね、ケリ。そうやって笑っているのが一番いい』 『あなたそのものに価値があるんです。自分を信じて大丈夫ですよ――――』 彼の言葉は魔法のように、私に安らかな時間を与えてくれた。 彼が居るだけで、私の心は安定した。 『ケリ』 『なあに? シン』 『ケリ』 『クスクス、いい加減にして』 私の名前を呼ぶ度に、暖かい笑顔をふわりと浮かべて、 『静かですね――――。こんな日は、特に幸せを感じます』 季節ごとの空を見上げては、日々の静寂に愛を語る。 穏やかで、優しくて・・・。 私が見る日常も、次第に色を取り戻して行く――――。 彼が傍に居てくれるだけで、 辛かった時間が嘘のように、まるでケヴィンに出会った頃の幸せな日々が再現されているようだった・・・。 【あんた――――、ケリじゃなくて、・・・誰を見てた?】 さっきのアキラの言葉に、ケヴィンは酷く動揺していた。 あれは、どういう意味なんだろう――――? 「ケリ、天城さんが戻りましたよ」 「え?」 トーマの声に、ハッと我に返る。 顔を上げて車窓を見ると、搬入口から姿を現したアキラが、階段を駆け下りてくるところだった。 シルバーのタキシードの上から羽織った黒いコート。 宵を背に、颯爽と駆けてくるその姿は、思わず胸をときめかせてしまう程の精悍さ。 ドアが開く。 「ケリ」 「アキラ」 乗り込んできたアキラは、直ぐに私の腰に腕を廻した。 その欲望に、私という存在は満ちる。 「遅かったのね?」 「・・・ああ、ちょっとな」 「え?」 一瞬、難しい顔をしたような気がしたけれど、 「遠一の奴が動き回って」 「そう・・・」 眉を寄せて苦笑したアキラに、気のせいだったかと息をついた。 「―――これからどうするの?」 尋ねた私に、アキラは妖艶に笑った。 「する事は決まってるけど、問題は"どこで"か、だな」 「アキラ!」 耳にキスをされて思わず押し返す。 私がトーマを気にしている事を分かっているはずなのに、まるで翻弄するようにアキラの悪戯心は収まらない。 「キスならさっきだってしてただろ?」 「あれは、」 自分の顔が火照っているのが判る。 「気が、・・・合ったからでしょ?」 恥ずかしさに思わず目を閉じた。 クス、とアキラの笑い声が額に触れる。 「もう」 額から、こめかみ、頬に――――。 キスの雨が降る。 「――――香織」 耳元で呼ばれ、ゾクリ、と鳥肌が立った。 首筋に1つ、キスが落ちて、また耳の傍で囁かれる。 「俺のマンションに、くる?」 「―――え?」 顔を上げ、アキラの眼を見つめた。 暗い車内でも、神秘的な光を湛える黒い瞳が、真っすぐに私だけを見つめている。 「――――行く」 喜びを隠さず、私は満面の笑みで応えてその首に両腕を廻して抱きしめた。 また1つアキラに近づける幸せを、私はただ、感じていた。 |