私が、エステサロン"Aroma"を始めたきっかけは、美容学校時代の"友人に熱烈に勧められた――――"というのも勿論あるけれど、 その一方で、 『ケヴィンとの結婚生活に疲れ切った私が、崩れたアイデンティティー(存在価値)を再構築するためだった・・・』 ―――――あの頃の心境を、涙ながらにそう語ったとしても、きっと大袈裟じゃないんだと思う。 性癖が暴露されてからというもの、私への仮面を被るのをやめた彼は、連絡も無しに何か月も帰らない、自由気ままな生き方を始めた。 会うたびに、 ―――――ううん。 再会するたびに、私が知っているケヴィンという人格は消え、まるで別人のように変わっていく。 私は、そんな彼を受け止めながら、今日を生きる自我を保つので精一杯。 天使のようなルビの笑顔がなかったら、私はきっと、結婚2年目で壊れていた。 たまに帰って来ては、気紛れに愛を語り、泣き崩れる私を翻弄して、ほくそ笑む彼――――――。 彼の傍にいるのは、妻という肩書を持つ私よりも、同じ香水を纏うボディガードで、どこにも出掛けていない日にさえも身体についてくるキスマークが、何もかもを語っていた。 私が傷つくなんて、考えてもいないのか。 それとも、傷つけることが目的だったのか。 彼がそんな熱い夜を過ごす気配がするたびに、私は、その同じ屋根の下で、狂ってしまいそうな自分の精神を必死に鎮めながら、冷たいベッドで拳を握っていた。 涙が枯れるという事を、当時の私は、知らなかった――――――。 それでも、 『女性で愛しているのは君だけだよ』 そんな悲しすぎる愛の言葉に、縋って、縋って、泣いて、また縋って・・・、 3回目の結婚記念日。 そんな生活と精神状態に麻痺してきていたのか、私はふと、思い立ってエイズ検査を自主的に受けた。 日本で、幸せな恋愛を未来に期待していた学生時代、自分が将来、こんな検査を受けなければならない愛にしがみつくなんて、一度だって想像していなくて、封書で送られてきた検査結果に、頬を伝った大粒の涙が、とても熱かったのを覚えている。 あれは、どんな意味の涙だったんだろう。 安堵? それとも、こんな事をする自分の姿が、あまりにも、虚しくて、悲しくて・・・? アキラという、私の存在を力強く支え、認めてくれようとする人が傍にいる今でも、あの頃の自分を、少しは冷静に振り返れるようになった今でも、 私は、あの涙の意味を、未だに解っていない――――――・・・。 結婚生活に疲れたなんて、煌びやかな世界で生きる彼の妻として、そんな事はおくびにも出す事は出来なくて、 どんなに愛に飢えて、泣いて、叫んでいても、 暖かい家庭が育まれるはずだった広いお屋敷が、吹けば飛びそうな紙の城でも、 呆れるくらい豪華な食事が、まるで砂のようであったとしても、 『幸せそうでなによりね、Mrs.モーリス』 『――――――夫は、素晴らしい男性(ひと)ですから、私はとても、・・・幸せです』 何度も何度も、私は笑い、 何度も何度も、――――――嘘をついた。 そんな私にとって、 "Aroma"に没頭する事は、私が息をする理由になった。 生きる事とは違う。 私が、私として息が出来る場所。 そこが、"Aroma" 店舗を増やしたのは、特に利益を求めたわけじゃない。 ロスまで通わなければならない遠方のお得意様に応えるためで、その結果が、私を実業家という地位に上らせていた。 このロスの本店は、私に新たなアイデンティティー(息吹)を齎した場所――――――。 だから、 「あ」 体験コース用の、陽射しが沢山入ってくる明るい施術室で待ち構えていたエステティシャンが、私の顔を見た途端に、 「あぁ・・・」 ただただ、涙を流してくれた時、 ここはまだ大丈夫――――――。 嬉しくて、胸が強く、打ち震えた。 「日本人、ね」 私の問いに、耳下までの黒髪と、黒い瞳の彼女は、まだ夢見心地と言いたげな顔のまま、ゆっくりと頷いた。 「はい・・・、はい、そうです」 その後も、何かを噛みしめるように幾度かの頷きを繰り返す。 若そう・・・。 24、5くらい? 「勤めて長いの?」 尋ねながら、私がリクライニングのシートに座ると、 「・・・え?」 彼女は、小さく声を出して、驚いたように私を見ていた。 それも数秒で、まるで痙攣するように震える黒目の先が、シートの操作ボタン、ワゴンに並べられたロサ・ファンタジアのボトル、壁を伝って、窓の外を見て、・・・と。 まるで部屋を巡るように行ったり来たりを繰り返す。 胸に留められた名札を見た。 「・・・どうしたの? 間宮さん」 「ッ、・・・ぁッ」 どう動いたらいいのか判断できずにいるらしい彼女に、私は笑みを浮かべてシートの肘掛けに両腕を乗せる。 「体験コースでしょう? いつも通りで構わないから」 「・・・」 まだ、動かない彼女。 「―――――まさかとは思うけど」 私は、肘掛けに頬杖をつき、眼鏡を外す間のタイミングをおいて、冷やかな横目を彼女に向けた。 「そのエステティシャンって名札、――――――私と同じ黒髪だから貰えているの?」 「!!」 間宮さんの指が、ピクリと動く。 思わず、手で隠した口許の端が上がってしまったけれど、それを何とか一瞬で呑みこんで、私はシートに身体を預ける。 【さあ、あなたのプライドを見せて――――――?】 英語で、挑発的に囁いた私に、ギラリ、彼女の瞳に光が宿った。 【――――本日、体験コースの担当をさせていただく間宮と申します。どうぞよろしくお願いします。シートを倒します。目を閉じて、リラックスしてお待ちください】 説明と同時に動き出すシート。 【体験いただくのは、フェイシャルコース15分です。まずは当店オリジナルのオイルでマッサージさせていただきます】 肌に触れて来る指先は、私と同じくらいの体温で、温められたほんのりユズが香るオイルでのマッサージが始まる。 懐かしい――――――。 私も、開店当初は、この光あふれる部屋で、ゴールド会員、レギュラー会員関係なく、色んなお客様を対応した。 会員カードを分けたのは、セレブやVIPのお客様に必要なプライバシーを守るための部屋と、彼女達が求める高級な備品を維持するためで、どちらかというと、その経費への順当な回収。 どんなに綺麗ごとをビジョンに描いても、経営として考えると、スタッフを護るため、よりよいサービスを追求するためには、儲け処が必要なのも現実で・・・。 そんな技術とはかけ離れたところで四苦八苦しながら、美容学校で習得したノウハウを生かし、どうすればお客様にとって素敵な結果を齎すエステを提供できるのか、考えて考えて、最終的に私が決定した各コースの施術メニューは、今でも濃い血脈のまま受け継がれている。 結婚生活と違い、"Aroma"を生み育んでいたあの頃は、心が満たされて楽しかった。 もちろんルビとの時間は大切だったけれど、それ以上に、"Aroma"を続ける事は私にとっては生きる糧だった。 ケヴィンとの現実から逃げるためでもあったけど、この場所は、―――――施術をしている間は、私はケヴィン・モーリスの妻ではなく、ただのケリ・Mで、 こうして、その空気を感じるだけで、私という存在が認められたような気にさせられる。 それはまるで、アキラの腕の中に居る時と同じ安堵感。 ――――――あ、 ・・・いいえ。 もう違うんだわ・・・。 リラックスした思考の中、自然と湧き出た全ての答えに驚いてしまった。 私は――――――、 もう、私は・・・。 艶のある黒髪。 甘く私を見つめる藍色の眼差し。 私を甘やかす唇と指先と、全てを束縛するしなやかな体――――――。 そんな彼に抱き締められるだけで、"Aroma"が与えてくれたあの頃の全てを、既に凌駕してしまっているという事実。 アキラという存在が、私を背後から支えようとしてくれているのが分かる。 ロスを出るとき、こんな満ち足りた気持ちで再びこの地を踏む事が出来るなんて、想像もしていなかった。 今の私の心のベクトルは、半身でもある"Aroma"よりも、アキラの方に比重が傾ていて、どちらも大事だけれど、きっと私は、いざとなったらアキラを選べるだろう。 【仕上げに、このロサ・ファンタジアをお肌に閉じ込めて――――――】 心地の良い間宮さんの声が、施していくテクニックの内容を優しく語り・・・、 仕上げのマッサージ。 ロサ・ファンタジアに濡れた間宮さんの指の腹が、私の顔の隅々まで、満遍なくリズミカルに触れていく。 最後に、マッサージのクールダウンを兼ねた、冷たいコットンでの優しいパッティング。 【・・・これで、フェイシャルの体験コースは終了でございます】 操作されたリクライニング・シートが起き上がり、自然な太陽光の元で確認できる自分の肌の輝きに、私の唇から、女性ならではの吐息が漏れた。 「―――――素晴らしかったわ」 満面の笑みで、心から素直にそう言った私に、 「ケリ、さん・・・」 夢から醒めたように目を見開いた彼女は、また、その目に涙を浮かべた。 「私・・・、私・・・、日本のエステティックの学校を出た後、あなたに憧れてロスに来ました。一度だけ、特別講師でお会いしたあなたのお店でどうしても働きたくて・・・。でも、あなたは既に前線から身を引かれていて・・・、面接を受けて採用してもらったこの"Aroma"は、シンディの戦略でどんどん違う路線で展開を始めて――――――・・・。施術室に入ってくるお客様の様子が複雑に変わって行くのを、ただ見ているしか出来なかった・・・」 小さな嗚咽が、部屋に響く。 その表情に同調して、ツンと胸が痛くなったけれど、 「・・・事業部の理佐子・マイヤーには、その懸念は相談出来なかったの? 視察には時々入っていたはずだけど」 淡々と努めて声にした私の疑問に、間宮さんは首を振った。 「グランド・マネージャーは、結局予定された日にいらっしゃるでしょう? その日は、前もって"シンディ派"しかシフトに入れないように仕組まれているんです」 ・・・確かに。 そういう視察は抜き打ちじゃないと意味が無いわね。 「それに―――――」 間宮さんは、更に眉尻を下げた。 「何か言ったのがバレて、ビジネス・マネージャーである彼女を敵に廻したら、ロスのこの業界では、二度と働けないんじゃないかと、やっぱり怖くて・・・」 そう言った後、すみません、という小さな声が耳に届いた。 「――――――そう・・・」 報復の懸念は仕方無いのかも知れない・・・。 大企業ならともかく、"Aroma"はサービス部と事業部を分けているだけの小さな会社。 上に報告を上げたのが自分だとバレるリスクは、個人同士の繋がりが近い分、きっと高く感じられる。 それを恐れず立ち上がれと言われても、普通はきっと無理だわ。 誰しも、今温もっている生活の平穏は、守りたいと思う筈だもの――――。 「・・・」 ふと、気になる単語が思考に強調された。 シンディ派・・・。 「――――"Aroma"には派閥があるの?」 「あ、・・・派閥があるというよりは、シンディが中心になった小さなピラミッドがあるというだけで、他のスタッフは"触らぬ神に祟りなし"っていうか・・・」 「エステティシャンは?」 「ほとんど私と同じです。レギュラー会員のお客様でもゴールド会員でも、――――――そりゃ、お支払いただく料金の事はいろいろ説明されて、その差は解ってるんですけど、技術は、そういう意味で使い分けできるものでもないですし、・・・少なくとも、"Aroma"にはそんなエステティシャンはいない筈です」 真っ直ぐに、私を見つめて来る真摯な目。 未来を閉ざされる恐怖があって動けずにはいたけれど、根幹となる技術者としてのプライドはちゃんと自分たちで守っている。 「ええ、――――――あなたを見ていたら、私もそう思えたわ」 「・・・ケリさんッ」 さっきまでとは違う意味の泣き声に、私は苦笑するしかなかったけれど、 「・・・」 良かった。 これなら、事務方の人事異動だけでどうにか改善できるかもしれない。 ――――――うん。 心を決めて、私はシートから立ち上がった。 「・・・あの・・・?」 心配そうに私を窺ってくる間宮さん。 「大丈夫よ」 私は、ニッコリと笑って見せた。 この"大丈夫"は、ちゃんと大丈夫―――――。 傍に居ないアキラに、無意識のうちに心の奥で話しかけている私。 けれど――――――、 こんな風に心の支えとしてアキラを頼ってはいるけれど、私は今、自分の足で立てている。 "充実している"というのはきっと、満ち足りているこの感覚の事を称(い)うのかもしれない・・・。 「行きましょうか」 「――――え・・・?」 歩き出した私の後ろを、戸惑いながらも付いて来る間宮さん。 最初の数歩を手伝えば、土に埋もれたままだった人材は、きっと直ぐに芽吹く気がする。 そのためには、まずは環境改善ね。 戸惑ったようについてくる間宮さんの気配を背後に感じながら廊下を進み、ロビーへのドアを開けると、目に飛び込んで来たのはソファに寛ぐマーガレットの姿で、 【遅かったじゃない】 言いながら、私を目に留めた途端、直ぐに口角が上がる辺り、ほんと目敏いんだから。 【・・・待たせちゃった?】 【ふうん? なかなか楽しそうじゃない?】 眼鏡をかけていないスタッフの1人が、カウンターの中から私を見る。 一瞬、あれ? というような顔をしながらも、きっと彼女の中には、警鐘が鳴り響いているのかもしれない。 私が誰だか確定していなくても、予感のようなものに表情を曇らせていた。 シンディを呼んで。 私が、そう口にしようとした、まさにその時、突然に開かれた"Aroma"のドア。 入って来たのは美容学校の頃からの私のお得意様で、セレブ階層への宣伝に一役買ってくれていたMrs.ログウッド。 プラチナ会員である彼女の登場に、私を気にかけていたスタッフをはじめ、ロビーにいたスタッフ数人の意識は、そちらへと向けられた。 【本日はどうなさったのですか? ご予約はまだ先のお日にちだったと記憶しておりますが】 【そうなの。でも、とても気になる情報が入ってきて! マージュ・ケリが日本から戻ってきているそうじゃない。ここに顔を出しているのではないかと思いついて、あたくし、思わず足が向いてしまったわ】 いつもより声が高くなっているMrs。 その騒ぎに呼ばれるように、カウンターの奥にある事務所のドアから、シンディ・ハウが姿を現した。 ストレートの黒髪が美しい彼女。 知的な美貌と、モノの価値を見抜こうとする眼光、出会った頃と見た目は変わらないように見えるのに――――――。 【社長が・・・ですか? 本当に、社長がロスに・・・?】 勘が良い分、きっと何かを予感したんだろう。 あっという間に、顔色を変えて存在を小さくしてしまう。 私が、彼女の本質を視きれていなかったのだろうか・・・。 それとも、彼女が急激に変わってしまった――――――? 【やっぱり! 来ているんじゃない! マージュ・ケリ!】 Mrs.ログウッドの視線が、はっきりと私に向けられていて、 【【【え!?】】】 釣られたように、他のスタッフの顔がこちらを向く。 【――――――こんにちは、Mrs.ログウッド】 微笑んだ私の視界の隅で、シンディは目を大きく見開き、その顔色を蒼白にしていた。 |