ルビがスカウトの名目で"拉致"されてから1時間以上。 もうすぐ陽が傾いてくる。 ウェインがかけた電話にルビはちゃんと出る事は出来て、とりあえずの安心はしたけれど・・・。 「はあ・・・」 まだ真新しい総ガラス張りのビルを見上げ、そこに映る空模様を見つめながら、私は小さくため息をついた。 それを合図にしたように、薄いスモーク処理が施された窓が突然下がり始める。 ふと、トーマとウェインが座る前方を見て、バックミラー越しの眼差しにウェインが操作してくれたのだと気付いた。 半分ほど窓が開けられて、冬に染まろうとする空気が細い風となって車内に流れ込んでくる。 「ありがと」 微かに笑みを作ってどうにか一言を返し、私はすぐに元の位置に視線を戻した。 ビルの正面玄関入り口。 そのガラスに映り込んだ、私達が乗る車。 右ハンドルの新しいシルバーのベンツ。 本当は、私も運転したいから日本が誇る可愛い"軽"が欲しかったのに、誰一人の賛成も得られず、安全性を重視して検討が続いた結果、ロスに居た時と替わり映えしない車種になった。 今日みたいに、"ちょっとヘアサロンにお出かけ"と思っても、ロスに居た時と同様にウェインがついてくる。 2週間前から私についてくれているウェインは私が契約しているボディガードじゃないから、命令で一時的でも離れることが難しい。 せっかく日本に居るのに、平和が満喫できる雰囲気は皆無。 思わず、ウェインを出し抜いて抜けだしたのが今日のサロンだった。 ルビが攫われた事で有耶無耶になっているけど、今夜は少し説教を覚悟した方がいい事はこれまでの経験から間違いないと思う。 日本の生活で、これからは絶対に歩いている時間の方が長くなるに決まってるんだから、もういっそのこと、鎧でも買えば!って。 今度外出を反対されたら言ってみようかしら――――。 不安をかき消すようにそんな事を考えている内に、 「あ」 凝視していた自動ドアの向こうから出てくる見覚えのあるシルエットに、胸が熱くなった。 「ルビィ・・・」 思わず、彼の名前が零れる。 助手席のトーマが素早く車から降り立ち、後部席のドアを開けて私を外に促した。 私は、促されるまま両足を揃えて車外へ廻す。 ・・・え? 正面に視止めたルビの背後に駆け寄る男の影。 「ルビ! 後ろ!」 私の声にルビが振り返り、寸での所で殴りかかってきた男を避けた。 視界のこちら側でトーマが駆け出すのが見える。 その若い暴漢がよろけながらも2発目の繰り出す態勢を取った時、今度は、トーマは間に合った。 ルビに襲いかかった腕を力強く払い、反対の左拳を相手の右頬に当てる。 「うッ!」 苦しげな声を出し、男の体は通路を外れた石畳に向かって弧を描くように弾け飛んだ。 トーマの背後に守られたルビが、少しは驚いたらしい表情でその男を見下ろしている。 まだ学生のようにも見える生真面目そうな暴漢の眼光がそんなルビの表情を迎え撃っていた。 2人の間にトーマが改めて身体を差し込み、確認するように低く告げる。 「まさかジョニー企画の方ですか? スカウト名目の略取に留まらず、ここまでするからには社会的制裁も覚悟してもらいますよ」 「!」 何を言われているのか敏く理解したらしい男は、苦虫を噛むように唇を結んだ。 口角から、血が湧きでてくるのが遠目にも確認できた。 「どうなんですか?」 普段穏やかな分、こういう時のトーマは短気に見えるウェインよりも迫力がある。 睨みあって緊迫する両者に、 「トーマ」 その名を呼んで、別の空気を吹き込んだのはルビだった。 「いいんだ、トーマ。これに関しては多分、僕が悪い」 「ルビ?」 トーマが怪訝な顔をしていたけれど、ルビは手を上げて続きを制し、未だ自分を見上げている男に向けて眉根を下げるような表情を向けた。 「さっきの、―――あの件ですよね? 謝ります」 第三者からすれば、歯切れの悪い符牒。 「軽率でした。本当にすみません」 「・・・」 男は、その一礼を待たずに悔しそうな顔で目線を逸らす。 構わずに頭を下げたルビは、体勢を戻すとトーマの肩を叩いた。 「というわけだから、裁判なんて面倒くさい事はやめようね?」 諭すように言って、やっと私の方を見る。 目が合った途端、トパーズの瞳がゆるりと微笑んだ。 「ケリ」 甘い声が、私の名前を呼んだ。 その響きが脳に収まった途端に、私の身体の内側からじわりと悦びが湧きでてくる。 「ルビィ・・・」 私は、こちらへと歩いて来るルビに引き寄せられるように立ちあがった。 「良かった―――」 「ケリ」 目の前に来たルビの指が、そっと私の頬に触れる。 「心配かけてごめん」 「―――うん」 その返答が空気に振動してルビに届く間、ルビが目の前から連れ去られた瞬間を思い出して、あの時、私の体中を襲った絶望感を思い出して、 「本当に良かった―――」 確かめるようにルビの頬に手を伸ばす。 「ルビ」 きめ細やかな肌の手触りを実感する。 一週間ぶりの感触。 自覚が無い内に、込み上げてくる感慨と共に、私の瞳は潤ってしまっていた。 「会いたかった―――」 思わずそう囁くと、ルビもふわりと笑って頷く。 「僕もだよ、ケリ」 私の額に、ルビの唇が降りる。 うっかり目を閉じると、涙が零れてしまいそう・・・。 「さ、まずは僕の部屋に行こう。片付いたからやっと招待できるよ」 そう言ったルビに背中を押され、私は車に乗り込もうと歩みを進めた。 視界の隅ではのそりと起き上がった暴漢の男が悔しそうな表情でこちらを見つめていた。 唇の端の血を手の甲で拭いながら、もう片方の手には携帯が握られている。 「・・・」 一瞬ためらったけれど、この流れが中断されるのが嫌で、私は何も言わずにそのまま車に乗り込んだ。 ジョニー企画ビルの前を滑らかに走り出したベンツの後部席。 ホッと落ち着いた車内の空気を確認して、私は風に乱れてしまった髪を整えるように耳にかけながら、左隣に座るルビを見た。 「ルビィ・・・大丈夫?」 私の問いに、薄い茶色の瞳を細くしてルビが応える。 「うん」 「そう―――」 なんとなく、心配してじっくりとルビの顔を見て、 「―――?」 "とある"発見をして、私は少しムッとした表情でルビを睨みつけた。 「そのようね!」 自分でも驚くほどに声に棘が出ている。 「・・・あれ? なんか怒ってる?」 クスクスと笑いながら私を覗き見てくるルビ。 「これ!」 私は人差指で、ルビの唇を強めに拭った。 私の指先に移った、明るいオレンジ色の汚れ。 「 「――――」 詰め寄られたルビは、上目遣いで考え込んだ。 「うん。可愛かったから思わず―――ね」 「あっそ!」 頬を膨らませて、私はルビから身体を背けようと脚を逆に組み直した。 「こんなに心配して損しちゃったわ!」 あの殴りかかってきた子は(同情が入るから「暴漢の男」から「子」になっちゃった)間違いないく彼女か想い人に手を出された"被害者"ね。 一発くらい殴られても良かったかも! 「――――ケリ」 微笑んで、ルビはオレンジで汚れた私の指に自分の指を絡め、何度かその指先で擦りながら綺麗にしてくれた。 「爪、綺麗な色だね」 囁きながら、チュ、と私の指先にキスを落とす。 「この色が一番ケリに似合う。――――好きだな」 囁きながら身を乗り出してきて、私の左頬にキスをする。 「心配させたお詫びに、今夜はケリの好きなもの、食べさせてあげる」 私を甘やかそうと、満面の笑みで告げたルビ。 「―――もう!」 悪態を口にしながらも、私は思わずクスリと笑ってルビのクリーム色の髪を撫でた。 小さい頃から、変わらない。 私を甘やかし、宥める事に長けているルビ。 『ケリの一番の 繰り返し、何度もそう宣誓をしてくれた。 「―――パエリア、ね」 「分かった。ケリのために美味しいの作るよ」 「うん」 綺麗なルビ。 優しいルビ。 その存在に、何度も依存しそうになる。 私の特別な"人" ちなみに、年下のツバメ君ではありません。 ルビは、私の無二の天使。 私の永遠の彼氏。 つまり・・・まあ、 分かりやすく単語にすると、 愛すべき"息子" です。 |