小説:ColorChange


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まずは始めてみませんか?
《 Acting.by アキラ 》


 「・・・様、天城様」

 繰り返される誰かの呼びかけに、俺はハッと身体を震わせた。
 目の前には心配する様子でもなく、ただ義務的に見つめてくる片瀬。

 ジャズのリズムが微かに耳に届く。
 キャンドルの暖色に染まった空間、夜の世界。

 静けさが心地よくて、いつの間にか頬杖をついた体勢で眠っていたらしい。


 「―――どれくらいいってた?」

 「ほんの数分ですよ」


 気分良く寝れたようだ。
 体に感じる少しの気だるさが、充足感を教えてくれていた。

 「考えてみたら、こんな時間にプライベートって一カ月ぶりくらいだ」

 言いながら、腕時計を見る。

 23時10分。
 デキャンタは半分ほど空いていた。

 「――――酔うより疲れがくるってね」

 溶けかけたグラスの氷を指で廻しながら苦笑した俺に、


 「さすがのスターさんも、年波には勝てないということでしょうか?」


 笑いを含んだ口調のそれは、片瀬よりも断然低い声が紡いだものだった。

 「!?」

 その応答は俺の右側から。
 声のした方に顔を向けて、俺は初めて、椅子を1つ挟んで座る男に気が付いた。
 まるでそれを合図にしたように、逞しい体つきをした大柄の男は、指で弄んでいたショットグラスの僅かな残りをグッと煽る。


 「いつの間に・・・」

 そう驚いたと同時に、俺の気持ちは身体ごと沈んで行きそうになった。

 そこに居たのはケリのボディーガード。
 確か、彼女には"ウェイン"と呼ばれていた男だ。

 「そうか。あんたがここに居るってことは、」

 ――――ケリは多分、来ないという事。

 そう言葉を続けようとした俺を、

 「いや」

 ウェインは手を上げて制した。

 (いや? どういう意味だ?)

 眉を顰めて呆気にとられていると、彼は上げた手をそのままジャケットの内ポケットに入れ、何かを取り出して俺に向かって滑らせてくる。

 鍵と、折り曲げられたメモが一枚。


 「そこにケリが居る。メモは、住所と暗証番号」

 「は?」

 俺は不信感を隠さずにウェインを睨みつけた。
 黙って見守っていた片瀬の肩も、思わずピクリと動いたのが見えた。


 目の前に鈍く光る銀色の鍵が、幾度となく俺の視線を誘惑してきたが、衝動を抑えて視界の隅におしやる。

 「―――彼女はあんたのボスだろう?」

 主である、しかも"女性"の部屋の鍵をこうして渡してくるウェインという人間性に疑いを持って、俺は眉間の距離を詰まらせた。

 そして、鍵に手を伸ばさない理由はもう一つ。
 まさかとは思うが、彼女が、彼を使って男を誘う女だと信じたくない俺のため。

 アルコールが入っている俺の頭で考えた、どの感情を読んだのか。
 ウェインは、目の前のウォッカのキャップを捻ってショットグラスを満たし、一気に中身を飲み干した。
 それから、気持ちを整えるようにして短い息を吐き、

 「―――私の雇い主は彼女ではない」

 低い声でそう呟くと、ウェインは量るように俺を見つめてきた。

 「長い間・・・私は彼女を近くで見てきた。だからこそこうして友人として行動できる」

 ウェインの茶色の眼差しの中に、俺が想像する以上の引き出しがあるように見える。

 「―――人との関係には"領域"というものがあり、私とケリの関係領域は"真実を吐露し合える領域"で、その先の支えという意義は存在しない」

 心は開くが、支え合う事はできない?

 経験上、彼の言う関係領域の意味が理解し難かった。
 "真実を吐露し合える領域"とは、全てを委ねられるという事にはならないのか―――?

 ・・・多分それは、ケリとウェインの複雑な関係を示唆するワードでもあるのだろう。


 「けれどもし」

 ウェインは続ける。

 「そうなる可能性が見える人間が現れた時、私は躊躇はしないと決めていた。この行為の意味は、ただそれだけだ」


 そうなる可能性が見える人間が現れた時――――、
 つまり、俺なら彼女の傍にいて支えられると判断したという事か?

 この男は―――――、しれっと難題を突きつけてきた。


 「言っておくが、あなたが考えている以上に、彼女との恋愛は大変だ」

 その言葉が意味するのは、彼女のこれまでの歴史の事、
 それとも、彼女自身の問題か―――?

 どちらにしろ、俺が想像する以上の何かがあると触れた上で、彼は全身で問いかけてきた。


 それでも、行くか―――?

 と。



 俺は笑った。
 それで引くくらいなら、初日でとっくに終わってた。

 「臨むところ。まずは始めてみなきゃ分からないさ」

 遠慮なく鍵とメモを掴んで立ちあがる。
 ウェインは無言のまま目を伏せた。

 悪い符牒では無いんだろう。
 歩き出した俺の背後から、小さな片瀬の笑い声が聞こえてきた。

 「ウェイン、お前、殺されるぞ」

 「―――そうだな」

 誰に?
 踵を返して尋ねたい気もしたが、逸る心が足を止める事を許さなかった。


 ――――――
 ――――

 タクシーが走り去っていくのを見送って、俺は、付近でも真新しそうなマンションのエントランスに入った。
 鍵を挿し、メモを開いて暗証番号を入れると、ロックが外れてエレベーターホールへの道が開く。
 微かな機械音のみの精巧なエレベーターに運ばれて、俺は最上階にたどり着いた。

 ワンフロアに2世帯しかないらしい。
 共用部の至る所に世話の行き届いた観葉植物があり、管理もセキュリティもなかなかの物件だ。
 そして、目の前には目的の部屋のドア。

 「さて・・・」

 心を落ち着けるように深呼吸をして、俺は1度チャイムを鳴らした。

 「―――」

 しばらく待ってみたが反応は無し。
 躊躇いはあったが、思い切って鍵を差し込んだ。

 カチリ、

 解錠の音が静かな廊下に響き、ドアを開けると、薄暗く、オレンジの照明がゆらゆらと揺れる空間があった。

  K's ケーズ みたいだと思う。

 「ケリ?」

 何度か声をかけたが、一向に返事はなかった。
 壁に手をついた状態でブーツを脱ぐ。

 そして、まだ少し迷いながらも、室内への一歩、足を踏み入れた時だった。

 「―――い」

 か細い女性の声。

 「―――がい、お願い、やめてっ」

 ケリの声?

 確信した途端に、足音が立つ事も構わずに駆け出していた。

 廊下の先で半開きだった飾りドアを抜け、ジェルキャンドルが幾つも揺れる室内にたどり着く。
 ソファの上で、オレンジの照明に照らされるようにしてブランケットに包まっていたのは、やはりケリだった。

 テーブルには転がったブランデーグラス。
 キャンドルの光を受けて煌々と震える緑色のレミーのボトルは、ほとんど空だ。

 「やめて―――」

 嗚咽を微かに混じらせたケリの言葉。
 幾重もある涙の跡を、また新しい雫がこぼれていく。


 「ケリ・・・」

 その泣き顔を見るだけで胸に強い痛みを感じる。
 彼女の傍に膝をつき、長い睫を引っぱるような大粒の涙を指先で拭い取った。

 ピクリ、と彼女の頬が反応して、

 「―――うぅっ」

 声を殺すことで全てを耐えているかのような彼女を見ていると、

 「ケリ・・・」

 俺の心臓に見えない刃の先が掠れる。
 その痛みに、目頭が熱くなる。


 誰かが泣くのを見て、こんなにも苦しくなった事はない。
 体中の血が腐ったように、巡るのも忘れて、呼吸ができない――――。


 痛い――――・・・。


 「ケリ・・・」

 彼女の嗚咽が上がる度に、俺の心も呼応するように軋んで音を立てていた。

 室内の温度は暖かいのに、触れたケリの頬は冷たい。
 間違いなく眠っている彼女。

 夢の中で、こんなに泣けるものなのか?

 乱れたケリの黒髪をそっと撫でる。
 涙で固まった横髪を、梳くように耳の後ろに流してやる。


 「―――ん、」


 ふと、濡れたケリの睫が震えるように動いた。
 髪を撫でていた俺の手に、確かめるような動作でケリの指先が触れてきた。


 「誰・・・?」

 ケリがぼんやりと呟く。
 酒の匂いと、ほんのり薫るオリエンタルな香水。


 「ケリ―――・・・」


 うっすらと瞼を開けて、次第に焦点が合ってくるケリの瞳。
 照明のオレンジを宿す眼差しが、俺にも分かる程に揺れていた。

 「!」

 俺の存在を認識したのか、ケリの身体が飛び跳ねて、三人掛ソファの上をかなりの距離、尻ごみするように移動した。


 「あなた、―――どうして!?」

 ひじ掛けまで逃げ込んだ彼女は、置き去りにしたブランケットに隠していたその姿を俺に曝す。

 薄い紫のキャミソール姿。
 白い肌と、柔肌の膨らみが俺の全てを挑発して、誘惑する。


 「―――驚かせて悪い。おたくのボディガードの計らいで、俺から、会いに来た」

 「・・・ウェイン?」

 ハッとしたように、室内を見回す。

 「彼はまだ、店だ」

 「――――」

 ケリの唇が何かを言いかけようとしたが、俺は待てずに、手の甲で彼女の頬を拭った。


 親指でアイラインから雫を取り去り、顎の下、首筋も―――、
 彼女を濡らす涙の跡を、俺の手で全部拭ってやる。

 その間、ケリはずっと俺の目を見つめていた。

 俺も、見つめていた。



 お互い、

 一度も、目をそらさなかった。


 「なんで、―――こんなに泣くんだ?」

 瞬きをする時間すら、もったいないと思う。
 見つめ合うことに、こんなにも心を込められるのは、なぜだろう。

 何も返さないケリ。

 「なんで、泣くんだ?」

 見つめあって答えを待つ内に、俺の掌によってケリの頬が温もりを取り戻す。


 「ケリ・・・?」

 促すように呼び掛けると、ケリの漆黒の目がゆらゆらと揺れて、


 「――――あなたのせいよ」


 その柔らかそうな唇から、思いがけないセリフが零れてきた。

 ポロリ、新しい涙がこぼれる。


 「あなたの、せい――――・・・」

 嗚咽を飲み込んだのか、ケリの身体がブルリと小刻みに震えた。


 「俺に、何かできることは?」


 大人の"男と女"の事だ。
 目線の駆け引きで、これからの事が無言で契約される事がある。

 ケリの髪の中に手を差し込み、毛先まで梳いた。

 開かれたままのケリの唇から、アルコールのせいなのか、他の要因か、熱い呼吸が繰り返される。

 今は、ほとんど素の唇。

 俺の好きな、マットな唇。


 契約の答えが、その唇から刻まれる――――。


 「眠るまで、そばに、いて」


 ツキン、と。
 また俺の心臓に見えない刃の先が掠れる。 

 けれど今度の痛みは、彼女を愛しむ痛みだと分かっている。


 俺は、両手でしっかりと彼女の顔を挟みこみ、

 「優しく抱いてやる」

 溢れる想いをそんな言葉に変えて、始まりの合図のキスをした。








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