コーヒーの香りがする・・・ 大好きな匂いに刺激されて、私はうっすらと眼を開けた。 ソファでそのまま、寝てしまった・・・? 部屋にはすっかり陽の光が差し込んできていて、焦げ茶のローテーブルには窓枠の影が障害も無く綺麗に映っていた。 ―――あれ? 私、片付けしたんだっけ? 飲み散らかした昨日からの事を思い出す。 けれど、一切何も無いテーブルの上。 「ウェイン・・・?」 可能性が一番高い人物の名を呼びながら身体を起こそうとして、ツキン、と頭部に強い痛みを感じた。 ・・・二日酔いだ。 ため息をつく。 何か食べて、クスリ飲もう―――。 そう考えながら、気だるい体に鞭打って起き上がろうとした時だった。 「起きた?」 ウェインのモノではない、どこかで聞いた事のある耳触りのいい声。 声のした方に目を向けると、湯気が立つコーヒーカップを持って立っているその顔があった。 「あなた―――」 天城アキラ。 え? 何故? 軽いパニックが私を襲う。 そんな私を余所に、彼はふわりと微笑んで私の傍らに膝をついた。 「おはよう」 起きぬけの私の頬に手を伸ばし、指の背で撫でつけてくる。 知っている気がするその暖かい感触に、まだぼうっとしていた私は心地よさを想った。 このまま、委ねたい気分になる。 ―――けど、 「・・・どうして?」 「黙って帰ったら夢だったと思われそうで、あんたが起きるの待ってた」 待ってた? ―――じゃなくて、 その前に、 "帰る"以前に、どうしてここにあなたが来てるの? 言いたい事はたくさん浮かんでくるのに、まだ働いていない私の頭はそれをうまく言葉にする事ができない。 そんな私を放置したまま、天城アキラは肩を上げて言った。 「さすがに私室への無断入室はまずいと思って、バスルームにあったタオルを濡らして身体は拭いたんだけど、ごめん、着替えはさせてない」 言われて、上はキャミソールを着ているのを手探りで確認する。 でも下は、何も着けてない・・・。 「下着は、――――ちょっと着れそうになかったから」 私の考えている事がわかったのか、苦笑して告げる彼に、次第に昨夜の事を思い出してきた。 「私・・・」 ブランケットを胸元まで引き寄せて、自分の顔が赤くなるのが分かる。 思い出した――――。 その途端、決壊したように溢れる記憶。 覚えてる。 彼の唇・・・指・・・ 声の甘さ、激しい愛撫。 優しい言葉。 私を求めた、彼の吐息・・・。 「―――ケリ」 彼は現実に呼び戻すような強い口調で私の名前を呼んで、手を取って指先にキスをする。 私はまるで他人事のように、その一連の洗礼された動きを見つめていた。 「いい年した男が、バカみたいにあんたに夢中だ」 藍色の瞳が、挑むように私を見つめてくる。 ドキリと高鳴る心臓の鼓動。 「一度だけじゃない。そうだろ?」 ストレートに綴られる思いの丈。 どうして、この人は――――、 こんなにも、容易く私の心を乱してしまうの・・・? 「――――私も、いい年だわ」 「いくつ?」 意外そうな顔で尋ねてくる。 「35」 「へえ」 天城さんの目が意地悪な光を含んで笑った。 「昨夜のあんたは、そんな"女性"って感じじゃなかったな」 男の色香を漂わせて、彼は妖艶な眼差しで私を見る。 何を思い出しているのか一目瞭然で、私は恥ずかしさと昨夜の余韻の熱とで、顔が火照ってしまった。 「本当に、・・・久しぶりだったの。セックスも、それから」 心を、求められた気がしたのも・・・ だから、甘えた。 快楽の中で、彼の温もりに縋って甘えた。 あんな自分に、初めて出会った―――。 口を噤んでしまった私に、天城さんが無言でコーヒーカップを差し出した。 「ありがとう・・・」 素直に両手で受け取って、湯気の中、コーヒーの香りを吸い込む。 どんな態度をしていいのかわからないこの状況で、大好きな香りはありがたかった。 「片付けも、ありがとう・・・」 「明け方に目が冴えてね。勝手にやらせてもらった」 言いながら、天城さんは私の隣に座りこんだ。 「ケリ」 私を覗き込むようにして、彼は続ける。 「お互いガキじゃないんだ。知らない過去に何かあったとしても当然だと思う。だから、泣いてる理由は無理には聞かない」 真剣な眼差し。 私の頬を優しく撫でて、彼の親指が私の唇をなぞる。 「ただしこれからは、一人で泣かずに俺を頼れ。こうして、抱きしめてやる事は出来るから」 「!?」 未来の約束が窺える、胸が震えるほどの真っすぐな言葉。 「あま、」 戸惑った私が彼の名前を呼ぼうとした時、ローテーブルの端にあった携帯が鳴りだした。 見慣れない機種。 私のものじゃない。 必然的に、天城さんの携帯。 「ああ、悪い、仕事の電話だ」 私の頬の温もりを守っていた手が、スッと離れた。 離れる寸前に、指先が撫でるように動いた事がしっかりと感じられた。 背中を向けたまま、着信を受ける。 「俺だ。ああ、・・・了解。すぐ降りるよ。――――ケリ、急で悪いけど」 通話を終えて振り返ってきた彼が、 「――――良かった」 そう言って嬉しそうに笑った。 (良かった?) どういう、意味? 怪訝な顔を隠さない私の頬にまた触れてきて、天城さんは目を細めて口を開く。 「あんた、寂しそうな目をしてる」 「!」 私―――? 戸惑って反応した瞬間、彼は素早く唇を重ねてきた。 触れるだけのキスが離れると、睫がぶつかりそうな距離で囁かれる。 「もっと一緒にいたいけど、今日は調整が厳しいんだ」 キス。 「近いうちに時間作るから、あんたも出来るだけ合わせて欲しい」 また、キス。 「返事は?」 「―――ん」 返事なのか、反応なのか、判らないような私の応えに彼はまた、キスをする。 キスの度、躾けられたように目を閉じてしまう私も、すっかりどうかしてしまっている。 「終わりが見えないな。もう行くよ。ここでいい。俺の携帯の番号とメアド、メモしておいたから」 コートを羽織りながら、テーブルの上を顎で示す。 「・・・気を、つけて」 私が躊躇いがちにそう言うと、 「―――ああ」 彼は嬉しそうに笑って、部屋を出ていった。 玄関のドアがガチャンと閉まった音が、夢から覚めるようにとのアラームに聞こえた。 現実に、帰る。 心に、シンとした静けさが訪れる。 そうだ。 「ウェインに電話・・・」 携帯、どこ? 思い当たる場所に視線を巡らせて、 「?」 私は床の上に、見慣れないサングラスを見つけていた。 |