「―――というわけで、樋口さん。俺はもういいですよね?」 "仕事を下りる"と意思表示した俺がここに居続けなければならない理由が見つからない。 樋口さんは呆れと困惑の眼差しを返してきた。 恐らく、樋口さん自身もどう対処すればいいのか、状況を読み切れていないのだろう。 ここで立ちあがって判断していいのかどうかも決断しあぐねている様子だ。 正直言って、ケリの顔を思い出している内に会いたい気持ちが抑えられなくなってきた。 今朝の事がこれまでの涙にプラスされて、今夜もまた彼女が泣くのかと思うと鷲掴みされたように胸が痛くなる。 そう――――。 俺との事が、彼女を泣かせるほどの出来事だったと信じたい。 もしそうなら、 俺が涙を止めてやる事が出来るという事。 慰めてやることが出来ると言う事だ―――。 早く、無理やりにでも傍に行ってどうにかしたい。 樋口さんが"Stella"側をチラリと見る。 判断材料を探すべく、状況を推し量ろうとしているようだった。 しかし反応は鈍い。 仕方なく、俺はこの場のコンダクターであろうルビに直接尋ねて確認する。 「俺はもういいだろ? ルビ」 彼が頷けば全てが済む事だが、あいにく、無言のままで真っすぐに俺を見つめてくるだけ。 けれど、内側から輝くようなトパーズの瞳が僅かに震えているような気がした。 泣きそうで、泣けないような、 この顔―――・・・? 「――――ルビ、もういいでしょう?」 不意に、男の声がそう言った。 「ケリがあなたの元を離れた時から、こういう日が来る事は分かっていたはずですよ」 そう言いながら、ルビの背後に立っていた男はポンとその肩に手を乗せた。 その言葉に同意するように、樫崎さんが頷く。 「そうね。トーマの言うとおり。幾らケリの事だからって、そこまで盲目ではないはずだわ」 「――――」 二人の促しに、一度瞼を閉じてからルビは悔しそうに短いため息を漏らした。 そして、 「――――樋口さん」 意を決したように立ちあがり、樋口さんに頭を下げる。 「私情で―――、契約の場を混乱させて申し訳ありませんでした。お詫びは、改めて、御社の社長を交えた場で正式にさせていただきます。契約破棄について、当の天城さんの要望が継続であれば違約金は不要です。契約を続行いただけるのであれば、弊社としては付加価値をつける用意があります。ご納得いただけるのであれば、ぜひ、うちの樫崎と話を進めてください」 「あ、はあ・・・」 樋口さんが、流暢なルビの交渉口述に流されるように頷いている。 色々と血圧を上げ過ぎたのか、すっかり毒気を抜かれた感じだ 「それじゃあエリカ、後は任せる」 「はい、社長」 樫崎さんが頷くと、それを合図にルビは足早で入り口のドアまで進み、ノブに手をかけたところで俺を振り返った。 「―――次にケリを傷つけたら、今度は容赦しません」 言葉は攻撃的なのに、泣きそうに揺れる薄茶の瞳の奥。 ―――ああ、でも、 この顔が"泣いてしまいそう"な もしかして―――、いや、多分そうなんだろう。 「―――ふ」 至った想像が擽ったくて、俺は思わず笑った。 「似てるな、お前」 「!」 俺の言葉が何を意味するのか、ルビは瞬時に理解したようだ。 そして、その反応で俺の予想が確信にかわる。 息子じゃ、確かに手強いライバルだ―――。 絡む視線の中で、幾つかの無言のやり取りがあった。 その答えとして、ルビの瞳の中に初めて会った時のような明るいヒマワリが咲いたような気がした。 ドアの向こうに消える際の彼の微笑みはまるでその花が綻んだようで、これまでに何度か見たどの作り笑いよりも15歳らしく、可愛いと思えたのは不思議な感情だった。 「僕も失礼するよ」 その後を追うようにして、トーマと呼ばれていた男が歩きながら樫崎さんに手を上げる。 「ええ。―――よろしく」 言葉に力を込めて、意味深に頷く樫崎さん。 全てを受け止めるように微笑んで、トーマは部屋を出て行った。 ドアが閉まる瞬間に、とても親しみをこめた目で俺に向かって一礼したのには、多分他の誰も気づいていないはずだ。 恐らく彼も、ウェインと同じような位置取りで2人を見守っている人間なのだろう。 残された俺達に唐突に訪れた沈黙。 「え〜と、つまり?」 口火を切って、遠一が樫崎さんに声をかけた。 彼女は赤い唇をキュッと結んで苦笑する。 「当方としては契約は続行を希望しています。いかがでしょうか? 樋口さん」 「ええ! それはもう、こちらとしては」 やっと目が覚めたように返事をした樋口さんは、姿勢を正した。 「契約内容の修正案はそちらからご指定いただいた項目から最優先で検討し直します。なるべく善処できるようにしますのでご要望を私共の弁護士までお伝えください」 「わかりました」 満足気に頷いた樋口さんは、早速こちら側の弁護士に何やら指示を出している。 こういう時の彼は大胆だから、"Stella"側はワリを食う事になるかもしれない。 全体の流れを誰もが把握できるようになり、一応の終結を見たこの場から、次々とスタッフが立ちあがる。 "Stella"側の数人と握手を交わして別れる中、最後に俺の前にやってきたのは樫崎さんだった。 「私とルビはご覧の通りの関係だけど、ケリは学生の頃から親友なの」 「なるほど」 俺は複雑に笑って見せる。 最初に見せられた樫崎さんの不可解な笑みは、そういう品定めの目線だったのかと理解した。 「天城さん―――」 普段は高い、彼女の声のトーンが少し落ちた。 俯き加減の彼女の頬に、睫の影が落ちて震えている。 「ケリには、――――いろいろあるの。きっと、今までのどの恋人よりも、大変だと思うのよ」 「―――」 ウェインも同じような事を言っていた。 いろいろ"あった"んじゃなくて、いろいろ"ある" ――――か。 あの涙のワケも、恐らくはその一つなのだろう。 「――――ま、成るように生るよ」 俺の応えに、樫崎さんは一瞬目を見開き、そして不信感を露わにじろりと睨みつけてきた。 「ケリを傷つけたら、ルビよりも先に、私が殺ス」 「善処する」 樋口さんに声をかけると、藤間も合わせて立ち上がる。 遠一が「ごゆっくり」と口を動かした。 そう。 抱きしめて、 誤解を解いて、 俺の気持ちと、温もりを伝えるためにはまず、 先ずは彼女の一番近くに―――― |