この白邦学園には幾つか校舎がある。 僕たちがいつも授業を受けているのは学校舎で、そこから渡り廊下を使って僕がやってきたのは部活舎と呼ばれる校舎。 といっても、去年新築されたばかりの新部活舎が職員舎の向こう側にあり、おおよその部はその新舎に引っ越し済みらしく、この校舎は必然的にひっそりとしていた。 今現在、この校舎で活動する事を申請しているのは、週に2日しか活動しない美術部と、幾つかの無認可の同好会だけらしい。 つまり、プライベートの時間を過ごすには都合がいい場所だということ。 ここ数日、お昼時間はこの校舎を隈なく探索して、僕は偶然、美術部の奥にある隠し部屋を見つけた。 中に長年の誇りを積もらせて放置された道具やカンバスから推理すると、多分、旧美術部室。 2日目に、使い捨てダスターを持ち込んである程度の埃は払い、シーツがかかっていたソファも昼寝が出来る程に綺麗に磨いた。 今日はこれから、そのソファの寝心地を試しに行くところ。 日本に来て、ケリと過ごすこと以外でこんなに楽しみにした事は無かったかもしれない。 行く手を阻む階段の1段目に、今まさに足を乗せようとした時だった。 「―――に乗らない事よ」 聞き覚えのある高い声に、僕は思わずその足を止めた。 渡り廊下からすぐ正面にあるこの階段を前に、右へ進むと死角になるように廊下が左へ曲がっている。 この先――――? ロスで育った僕は、こんな時は絶対に近づかないように煩く言われている。 学校では、どんなに規制をしても銃を持ってくるバカはいたし、警備員を掻い潜って強盗に入る輩も少なくない。 ただ、知っている声だったから、反射的に近づいてしまっていた。 「薔薇の中の雛菊なんて、本宮様も上手くおっしゃったわね」 「ああ、佐倉さん。この事、誤解なさらないで? 身の程を知りなさいという警告なの」 「あ、……はあ」 どう返事をしていいか分からない状況から、やっと絞り出したようなその声。 ……佐倉? 佐倉千愛理? 「時々、本宮様があなたを見ているのは雑草が珍しいからなのよ。現に薔薇の方がお好きだっておっしゃってらしたし」 「……はあ」 「かわいらしいだなんて、調子に乗らない事よ」 「はあ……、――――え?」 姿は見えないけれど、クラスのあの3人か――――。 顔は何となくわかるけれど、名前が思い出せない。 「あなた! さっきから"はあはあ"ばかりですけど、私たちを馬鹿にしてらっしゃるの!?」 「えっ!? いえ、違います。ただ」 「さすがに、花菱の名を貶めただけの方のご息女ですわね」 「――――え?」 ……? 「あなたのお母様の事よ。名家に生まれながら、学生の浅はかな恋に身を溺れさせ、跡継ぎという立場も忘れて家を出られるなんて」 「なあに? その顔。社交界では有名な話でどなたも知っている事よ」 「それでもこの学園に入れたのは、花菱のお祖父様からのお血筋のおかげでしょう? あなたのお父様の正体が見えたって皆噂してますわよ」 ―――――醜悪だ。 僕は吐き気がするほどに嫌悪感で身を震わせた。 なんとなく、泣きそうな千愛理の顔が過って、僕が身を乗り出そうとした時だった。 「――――どういう意味?」 凛とした、澄んだ声が廊下に響いた。 「あたしのパパの正体って、どういう意味ですか?」 泣いているようには聞こえない。 「あら、そんな顔も出来るのね。いいわ。その意気に免じて教えて差し上げる。あなたのお父様は、もともと花菱の財産目当てだったのよ。でも予定外に香澄様が早くにお亡くなりになった。だから今度は、あなたを使って取得できる財産を計算しているって、きゃ!」 バチン! 「ミナコ様! ちょっとあなた! なんてことを!」 「言わせない!」 千愛理の鋭い声が、誰の言葉も、僕の動きさえ封じ込める。 「ママの事を言うのは構わない。お祖父ちゃんの期待を裏切って、義務や責任、全てを捨てた事、ママは幸せだった反面、自分が傷つけた一族の事をいつもいつも思ってた。だから、言われても仕方ないって、それだけの事をしたんだって、ママもあたしも、パパだってちゃんと分かってる。でもパパは! パパの事は! 一言だって悪く言わせない!」 真摯に紡がれる言葉が、僕の胸に響いてくる。 「あなた、こんな事を、そんな口を効いて、ただで」 ああ、 ほんとに……。 「――――――もうやめたら?」 僕はそう言いながら、彼女達の死角から姿を出した。 息を呑む4人。 僕を正面に見たのは千愛理で、他の3人はゆっくりと振り返ってきた。 「本宮様……」 頬を抑えた黒髪ロングの子が、僕の方に数歩駆けよる。 「酷いんですの。わたくし、お母様にもぶたれた事ないのに……」 どこかで聞いたようなセリフ。 「可哀そうに」 僕はそっと赤くなった頬を撫でてやる。 「本宮様……」 うっとりとした彼女の後ろで、千愛理がふいと顔を逸らした。 その横顔の、キュッと結ばれた普段リップも塗らないような唇が、今まで見た事もないくらい紅くなっていて、その眼に光が揺れている。 なぜか、ケリの涙を思い出した。 「可哀そうに――――」 僕は繰り返す。 そっと彼女の黒髪を撫でてやる。 「―――――こんなに綺麗なバラなのに、蕾を開くと腐った蜜しかないなんて」 「――――え?」 3人揃って、怪訝な顔で僕を見上げてきた。 「本宮様? 何をおっしゃって……」 「簡単な事だよ」 とっておきの笑顔で、僕は彼女達に告げる。 「僕は、甘い蜜しか舐めないんだ。―――――それじゃあ、ごきげんよう」 千愛理の腰に手を当てて、僕は歩くように促した。 されるがままに歩き出した彼女の、まだ悔しさを噛んでいるらしい唇は微かに震えていて、泣きたいのを我慢している様子で、 そんな彼女を見ていると、やっぱり威勢よく吼えては全身で震える、あの数種の小型犬の事を思い出していた。 |