小説:クロムの蕾


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GREENISH BLUE
ENCOUNTER


 ケリと別々に暮らすようになって2週間。
 白邦学園に通い始めて1週間。

 ケリ

 呼びかければ、優しい笑顔で。
 時には拗ねたような笑顔で。

 なあに? ルビ

 15年、僕が生まれてからずっと、当然のように応えてくれていた相手がそこに居ない。

 ケリの匂いがしない現実に、朝起きて、寂しさに揺れた日が無いと言えば嘘になるけれど、想像していたより気落ちしていない自分には少しだけ驚いた。

 会おうと思えばいつでも会える距離感が保てたのは僕にとって思った以上の支えになって、それほど切羽詰まるものは無い状態。

 ケリがギブアップするまでの間、僕なりにこの状況を楽しんでみようとまで思い至る。

 そして、


 ―――やっぱりそろそろ、"相手"が欲しい、かな。

 家族とは違う温もりを与えられる"あの行為"を、これまで欲しいままに楽しんできた身体が求め始めている。

 小さな燻り。
 迸る熱情の種。


 「はあ……」


 ため息が出た。

 僕の""に感応したのは日本に来てまだたった1人。
 キスの仕方も知らなさそうな、"女の子"。


 「……」


 佐倉千愛理を押し倒す所を想像して、自己嫌悪に陥った。


 ―――アウト。


 楽しむどころか、罪悪感が湧きあがった。


 土曜日。

 学校が休みでも、仕事はいつだってオンライン。

 アラームで起き出したのは午前4時。
 シャワーを浴びて、今日のスケジュールに目を通してメールに添付されてきた資料の前読み。

 5時、ロスにいる結城ルネとランチオン会議(ロスは前日の正午)

 7時、"Stella"の最高経営責任者CEOである、ケリの親友であり、僕の友人兼パートナーでもある樫崎エリカを含んだヘッドクウォーター部門と、新しいデザインラインの確認と承認会議。
 そして、次期イメージキャラクターについての検討会議。

 もともと、現イメージキャラクターであるフランスのスーパーモデルは"Stella"の販売地盤が弱かったフランスへの糸口という戦略から起用したキャラクターだけに、契約期間1年の間、業績にマイナスが出なかっただけ儲けた結果だ。

 更新無しの噂を聞きつけたエージェントからのエントリーは思ったよりも多くて、宣伝部・経営陣で最終3人に絞るまでは僕はノータッチを宣言。
 こういう分野のニーズ分析は苦手で、面倒臭いというのが正直な感想。

 僕を良く知るメンバーがほとんどだから、R・Cや"Stella"ではそういう勝手が通って結構自由だ。

 ……引き継いだ本宮コーポレーションのグループ会社ではそうはいかない。

 それを思うと、グループの取締役だけでなく、日本支社の統括も頼んでいるルネの精神的苦痛緩和の要望は、大輝との学生時代からの柵を差し引いても正当なものなのかもしれない――――。

 方針が傾倒すればすぐに行動。
 各会社の人事関連部署に最新の人事データを社内ネットワーク内のグループワークウェアにアップするように要請して、

 カチ、と。
 指示メールの送信ボタンを押して、ホッと息を吐く。

 これで明日までは休暇に入れる。


 9時、トーマが作ってくれたサンドイッチを食べながらビジネスコンダクトのテキストを黙読。


 ―――そういえば。



 朝一番に顔を合わせたルネがWebカメラの前で、僕のお気に入りのカフェのクラブハウスサンドを食べていたのには、本気でムカついた。
 その手元にあったラージサイズのアイス・モカ・ジャバも目についた。

 大輝との事をどうにかしてくれれば、俺様がどうにか届けてやってもいいぞ?

 ―――的なあの態度は、ある意味挑発とも取れるから、喧嘩を売られたのと大差無い。


 実際、午後からケリとデートの約束がなければ今頃飛行機に乗ってロスに向かっていた可能性は否めなかった。

 会おうと思えば会えるケリが傍に居ない事には対応できているけれど、こういう事に関しては、多少はホームシックらしきものを感じているのかもしれない。

 人事データを更新させたのは、決してクラブハウスサンドとモカ・ジャバに釣られたからじゃないけどね。


 「――――トーマ」

 テーブルの向かいでコーヒーを飲んで新聞を見ているトーマに声をかけると、生粋の日系らしい黒い瞳が僕を見た。

 「何か?」

 「クリスマスは休暇予定?」

 「いえ、特には予定していません」

 「ボストンにも帰らないの?」

 「ええ……、もう家族はいませんし……」

 トーマの声音が尻すぼみしたのは、家族を憂いてではないようだ。
 僕をジッと見て、その眼差しが「どうしました?」と尋ねてくる。

 初めてトーマを見た時から思っていた。

 この瞳の揺れ方。
 ケリにとてもよく似ているんだ。

 「―――僕が通ってた大学前のカフェ、"ネロ"のモカ・ジャバがどうしても飲みたくなったらさ、年末はこっそりロスに帰ろうかと思って」


 僕の、わざと淡々と語った言葉に、

 「―――ああ」

 トーマがクスリと笑った。

 「いいですよ。その時はお付き合いします。それまでに、良い廻り合わせがあるといいですね」

 「……」

 お見通しか。


 素知らぬ顔で、僕がコーヒーを飲みほした時だった。

 トーマの携帯が鳴り出した。

 「―――ウェインです」

 「ウェイン?」

 今は、ケリと一緒にいるボディガードのウェイン・ホン。

 今日の午後はケリとのデートだから、必然的に彼のスケジュールもそんな僕達親子に拘束されているはずだ。


 「はい。――――そうですか。……分かりました」

 短く、その通話は切られた。

 「なに?」

 尋ねた僕に、トーマが困ったような表情で告げる。

 「ケリがウェインを出し抜いて外出したそうです」



 ――――――
 ――――

 土曜日という事もあってか、このあたりで一番大きいスクランブル交差点を中心に人波が異常。

 いつもは時間帯で年齢層や雰囲気が変わるのに、今日はそんな括りが全くない。
 家族連れや学生っぽい集団、カップルに、カテゴリ別に集まっている年齢不問の群れ。

 驚いたのは、小学生くらいかと思った女の子が現れた彼氏とキスをしたり、女子大生くらいかと思った女性が3人の子連れだったり、日本人の年齢は、見た目では本当に推理できない。

 そういえばケリも、ロスにいた頃は周囲の女性と比べると20代後半くらいに見えると思っていたのに、日本に来て暫く経った頃から、僕の眼にも30歳くらいにはちゃんと映るようになった。

 僕もそろそろ、日本の景色に慣れてきたらしい。


 広く整備された遊歩道の車道側に植えられた木の下で、僕はスマホを触っていた。

 どうやら、散歩しつつ自由気ままにネイルサロンへ行きたかったらしいケリは、ウェインが油断してコンビニへのお使いに走った隙に、1人でマンションを出たらしい。

 GPSで確認したところ、ここからも中が窺える、歩道沿いのあの美容室の中に居る事が分かり、3段分の高さに位置するその店の入り口を両サイドから固めるようにして、ウェインとトーマが立っていた。


 ウェインの厳しい説教コースだね。


 「あの子、かっこいい」
 「綺麗〜」

 そう噂しながら、僕の前を通り過ぎる人達が自然と足を緩めて僕を見ているのは分かったけれど、微動もせず、ただただスマホの画面と睨めっこ。

 万が一目線が合うと、声をかけられる切っ掛けができてしまう可能性があるからその対策。

 それでも、話しかけないでオーラが伝わらないバカな女はどこにでもいて、

 「あの〜、良かったらこれからウチらとどうですか?」

 見ているスマホの向こう側に見える3人分の女の子の足。


 みんな同じデザインのミュールを履いていた。
 色違いなのは、そこで個性を、という事なのだろう。

 以前プレゼンで提案された通り、やっぱり日本ではこういう傾向なのか―――。

 "Stella"で学生向けのプレミア商品をラインに入れる時は、カラーバリエーションの名付けがポイントになるかもしれない。


 隙間があればこんな事を考えるのは、ほとんどワーカホリックの症状だ。

 そろそろ危ない。

 禁断症状出てるな……。

 ため息が零れる。



 「あの〜? 聞こえてます?」

 「やっば〜い、近くで見ても王子様なんだけど」

 「顔、あげてもらってもいいですか〜?」


 うるさい。


 「すごーい、これって金髪?」

 「え? ちがくない?」

 「色、しっろ」



 そんな事を話しながら、僕の視界の中でうち赤いミュールの子が一歩近づいてきた。

 かと思ったら、

 「!?」



 「やっわらかーい」



 前髪をパサリと触られた。


 ―――――信じられない。

 男だったら殴り倒してるとこだ。
 怒りを孕んだ嫌悪感が腹の底から湧いてくる。



 「……Do you want anything with me?」


 何か用ですか?
 スマホから顔を逸らさずに、そう英語で尋ねてみた。


 「え? マジ外人?」

 「うそ、英語わかる?」

 「いや、無理っしょ」


 【……どっか行って、ブス】

 常識がない人間ほど、大嫌いで、怒りそのままに、子供っぽい事言ってしまった。


 「え? ゴーアウト?」

 「なに? どっか行こうって言ってる?」


 ……間違えた。

 思わず英語で言っちゃった。
 今さら日本語で言い直すのも面倒くさい。

 ウェイン達の所まで無言で歩き出そうかと考えた。

 そうしよう。

 彼らの位置を確認しようと少し顔をあげ、


 「―――ケリ」


 目に入ってきた、久しぶりの彼女の姿。
 日差しが、ケリの柔らかな黒髪にあたり、艶やかな緑色に変色する。

 ウェインに手を取られ、階段を一歩一歩降りてくる様は本当に美しくて、なによりも、ロスでは見た事がないような、自由を満喫する無邪気な笑顔に心がうたれた。



 あんなふうに笑えるのなら、日本に来て本当に良かったと思えた。

 まだ、夢に泣いて眠っているのだとしても、
 まだ、あの愚かな男に愛が残っているのだとしても、


 きっといつか、ケリだけに一途な愛情を与える事ができる男が現れる。

 それまでは、僕が認める男が現れるまでは、やっぱりケリのナイトは僕1人だ。

 スマホをロックし、今まさに、僕とケリの視線が絡み合おうとした時だった―――――。


 「!」

 どこからともなく走ってきた2つの大きな影。


 「きゃ」


 目の前にいた3人が小さく悲鳴をあげる。
 僕の両脇をがっちりと抱える男2人。

 容易く持ち上げられて、僕は宙に浮く状態のまま、移動させられた。


 誘拐!?

 僕が強攻な抵抗を見せなかったのは、呆気に取られたというところが本音だった。

 これでも174cmある男子に、この方法?

 パフォーマンスのように3人で水平に歩道を回転しながら進んで、そのクルクルと廻る景色の中に、驚愕に目を見開くケリがいた。
 ウェインが庇うようにケリの腰を抱いて辺りを警戒している。
 その傍から、トーマがいつもは見せない戦慄の表情で僕の方へと走り込んでくる。

 過去に3度、誘拐された事がある僕。
 ケリはその一報が入る度に泣いて泣いて身をやつれさせ、ショックで意識を失った事もあるらしい。


 ごめん、ケリ――――。


 また泣かせてしまう事に謝罪で心を痛めた頃には、僕の身柄は車道に停車していた白いバンに押し込められていた。








著作権について、下部に明記しておりマス。



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