――――最悪。 僕の今の気分を一言で表すとこれに尽きる。 本当ならこれから、ケリとキスをして、食材を買い込んで、ケリの部屋でとっておきのワインを飲みながら、僕特製のパエリアをごちそうする予定だった―――。 それなのに何故か、バンの後部席に両脇をむさ苦しいおじさんに固められて息苦しく座っているこの状態。 窓の外に流れる景色を見ても、日本に着てまだ日が浅い僕には、いつものテリトリーを離れれば、ここがどこの辺りなのかまるで見当もつかない。 まあ、携帯の電源を切られない限り、GPSであの2人が追ってくるはずだから心配はないだろうけど……。 っていうか……携帯、没収しないんだ……。 想像している"誘拐"とは違うのかも知れない。 車に同乗している犯人達はそれぞれに腕章を付けている。 『拉致部隊』『ジョニー企画』という、僕の記憶に登録がないはずの単語をプリントされていた。 いや、―――ジョニー企画? どこかで聞いた―――? まあ、今はどうでもいい。 真相はしばらくすれば判るだろうし、それよりも…… ―――ケリ、 「泣いてないかな……」 ケリを想うと胸が痛む。 僕の独り言が耳に届いたのか、僕の右側にいた中年の男がチラリと目線を落としてきた。 50代? 絶対、普段は前線に出ない管理職の人っぽい。 そして左側にいるのは、体の大きさだけが取り柄っぽい男。 こいつはいかにもそういうポジションが専門だと思う。 助手席の男―――は、手強い気がする。 30代後半。 ホスト風のスーツを着て、真ん中分けの前髪が一部短くなっている。 ときどき肩越しで僕を振り返るけど、その顔が不敵な笑みを浮かべて見えるのは多分気のせいじゃない。 薄いサングラスの向こうにある眼が、鋭い光を放っていた。 多分、頭が切れそうだ。 ―――キれてそう、でもあるのかも。 絶対に敵にしたくないタイプ。 「―――着いたぞ」 あれこれ思考しているうちに、僕を乗せたバンは全体的にガラス張りの外観をした青白い近代的なビルの地下駐車場へと侵入していた。 薄暗い進行方向の先には明るい人工の光。 地下にしては贅沢な作りのエントランスの前に車が止まると、助手席から降り立った男が後部のスライドドアを勢い良く開けた。 「はい、降りて」 その、驚くほど軽い口調の声を合図に、左に座っていた大男が先に車体から降りて振りかえり、透かさず僕の腕を掴む。 「……」 ここはおとなしく、バンを下りた。 エントランスへの自動ドアをくぐり、奥に位置するエレベーターに乗り込んだ。 想像していたとおり、一緒にやってきたのは管理職と助手席の男だけで、運転手と大男はバンの中へと踵を返した。 エレベーターは上昇する。 指定されたフロアは7階。 動けない――――――。 扉が開くと、目の前には眩しいほどの光が溢れるロビーが広がっていた。 フロアは7階だけど、8階まで吹き抜けたそこは、天井まで採光100%に近いガラス張り。 まるでホテルのラウンジのように、2人用から多人数用と、各サイズのソファセットがランダムに配置され、目隠しのように置かれた無数の観葉植物が空気に淡いグリーンを色付けしていた。 「こっちだ」 エレベーターを出て、左側へと促される。 行く手を阻むように受付があり、STAFF ONLYのプレートの向こうに20歳くらいの女性が立っていた。 肩までのふんわりとした栗色の髪が印象的。 キュと結んだ唇が醸し出す印象が、誰かに似ているような気がした。 僕の前を歩く管理職の男は、そこで立ち止る事もなく先へ進んで行く。 流されるままその後に続いていた僕は、通りすがり、彼女に少し微笑んで見せた。 その瞬間、オレンジピンクの唇がポンッと開かれる。 「きゃ〜、飲みもの、なにがいいですか? オレンジ? コーヒー?」 トーンが高くなる。 5秒前までは魅力的だったのに、色んな感情が一気に凋んで心底残念な気分になる。 「瞳。触るの禁止」 「そんな〜、遠一さん!」 遠一と呼ばれたホスト風の男は、僕の肩を軽く叩いて歩行を促した。 進んだ通路には幾つかの重厚なドアがあり、僕はドアを開け放ったままにされていた一室へと促された。 《統括マネージャー》 金色でそう明記された黒地のプレートがかかる部屋。 「自己紹介が遅れたね。ジョニー企画の統括マネージャーをしている樋口です」 一人掛けのソファの幅をたっぷりと使って腰を落ちつけた樋口さんは、仕方なく向かいに座りこんだ僕に向かってそう言った。 ―――拉致った側が言うセリフ? 僕は、微かに笑みを浮かべたまま、無言で返す。 「手荒な真似をしてすまなかった。―――君と、ゆっくり話がしたくてね。つまりは、スカウトだよ」 「……」 謝罪は聞けたので、僕も折れてやる事にした。 「―――近くの喫茶店でも良かったんじゃないですか? 警察に通報されたりしません?」 「この腕章をしているおかげが、これまでのスカウト中にそういった問題は今までなかったな」 その腕章、免罪符になるとか考えないかな? ストーキングしている人を拉致るのに、便利な腕章じゃないか、それ。 「……日本って平和」 思わず呟いてしまう。 「ん?」 「いえ―――、悪用されないといいですね」 にっこり笑った僕の言葉に、樋口さんは間をおいた後、僅かに目を開いた。 「……そうか。そういう危険性もあるのか」 今さらながら気付いたらしい。 そんな彼を呆れて見返す僕の視界の端で、遠一という男は壁にもたれ立ったまま、微動だにしなかった。 「クウォーター?」 徐に訪ねてくる樋口さん。 「いえ、ハーフです」 「幾つ?」 「15」 僕の返答に樋口さんの眉根が寄った。 思ったより年齢が低かった、そんな反応。 「身長は?」 「174。……体重も言いましょうか?」 「結構。名前は?」 「ルビ」 「ルビィ? 宝石の?」 「漢字の横につくほう」 「ルビ?」 「はい」 「セックスの経験は?」 呆れた。 「――――随分プライベートな質問ですが、答える意味はあるんですか?」 「まあ、彼女がいないとは思わないから、経験はもちろんあるだろうけど、まあ基本リサーチだよ」 「……SEXは好きですよ。あなたもでしょ? ちなみに、"彼女"は居た事はありません」 「―――は?」 「なにか?」 こんな話を振るクセに、核心に迫ろうとすると顔を赤らめるなんて、リサーチの意味なくない? 「あ―――うん、いや、それじゃあ、犯罪歴はある? 補導された事があるとか」 「……殺人未遂?」 退屈凌ぎにそう応えてやると、プ、という笑い声と共に部屋のドアが開けられた。 「どーも、お邪魔します」 入ってきたのは、30代くらいの、やたらと綺麗な男。 漆黒の髪に、楽しそうに僕を見つめる藍色の眼差しが澄んでいて、同性の僕でも彼のフェロモンを感じずにはいられなかった。 「アキラ」 とドアの横から遠一さんが呼び掛ける。 "アキラ"さんは、そんな彼に応えながら樋口さんの隣のソファに身を落とした。 「遠一、いたのか」 「お前、今日は終わりだったか?」 「いや、ちょっと空いたから寄ってみた。来る途中で偶然"彼"を拉致るの見て、面白そうだったから」 僕を見て笑う。 ひじ掛けについた手で耳の後ろを支えるように座り、少し斜めの目線で僕を見つめてくる。 どこかで、会った――――? 「何?」 アキラさんが視線の意味を問いてきた。 「……どこかでお会いした事あったかなと、思いまして」 「初めて、だと思うけどね」 「そう、ですよね?」 そんな僕らのやり取りに、樋口さんが吹き出すように声を上げた。 「どこかで見たって、そりゃそうだ。うちの看板俳優だぞ。天城アキラ、知らないのか?」 アマギアキラ? 確かに、どこかで――――― (あ) 思い出した。 "Stella"のイメージキャラクターのエントリーシートだ。 ポートレートがPDFに入ってた。 「――――すみません。3ヶ月前にロサンゼルスから引っ越してきたばかりで。そういう事情にはまだ疎いんです」 「ああ、そうなのか」 残念そうな樋口さんの表情。 すみませんね。 「お前、声、イイな」 「え?」 「声。脳に通る。官能的。スカウト、受けてみれば? 俳優に向いてそうだよ、お前」 「!」 俳優に向いてそうだよ―――。 その言葉に、情けない事に反応してしまう。 まあね。 "あいつ"の俳優としての才能が遺伝的なものなら、僕は間違いなくDNAを引き継いでいるわけだし。 けど、 「僕……、アキラさんの事好きだな」 男として、一度は憧れる人だと思う。 "俳優に向いてそう" そう言われるまでは、この人の事を直感的に好きだと思った。 こういう運命的な勘は外した事がないから、このセリフがなかったら、きっといい関係を築ける切っ掛けにはなったかもしれない。 「でも、」 プライベートには、俳優なんて職業は一切排除。 ケリに近寄る可能性を0%にするために、ここでしっかり切っておかないと。 「―――そうですね」 どう言えば、今後一切、関わらずに済むか。 考えて口を開こうとした時だった。 僕のスマホが鳴り出す。 多分ウェイン達がGPSを使って近くまで来たんだろう。 「どうぞ」 と樋口さんに促され、応答した。 『ルビ?』 聞こえたのはトーマの声だった。 「追いついた?」 『はい。現在ビルの前で車を停めて待機しています。万が一に備えて司法部にも連絡しました。なにかあれば直ぐに動けます』 「分かった」 『もう少しいいですか?』 「え?」 『ケリが話したいようなんですが』 「ああ、いいよ。かわって」 『――――ルビ?』 泣きそうな―――違う。 多分、泣いた後なんだ。 「―――ケリ?」 僕は、思いっきり甘やかす声を出す。 そこに居れば、髪を梳いて、瞼にキスをして、僕の胸に強く抱くのに―――― そんな想いを込めて名前を呼んだ。 『ルビ。怪我はない?』 「うん」 『良かった。早く戻ってきてね? 愛してるわ』 「ん、僕も、愛してる」 通話が切れたのを確認してロックをかけた。 顔を上げると、向かいで樋口さんが顔を赤らめて僕を見つめている。 その隣のアキラさんは、ニヤける口許を隠しながら、やはり少し赤面している様子だ。 「そっか、ロス帰りって言ってたな」 「え?」 呟いたアキラさんに聞き返すと、苦笑して応えてくれた。 「愛してるとか、そう言えるもんじゃないだろ?」 「――――ああ!」 驚きの意味を納得した。 「言える相手がいれば、そう照れ臭いものでもないですよ」 「そうかもな」 何かを考えるような素振りをしたアキラさん。 「……」 答えた後で気づいたけれど、僕は母親に言っていたのであって、決して恋人への言葉じゃない。 ―――まあ、いいか。 「すみません。迎えが下に来たようなのでこれで失礼します」 「ルビ君! 本気だよ。必ず売りだして見せるから」 身を乗り出してまでの必死の声。 さっきまでの、興味が勝っていた時とは打って変わって見せてきた本気度。 何かが、彼のスカウト魂に火を着けてしまったらしい。 「……とにかく、スカウトの件については、即答ができる話ではないですし、少し考えてご連絡します」 立ちあがった僕を、これ以上引きとめる気はないらしい。 呼びとめられる切っ掛けを作らないように、僕はただ、真っすぐにドアへ進んで部屋を後にした。 廊下を出てロビーに向かうと、入り口である受付カウンターにはさっきの"瞳ちゃん"が立っていた。 「あ、もうお帰りですか? 飲みモノ、間に合いませんでしたね?」 カウンターから出てきて、ふわりと笑う彼女。 そして肩のあたりでカールされたフワフワの髪が揺れるたび、少し懐かしい気分に絆された。 この感覚は、なかなか説明が難しい。 魅力を感じているわけではないのに、どうしてだろう。 ジッと見つめてみる。 「え?」 数秒もしない内に、彼女の頬はだんだんと赤く染まって行く。 視姦を感じているわけじゃない。 ただ、僕に見つめられて照れているだけだ。 ――――残念。 オレンジ色の唇が目に入った。 ぼんやりと僕に見入っている彼女の顎に、そっと指を触れさせてみる。 抵抗がない。 どうしてだろう? 衝動だった。 彼女にキスをしたのは。 最初は触れるだけのキスだったのに、目を見開いて驚いたままの彼女の表情が可愛く、僕は食むように唇を挟み、そこから舌先を押し入れようとした。 「んッ、……!?」 我に返ったような彼女の反応。 一歩後ずさって、泣きそうな顔で僕を見ている。 あ、悪い事した。 好きな人がいる、そんな顔だ――――。 罪悪感がチクリと胸を刺す。 「ごめん。君が可愛いから挨拶代わり。僕、ロスから来たばかりだから」 「……え?」 「日本人はこういう挨拶はしないんだよね? 本当にごめんね」 「あ……、うん……」 彼女は、コクリと頷いた。 「それじゃ」 手を振る頃には彼女にも少し笑顔は戻っていて、僕は反省しながらジョニー企画のビルを出た。 日本にきてから初めての、後ろ髪を引かれるような気まずい思い。 ……見極めが鈍るなんて、本当に欲求不満かも? 僕にしては珍しいこの有り得ない衝動の、 その本当の意味を知るのは、まだまだ先の事だった――――。 |