シャワールームから出てきた千愛理は、昨日、公園で会った時と同じ格好に戻っていて、
あれから、まだ24時間も経っていないのに、随分と変わってしまった僕達の関係に胸がときめいてしまう。 「髪、ちゃんと乾かした?」 「あ、うん。ドライヤー、お借り、しました」 言葉が途切れるのは、僕の指が髪に触れたからで、 「あの・・・お花、とってくれて、ありがとう」 恥ずかしそうに千愛理の頬が染まるのは、僕達が心も体も繋げた恋人同士だから。 「ん。ベッドに散らばってたから」 言いながら、柔らかな耳たぶを合図のように二度、指で擦る。 「?」 不思議そうに僕を見返した千愛理に、ゆっくりと体を傾けていくと、 「ぁ」 意図に気づいたように、一瞬だけ戸惑った様子を見せた後、上向き加減で目を閉じた。 重なる唇。 一度、二度、啄むように動かして、 「・・・」 欲望を閉じ込めた蓋が反応し始めた頃を見計らって、それを離した。 ――――――ダメだ。 触れていると、数秒も自制出来ない・・・。 千愛理の唾液の甘さに思考が眩みそうになる。 「ルビ・・・君?」 夢見心地でぼんやりと浸ってしまった僕の様子に、少し不安そうにした千愛理の手を取って、笑って見せる。 「食事しよう」 「え?」 「見たらきっと驚くよ」 そのまま、手を引いて廊下を歩き、ダイニングへと辿り着くと、目に入るのはテーブルを埋め尽くす数々の料理と、フラワーアレンジ。 まさにこの日用にデコレーションされたクリスマスケーキは、真っ白なベースにカラフルなメレンゲドールが何体もトッピングされていて、 「軽い食事くらいで良かったのに、三戸部さんが色々追加してウェインに運ばせたらしい」 「・・・」 僕の予想していた反応とは少し違う種類の千愛理の表情。 「――――――昨夜からほとんど何も食べてないし、千愛理もお腹すいたでしょ?」 初めての場所と、慣れないウェインとの環境に遠慮しているのかと思って、千愛理が座る椅子を引いた。 結局、昨夜はずっと僕の部屋にいて、夜中に一度だけ、小さな声で水を求めた千愛理に、口移しで舐める程度に飲ませただけだ。 当然、喉も乾いていると思ったけれど・・・、 「うん・・・」 席についた千愛理は、注がれたフレッシュジュースにも釣られずにまだ上の空。 その目線は、テーブルに並べられた料理の、ある一つへと向けられている。 赤紫か、濃い茜。 見慣れないお米・・・料理? 「・・・この赤いご飯、小豆が入ってる?」 僕の問いに、 「・・・お祝い事に食べるものだと言われました」 ウェインが妙な間の後に答えをくれた。 お祝い事――――――、 「三戸部さんが? ふうん・・・? 日本人もキリストの誕生を祝うんだね」 深い意味はなく、ただ相槌程度が欲しくて目を向けただけだったけれど、 「・・・」 何故か複雑そうな顔をして、千愛理の動きが固まってしまっている。 「千愛理? どうかした?」 思わず手を伸ばしそうになった僕に、 「・・・ううん! あの、――――い・・・いただきます」 らしくなく、慌てた様子でカトラリーを掴んだ千愛理の頬は、僕がキスをした時よりも赤く染まっているような気がした。 食事を済ませたタイミングでマンションの管理会社に連絡を取り、迅速に駆け付けてくれた担当のスタッフと幾つか書類を交わして、システムの携帯端末から千愛理の指紋を登録。 「これでいつでも入れるから」 「いい・・・のかな?」 少しだけ、困ったように眉が下がったけれど、 「僕がそうしたいんだ。必要になった時に慌てたくないし」 「・・・うん」 ジッと、目の奧を見るようにして告げた僕に、やっと嬉しそうに唇を笑みに結んでくれた。 午後からバイトがあるという千愛理を家に送り届ける際に、玄関やエレベーターで動作確認を取って、 「あ、動いた」 ふわりと顔を綻ばせた千愛理は、無性に僕の胸の何かを煽る。 「――――――どうしたの? ルビ君」 車の中、手を繋ぎながら、目を離せずに見つめ続ける事を求めた僕を、千愛理が不思議そうに見返していた。 「・・・うん。離れたくないと思って」 見る見るうちに、千愛理の薄茶の目が大きく見開かれ、しっかりと組み合っていた指が、千愛理の方からキュッとその答えを返してきた。 「年末年始は、日本(こっち)の仕事以外はオフになるから、年始なら一緒に居られると思う」 「・・・」 「どこに行きたいか、考えておいて」 「・・・え?」 「デート、たくさんしようね」 「―――――嬉しい」 「うん」 どうしてだろう。 抱きたい欲望は僕の中に零れそうな程溢れているのに、 前に水族館に行った時の、千愛理のはしゃいだ様子が恋しくて、 またあの時間が欲しいと思った。 "本当"の恋人同士なら、きっとその時間の価値も格段に変わるような気もしたし、 それに――――――、 『無かった事にしたいの・・・』 あの時、 僕が自覚無く受けていたらしい小さな傷を、綺麗に塗り直す新しいシーンが欲しいと思ったのが本音。 これから幾らだって一緒に居られるとは思うけれど、 経験の無いフェアな恋愛に、僕が浮かれきっているのは事実だ。 「凄く楽しみだ」 「うん。あたしも」 可愛らしく目を細めた千愛理は、今までのどんな存在よりも、僕の胸を嬉しく、切なく、苦しくさせた。 千愛理を自宅のマンション前で下ろすと、車内に痛いくらいの静けさが募る。 部屋の前まで送ろうとした僕を、 『パパより先に、近所の人に見られるのは、・・・その、あまり良くないと思うから・・・』 やんわりと制してきた千愛理に根負けして、エントランスに入るその後姿を、スモークガラスの向こうに見守った。 "恋人を家の前まで送り届けない男" そう評価される事の方が僕としては気になったけれど、大輝に、パーティのエスコートをする件で、千愛理の保護者である修氏に事前に許可を得るようにアドバイスをもらった事と同じで、日本的な考え方があるのかもしれないと、今回だけは引き下がった。 修氏と話し合って、正式にその役目を担える形に持っていければ、それでいい。 なるべく早いうちに、もう一度、修氏と連絡(アポ)をとって顔合わせをしてしまおう。 色々と策略を巡らせていると、 「ルビ、これからどうしますか?」 運転席から、僕の思考の合間を読み取ったようなタイミングで、ウェインが声をかけてきた。 「・・・本宮の屋敷に。三戸部さんにお礼を言わないとね」 「わかりました」 走り出した車の加速に、心地よく体を預けながら、ふと口を開く。 「あの赤い豆ごはん、やけに千愛理が気にしていたようだけど、何かあるの?」 すると、バックミラー越しにチラリと視線を僕に合わせて、 「・・・あれは、お赤飯と呼ばれるものだそうで」 「オセキハン?」 「アメリカで称(い)う、ファーストムーンパーティの時に食べる定番のメニューだそうです」 「――――――え?」 FirstMoonParty・・・? 突然、思考が別世界に飛んだような気がして、頭が空白になった。 「つまり、あれは、三戸部さんから千愛理さんへの、」 「ウェイン!」 少し声を強めて続きを止める。 「わかったから・・・」 頬杖をつくように抑えた口から逃げきれなかったため息が、熱く、鼻腔から漏れる。 だから、千愛理の様子がおかしかったのか。 「――――――可愛い」 思わず、こそばゆい程にこみ上げる笑いが、今度は口元から溢れた。 あの時、リアルタイムでこれを知っていたら、もっと追いつめてあげたのに。 僕の意地悪を込めた笑みに攻められて、羞恥に泣きそうになる千愛理を、 もう一度、この腕の中で、きつく抱き締められたのに――――――。 メールを打ちたくなった。 "愛してるよ。お赤飯、千愛理のお祝いだって気づけなくてごめんね" そんな内容で送ったら、会えない時間も、きっと僕の事で頭がいっぱいになるだろうか――――――? 離れていても、千愛理の思考を独占できる。 悪戯心に火がついて、スマホを手にした時だった。 Pipipipipi 鳴り響く着信音。 ディスプレイの表示されているナンバーは、 「――――――ソフィ・・・?」 僕の呟きに、ウェインの肩が揺れたような気がした。 "あいつ"が日本に来ている事は、新作の映画のジャパンプレミアの様子がニュースになっていたから知っていた。 そして今、海外通知というテキストの無い、ソフィの携帯ナンバーのみの表示。 そこから導かれる答えは一つだけ。 ソフィも、日本に来ている――――――? 「・・・Hello?」 【・・・ルビ、兄さま?】 久しぶりに聞く、少し高めの可愛い声。 【・・・うん。僕だよ。・・・ソフィ。日本に来ているの?】 【うん・・・】 【"あいつ"に言われて?】 【・・・うん】 【・・・】 最後に会ったのは、およそ4年前――――――。 【あの、電話して、ごめんなさい】 【・・・別に、構わないよ】 僕の応えに、電話の向こうから、ホッとしたような吐息が聞こえる。 ・・・幾つになったんだっけ? 8、・・・9歳? そんな年で、一般の環境なら考えられない程に人の感情の機微に敏くなるのは、特異な運命の下に生きるよう置かれた、僕達の運命(さだめ)みたいなものだと思う。 【もし・・・、ルビ兄さまが良かったら、・・・会いたい・・・の】 僕は――――――、 【・・・いいよ】 ケリに少しだけ雰囲気の似た面差しと、 【・・・え?】 黒い瞳、そして、柔らかな黒髪を持つ妹(ソフィ)を、 【時間を作るよ】 【ほんと・・?】 【うん】 【迷惑、じゃない・・・?】 【そんな事無い】 可愛いと思う反面、 【――――――そろそろ仕事に戻らないと。時間が作れたら僕から連絡するから】 【・・・あ、ごめんなさい・・・】 これまで一度も、 【いいんだ。それじゃあね、ソフィ】 素直に愛する事が出来なかった――――――。 |