その日は、なんだかあたし自身、いつもより勘が良くて、そして、心の感度も高った。 「おはよう、佐倉」 「あ、おはよう、藤倉君」 いつもの朝の挨拶に、あたしは読んでいた冊子から顔をあげて藤倉君を見る。 「佐倉、まだトリセツ読んでんだ?」 「……」 トリセツ=取扱説明書。 「こんなの一度さらっと目を通せば楽勝なんじゃん?」 爽やかな笑顔でさらっと言った藤倉君が意地悪に見えるのはあたしだけ? 「藤倉君はね! あたしは無理。あ、でもやっと基本操作は手探りでできるようになったよ」 「ぷ。おめでと」 スポーツバッグを机の横に提げるとほとんど身動きが取れなくなる藤倉君は、前を向いたままそう言って、……肩で笑ってる。 「もう……」 少し口を尖らせて頬杖をついた時だった。 「ごきげんよう、佐倉さん」 あたしの席の横を通りながら、ミナコさんがそう挨拶をしてきた。 「え?」 身体がフリーズするって、こういう時に使っていいんだと思う。 なんだか生きている機能が停止したような気になっちゃった。 藤倉君も驚いたように振り向いていた。 通りすがりの挨拶だから、別に会話が進むような事は無く、でも黒髪が揺れる後ろ姿を茫然と見送ってしまう。 「何? 和解したの?」 「え? ……よくわかんない」 和解と呼べるほどの何かがあったわけでもない気がするし……。 でも、――――――なんで? この学園に入学して、最初1ヶ月くらいはあたしも普通に女子高校生生活を満喫していた。 何がきっかけだったか、千早ちゃんからの意地悪が始まって、それからは誰もが関わらないように遠巻きに見ているだけ。 ―――ううん。 あたしが居るか居ないかすらも、きっと考えてもらえなかったと思う。 "無視する"というはっきりとしたものでもなく。 けれど空気のように見ない振りをされてきてたから、藤倉君と、そして健ちゃん以外からこうして普通に扱われるのは本当に久しぶりだ。 ―――最近は、本宮君と話をしたり、その事でミナコさん達と会話したりと、ちょっと世界は広がっていたけれど……。 あれ? そういえば――――。 朝登校してくる時、別のクラスの人からも朝の挨拶をされた……っけ? 声が小さかったから気のせいだと思って、でも何も知らない人が挨拶してくれたんだとしたら無視するのも嫌だったから、念のため会釈は返したけど……、 あの女の子……思い返せば見た事あったかも……。 ――――誰だっけ? 「おはよう」 引き戸が開いて、教室に沙織先生が入ってきた。 「「「「おはようございます」」」」 クラスのみんなの声が従順に揃う。 優しい萌黄色のセーターを着て、素敵な黒のスカート。 薄化粧に、しっかりとした輪郭の唇。 最近、沙織先生はまた一段と綺麗になったと思う。 出席簿を持った右手の薬指のプラチナリングがキラキラ光る。 旦那様に愛されているんだろうなあ……。 ふと、本宮君の方に目線が向いた。 相変わらず天使のように綺麗な本宮君。 転校してきた時より、少し伸びたクリーム色に近い薄い金髪。 耳にかかる具合が変わってるんだよね。 長めのあの髪は、彼の笑顔よりもふわふわしてそうで、すごく凄く、触ってみたい気になる……。 でも、ここ最近の彼は、早退したり遅刻したり授業を抜け出したり。 スマホを買ってもらって以来、話す機会もなく数日が過ぎていて、髪を触らせてもらうどころか、しばらく声も聞いていない。 ――――寂しい、という言葉は、こういう胸の隙間の事も言うのかな―――― そんなに親しいワケでもないのに、どうしたんだろう……。 よくわからない自分の感情に困惑して、本宮君から目を離そうとした時だった。 ふと、沙織先生の方を向いた本宮君。 …………? 僅かに、細くなったヘーゼルの瞳。 微笑んだなんて、もしかしたら誰も気づかなかったかも。 でも、あたしはジッと見てたから、その微かな表情の変化が見て取れた。 あの視線だ――――。 あたしは、その視線の先の沙織先生を見た。 (え……?) ほんとに、一瞬だったけれど、 本宮君の視線を受け止めた沙織先生は、以前とは全く違う反応を返していた。 沙織先生は、笑顔になったわけじゃない。 むしろ、いつもより努めて真顔のように見えて、それでも、隠せないほどの香り立つ花の開花が見えたような気がした。 ―――ううん。 そんな完全なものじゃなくて、まるで、カサブランカの花弁を1枚削ぎ落した時のような、 ………… 女の人を見て、こんなに胸がドキドキするのは初めてだった。 ―――――― ―――― 「佐倉さ、」 「……うん」 「この雰囲気、……ってさ」 振り向いてきた藤倉君が、何が言いたいのか判る。 午前中の休憩時間、トイレに行ったり移動したりする間に、少しずつ増えてきた、あたしへ向けられる不思議な目線。 気のせいだろうと言い聞かせて、今のお昼時間を迎えたけれど……、 「――――――やっぱり、何かした?」 真面目な藤倉君の質問。 「思い当たる事……無い」 「いや、これは、尋常じゃないよ?」 ――――うん。 あたしもそう思う。 あたしをチラチラと見る視線の数。 朝は異常が無いように見えていたクラスの女子も、今では半数がこっそりあたしを盗み見てる。 廊下を歩いてても、すれ違う女子に眉を顰められたり、クスクスと指を差されたり、 ……かと思ったら、ごきげんようと挨拶をされたり。 ――――――まったくもって状況が読めません。 「オレ、部会あるから昼は教室から居なくなるけど、大丈夫か?」 いつもとは少し異質の状況に、珍しく神経質になる藤倉君。 「あ、……大丈夫だよ。なんか、いろいろ慣れちゃってるし」 「んん〜、やっぱ健斗いないとな〜、牽制できねぇな」 藤倉君の言葉に、あたしは笑った。 確かに、健ちゃんはなんだか特殊なカリスマ性があって、傍に居てくれるとすごいお守りになる。 あ、お守りなんて言うと、健ちゃん拗ねるかも。 護符? 魔除け? 印籠? やっぱり拗ねるかな―――。 想像して、ふふ、と笑った時だった。 「―――千愛理」 ドクン。 その声に、心臓が反応する。 久しぶりに聞く気がする。 その、見た目の柔らかさを男らしく補うような、少し低めの、甘い声。 「本宮君……?」 え? ちょっと待って、今、千愛理って呼んだの? スマホを買いに行ったあのショップで、本宮君は突然あたしの事を名前で呼び始めた。 あの時は、本宮君の遊びゴコロが満開で、完全にその場のノリだと思っていたから気にもしなかったけれど、 どうして―――? 「お昼はフリー?」 それは優しい、王子様の笑顔で尋ねてくる。 あたしの反応が遅れていると、 「お、本宮、お昼空いてんの? じゃあ佐倉の事、頼んでいい?」 藤倉君がスポーツバッグを背負ってそんな事を言った。 「今日、ちょっと女子が変だからさ、心配だったんだよね。佐倉、今日は弁当持ってきてないんだろ?」 あたしの机の横に、ランチバッグが無い事を目で確認しながら、 「一緒に学食でも行けば?」 意味深に笑う藤倉君。 ……絶対、藤倉君は楽しんでいる。 「うん。良かったら一緒に学食行かないかなって誘いに来たんだ」 そう応えた本宮君は、 ―――多分、機嫌、悪くなった……。 なのに、 「おいで、千愛理」 「――――え?」 本宮君の左手が、あたしの右手をギュッと掴まえる。 「え? ちょ、本宮く」 引っ張られるようにして歩き出したあたしの背後から、 「っかりやす」 吹き出した後の藤倉君のそんな声が、聞こえた気がした。 |