今朝は、多分僕の勘が働いたんだと思う。 『ルビ。どうしたの? 珍しいわね。こんなに朝早くから電話をくれるなんて』 何日か振りのケリの声を聞きながら、登校する生徒達の流れから少し離れた位置に立って校舎の壁に背を預けた。 「うん。ちょっと声が聞きたくなって」 車から降りる直前、本当にただ思い出して気が向いただけだった。 『ふふ。嬉しい。もうそろそろ学校の時間でしょう?』 途中で少し声が遠くなる。 恐らく、携帯に表示されている時間を確認するために、いったん耳から離したんだろう。 「うん。もう着いてるよ」 『白邦はどう?』 不意に尋ねられて、ふと、最近はいつも傍に居る、千愛理の顔を思い出した。 「――――まあ」 校舎に入ろうと歩く生徒達が、僕を見つけては不躾な視線を送ってきて、けれど目が合おうとすると逸らして足早に過ぎて行く。 逆に、僕からその群れに視線を向けていると、今度は視線を向けられる事はほとんど無い。 「……退屈はしてない」 『へえ?』 ケリの反応が、1オクターブほど上がった。 「……何?」 『だってあなたが、"退屈はしてない"なんて、つまり"楽しい"って事でしょう?』 「……ケリ。都合良く変換するのはやめてよね」 『くすくす。ごめんなさい』 明るく笑っている、……ように聞こえるケリの声。 「―――――?」 僕は少し眉を顰めた。 たぶん、生まれた時からの関係を持つ僕だから気付けた事。 「ケリ、何かあった?」 電話の向こうで、僅かに息を呑む気配がする。 『何もないわよ?』 ……立て直した。 でも、 「――――声、変だよ?」 『そう? いつもと変わらないのに』 ふふ、と笑うケリ。 『ああ、でも、昨夜はかなり飲み過ぎたの。もしかしたら喉がやけちゃたのかしら』 「ふうん?」 こうなると、ケリは僕にばれないよう細心の注意で演技をしてくる。 そうやって耐え忍び、1人で隠れて流していた涙を、僕は何年も、彼女の為に見ないフリをしてきた。 離婚の時、彼女の元夫であるケヴィンに架せられたケリへの接近禁止令が明けるのは来月。 あいつが現れている筈は無い。 とすると原因は、何――――? 『ルビィ、近いうちにデートしましょう?』 「うん」 『私もそろそろ出なきゃ』 「わかった」 『行ってらっしゃい。愛してるわ』 「うん。僕も愛してる」 この時ばかりは、少し笑みはこぼれるけど、 『うん。それじゃ』 逃げるように終えられた通話。 「……」 気のせい? ―――――じゃない。 "ルビィ" ケリが僕の事をそう呼ぶ時は、甘えている時。 甘えたい時――――。 やっぱり、何かあったんだ。 「……」 唇に指を当て、少し考える。 ウェイン・ホンに今電話をしても、もし、ケリが傍に居る状況だとしたら、正確な答えは得られないはずだ。 件名:すぐに返信を 本文:ケリの様子がおかしい。何があった? メールを送信して、とりあえず教室に向かって歩き出す。 ウェインから衝撃的な返信が届いたのは、朝のSHRが始まる直前だった。 ―――――― ―――― 屋上のドアを激しく開け放ち、スマホの着信履歴からウェインの名前を探してタップした。 冬の空は鉛を含むように色が暗く、冷えた風が僕の髪を撫でる。 そんな温度の低い環境とは裏腹に、心底から湧きあがる嫌悪感と怒りが、僕の体内を熱くしていた。 『はい』 1コールで応答したウェインの声。 僕は低く、尋ねる。 「どういう事?」 『申し訳ありません』 その返答に苛々が増す。 「違うでしょ?」 返って来たメールの内容は、 件名:Re:すぐに返信を 本文:ケリは昨夜、天城アキラと一緒でした。 「なんでケリが天城アキラと? そんな"接触"の報告は、僕、聞いていないよね?」 『……はい』 「これは"失態"じゃなくて"過失"だよ、ウェイン。彼を排除しなかった理由、僕が納得できるような説明はあるんだよね?」 『説明は、……できません。ただ』 電話の向こうで、ウェインが固唾をのむのが分かった。 『天城アキラを見て、ケリの友人として私が判断し、接触を許しました』 「!」 僕は驚きで目を瞠った。 その言葉には、過去にまつわる事すべてが要約されて詰まっていて、かつ、ウェインがアキラを認めたという事を示していたから。 『それが今朝になって、向こう側には、どうやらあなたのスカウトの件を目論んでいた背景があったようで、それで』 だからケリは、傷ついた――――。 「―――分かった。もういい」 『ルビ、』 プツ、 強制的に通話を終え、そのままスマホを何処かに投げつけたい衝動を、なんとか理性総動員で抑え込む。 それでも、その物理的塊を握り潰せそうなほどに、怒りの感情が僕を支配している。 天城アキラの端正な顔を思い出した。 確かに、ジョニー企画の事務所で初めてあの人を見た時、普通の"いい男"とは違うような気はした。 ただ見た目が良いというだけじゃない。 男なら一度は憧れる姿と所作と、存在感。 色気があるのに、漂う男らしさ。 惹きつけるのは女性だけではないと思う。 俳優として成功している事がその証と言えるんだろう。 それでも、 例え、ケリが"傷ついて"しまうほどに"受け入れて"いたんだとしても――――。 僕は唇を噛んだ。 ウェインが何をどう見て判断したのかは知らないが、彼が"俳優"という職業である限り、僕は決してケリの相手としては認めない。 "愛"を天秤に乗せる人種は、もうケリの周りに必要ないんだ――――。 目が届かなかった今回は、僕もケリを傷つけた側になる。 これは、僕の罪でもある。 やっぱり、離れて暮らすんじゃなかったという後悔がひしひしと沸いてきた。 行き場の無い感情が、矛先を探している。 その時――――、 「……本宮君?」 背後から、僕の気丈を揺るがす、千愛理の甘い声がした。 |