―――――誰かの声が、こんなにザラついて耳に届いたのは初めてだった。 「本宮君、なんだか辛そうだから……」 怒りのはけ口を探していた僕の顔を、心配そうな千愛理の顔が覗き込む。 薄茶の瞳が、ただ僕の姿を映している。 罪な事は何も考えない、無垢な眼差しを一心に向けて、ただ僕を見つめている。 チリチリと、脳幹あたりが刺激された。 僕が知らなかった、ジワジワと身体を支配していく、なんとも言い表せない苛立ちの感情。 「……へえ」 僕は笑った。 心に1本の軸があるとしたら、それは液体窒素に吹かされたように瞬く間に凍っていた。 「本宮、君――――?」 1歩、1歩、僕に迫られて壁に追い詰められた千愛理。 状況についていけなくて、ただ驚きで僕を見つめている千愛理。 スカートも一緒に押さえつけるようにして、千愛理の脚の間に僕の膝を入れた。 腰でしっかりと動きを封じて、襟を結ぶタイを解く。 ボタンを1つ外す毎に、千愛理の頬の赤みが増していく。 「僕が欲しい甘いもの」 指先で、鎖骨の間から露わになった白い胸の谷間まで、ゆっくりと指先を滑らせる。 あ……、と。 吐息が千愛理の桃色の唇から漏れた。 その声を拾うように指で撫でて、これからする事の合図を送る。 「セックス、しようよ。今、ここで」 驚きに震える千愛理の虹彩。 金縛りにあったように動かなかった彼女は、僕が顔を近づけていくと同時に唇を噛み締めた。 固く閉じられた目からは、これがどの程度の拒否を示すのか量る事も出来ない。 「……」 こめかみに、わざと音を立ててキスをすると、僕にすっぽりと包まれた千愛理の体が、ビクリと揺れた。 香水の匂いじゃない、 ほんのりと立ち上る、甘い香り――――。 唾液をつけた舌を出して、僕は千愛理の耳を舐めあげた。 「千愛理、これが、僕が欲しい甘いものだよ―――――」 囁いて、耳たぶに吸いつく。 舌先でそれを弄ぶ度、千愛理の喉から小さく声が零れる。 音を立てるように耳の中を刺激すると、次第に、千愛理の身体の重みが僕の膝にかかってきた。 「もとみやく」 僕に耳を舐められ、 「おねが」 それでも背中に手を廻してこない千愛理は、 「やめ」 やっぱり僕が求める"女性"とは、 違う――――。 「……」 僕はゆっくりと千愛理から体を離した。 「……何されてもいいくらいの覚悟がなきゃ、慰めるなんて態度、男相手に取るべきじゃないよ」 低い僕の呟きに、 「ごめ、なさ」 見上げてくる千愛理の眼には、今にも零れ落ちそうな涙の塊。 ケリの事で、天城アキラに向けていた怒りなのか、 ウェインに向けての戸惑いか、 それとも、千愛理の無防備さへの苛立ちか―――――。 「……ッ!」 制御しきれない感情の起伏が、僕の口から溢れようとした時だった。 ポケットの中で震えるスマホ。 ケリの事がある今、どの連絡も無視する事はできない。 千愛理に背を向けながらスマホを取り出し、表示されている名前を見た。 (エリカ……) 「――――はい」 『ルビ? 私よ』 久しぶりに聞く、ケリの親友であり、僕のビジネスパートナーでもあるエリカの声。 幼いころから知っている声なのに、今回限りは僕の機嫌をあげられる効果は全然なかったみたいだ。 ため息が出る。 「エリカ、悪いけど今、話す気分じゃ――――」 『今、成田よ』 「―――日本に着たの?」 『ええ。――――あなた、例の件が明後日だって分かってる?』 「え?」 エリカの言葉に、急転直下のシナリオが下りてきた。 そうか――――。 「エリカ。すぐに僕の所に来れる? ――――いや、僕が行くよ。ホテルはどこ?」 伝えられたホテルは僕とケリが2ヶ月近くステイしていたホテルで、僕とエリカの情報源はほとんど同じはずだから、そんな偶然の確率は決して低くはないけれど、掴み損ねていた状況の流れを僕の意思で打破できる機会が与えられたような気がして高揚する。 「じゃあ、後で」 通話を終了させたと同時に、千愛理を振り返ると、彼女は、冷たいコンクリートに座り込んでいた。 俯いている顔が、まだ火照るように色づいている。 手が、僕の愛撫を受けていた耳を隠している。 「……一人で戻れる?」 僕の問いに、千愛理が僅かに頷いた。 「だ、大丈夫」 「……」 ほんの数秒、千愛理を見ていたけれど、結局顔を上げてこない。 「――――そ。じゃ」 その一言は、何故か言い難かった。 振り絞るように声を出して、僕は一度も振りむかずに屋上を出た。 "トーマに連絡して迎えを待つ" そんな悠長な気力も無かった僕は、学園から出て、直ぐにタクシーを拾った。 しばらくすると、僕の体に燻っていた熱が冷め始め、心の表面がシンとする。 泣きそうな千愛理の顔が、何度打ち消しても脳裏に蘇った。 ふと、目に入ったブレザーの裾の一部。 それなりに厚みのある生地に、掌サイズの範囲でシワがついている。 「……?」 何でこんなところに……、 考えて、僕はハッとした。 あの時、 千愛理にキスをしようとしたあの時――――、 ここに感じたその重さに、それを止めたんだ。 どんなに刺激をしても、僕の背中に回らなかった千愛理の手が、 震えてここを握りしめていた――――― 「――――――」 シワを隠すように手を乗せる。 この胸に押しかかる痛みは、僕の中にあるどんな言葉にもあてはまらなかった。 |