急遽、契約締結の日を繰り上げてきた"Stella"からの要望を、ジョニー企画はすんなりと受け入れた。 優秀なホテルスタッフが、運び込んだテーブルと椅子、その他の備品でたった20分で作り上げた会議室。 その会議室で、"Stella"のCEOであるエリカが主導権を握り、契約会議は順調に進んでいる。 僕はといえば、シルバーに黒の細いストライプが入ったスーツベスト姿で、ドアの前に立ち、数分前からエリカの合図を待っていた。 契約書の読み合わせと確認だけで既に2時間が経過中。 天城アキラは、目の前の美味しそうなニンジンを、手中に収めた気になっている頃だと思う――――。 「パーフェクト!」 ドアの向こうから、エリカの歓喜する声が聞こえてきた。 双方が持っている契約書にサインがなされ、内容について受諾した事が僕に伝えられた瞬間。 待っていた、エリカからの開幕の合図。 隣にいるトーマがドアノブを下げ、 【Good Luck】 幸運を、と小さく囁いてドアを開けた。 誰に? 僕が勝利を手にすれば、ケリはやっぱり落ち込むんだろうから手放しで喜ぶ事は出来ないし、万が一その逆でも僕が不幸だ。 足を踏み入れた部屋の正面の壁には、プロジェクターでウォールスクリーンに映し出されている"ジョニー企画"と"Stella"のロゴ。 その手前に、テーブルに向かい合って並ぶ双方のスタッフ。 「ルビ……?」 いつか見た、美しさの中に精悍さを迸らせる、一瞬でも"男"としての魅力を認めてしまった天城アキラが、眉を顰めて僕の名を呼んだ。 応える気はないから、完全無視でエリカの方へと一直線に進む。 「エリカ、終わった?」 「はい、全て終わりました。――――社長」 ショートカットが似合う顎のラインを際立たせる赤い口紅の端がにこりと上がる。 ジョニー企画側のメンバーが、効果音が付きそうなほどに動揺していた。 「ルビ君……? "Stella"の社長……それは、いったいどういう……」 エリカが促した椅子に腰かけて、僕はひじ掛けを利用した状態で足を組む。 質問をしてきたのは、僕のスカウトに真剣だった、ジョニー企画の統括マネージャーの樋口。 次のイメージキャラクターを探しているという情報を受けて、日本から初めてアプローチしてきた大胆さと、緻密に計算された売り込みの手腕には感心したけれど、こんな事でオロオロするなんて、思わず冷めた目で見てしまう。 天城アキラをケリにけしかけたのは、間違いなくこいつだ。 「子供の頃から企業の足し算引き算が得意で、いつの間にか足元にコングロマリットが出来上がっていたというだけです。アメリカでは珍しい事ではないですよ」 僕の言葉に、樋口は難しい顔をした。 「―――私達は、あなたとの個人契約は諦めざるを得ないと言う事、ですね……?」 「まあ、そういう事ですから、"つまらない小細工"で僕のプライベートに関わる事は、今後一切無いように注意してください」 視界の隅で、ピクリ、と天城アキラの体が反応した。 やっぱりこの人は、頭がいいし、勘もいい。 伊達に芸能界と称う世界で、25年も生き残っていない人だ。 僕はゆっくりと首を動かして、天城アキラの眼を見据えた。 「―――まあ、契約内容に盛り込んだ通り、あなたは"Stella"の宣伝に従事するにあたり、世間に公示されてから1年間は、あらゆる女性スキャンダルを避けなければいけませんから、僕の"心配"はもう不要だと思いますけど」 僕が投げた石に、エリカが小さく鼻で笑ったのが頭上から聞こえる。 立ったまま見降ろすように周囲を観察する現状が、楽しくて仕方ないんだと思う。 そういう"性格の悪さ"が、小悪魔のようなエリカの魅力だ。 その波紋は、ゆっくりと室内に広がっていく。 「――――――どういう、意味だ?」 天城アキラの声が、刻むように尋ねてきた。 僕は思わずほくそ笑み、 「エリカ」 その一言だけで全てを促した。 「はい、社長。――――では皆さま、まずは締結した契約書をご覧ください。肖像権に関する第12章6項目。"Stella"のイメージキャラクターとして、向こう1年間、"当社"がダメージを受けたと判断する女性スキャンダルについて該当があった場合は契約履行義務を解消する権利を有す」 当社=僕 ダメージを受けたと判断する女性スキャンダル=僕が望まないケリとの交際。 つまり、 「なんだそりゃ。"Stella"の仕事をさせてやる代わりに、"オレの女に近づくな"ってか?」 この前あった時とは随分印象が違う遠一はじめが、舌を打ってからそう言った。 (誤解はあるけど、ご明察) 思わず笑みが零れてしまう。 「まさか。――――僕はただ、日頃の行動がその項目に抵触する可能性を懸念しているだけですよ」 「……なるほどね」 そう相の手を入れたのは、天城アキラだった。 細く漏らした溜め息と、不機嫌そうな顔。 まあ、手放しで受け入れるのもアレだしね。 残念そうな演技は必要だと思う。 脳裏に、一瞬だけケリの泣き顔がちらついた。 震える肩、濡れた頬。 これまで幾度となく見てきた泣き顔が、哀しいくらい鮮やかに記憶から蘇ってきて、僕を揺さぶる。 チクリと胸が痛んだ。 (……だから俳優は嫌いなんだ) 最初から、"演技している"という可能性を、完全にふっ切る事が出来ない。 小さい頃から、僕はたくさんの大人に囲まれて生きてきた。 そうして見てきた大人達から学んだ事。 プライドを守るために、生活を守るために、心を守るために、誰かを守るために、自分を偽るために、誤魔化すために、愛が欲しい時だって、人間が生きて行く上で、多少なりとも違う自分を演技をする事。 そして僕は決してそれを否定はしない。 僕自身も、そうだから―――――。 でも俳優は、騙そうとしてそれを演じる事が出来るんだ。 愛してると言いながら、 君だけだと言いながら、 散々ケリを傷付けてきた、"アイツ"のように―――――! 天城アキラは、僕をジッと見つめていた。 その藍色の瞳は、何かを推し量るように鋭かった。 早く言えばいいんだ。 "わかった。もう近付かない" それだけで手に入る世界的ステータス。 「ふ」 天城アキラの顔が、ほろりと綻んだ。 ほら、ね。 僕もつられて目を細める。 ―――――瞬間、 天城アキラを包む空気が、ガラリと変わった。 「樋口さん、俺は、この仕事下りるよ」 ――――――え? "この仕事下りるよ" 幻聴かと、思った。 「アキラ!? 馬鹿を言うな! 契約はさっき成立してるんだ! 違約金に一体いくらかかると思ってるんだ!!」 樋口の怒鳴り声。 透かさず、冷静なエリカの声が続く。 「第3章2項目。一方的な都合による契約破棄の場合は、こちらが3年間で支払う予定だった提携報奨金の約40%。日本円で、約2億円です」 「それだけじゃない! 裁判になれば更に10億は必要だ!」 悲鳴のような樋口さんの声と、「おいおいおい」という遠一はじめの笑い交じりに呆れ果てた声。 「俺が払う」 ドクン、ドクン、と。 僕の中を鼓動が走り抜けていた。 指先までその振動が届き、ピクリと跳ねた事には、この時、背後にいたトーマだけが気付いたと思う。 僕の肩に、トーマの掌の温もりが添えられた。 「あ〜、もしもし、アキラ君? 本気で、こんなんで、25年踏ん張ってきた私財、全部、投げる気?」 茶化すような遠一はじめの言葉に、天城アキラは別段力を入れるわけでもなく、ただ淡々と指を折る。 「株、マンション、土地、残らず金に変えれば現金と合わせて20億はあるはずだ。全部事務所の名義にして構わない。――――樋口さん、それならいいだろ?」 言い切られ、「あ、う、」樋口さんは金魚のように口をパクパクとさせていた。 心境は、僕も同じだだった。 何が、起きているのか、よく把握できていない。 「アキラ、お前にここまで言わせるなんて、いったいどんな女だよ」 「ん? ――――別に、多分、普通の女だよ」 そう言って微笑んだ天城アキラは、色気が内側からにじみ出るような妖艶な微笑みを浮かべていて―――――、 彼の眼差しが意思を濃くする度に、纏う空気が、強く、強く、色づいていく……。 その表情から、僕にまで伝わってくる、想い。 愛しい、 愛しい、 天城アキラの心には、間違いなくその想いを向けられたケリが住んでいる。 ―――――ケリ……。 いつだって、僕の1番はケリで、 いつだって、ケリの1番は"あいつ"だった。 多分、息子として、僕はたくさんの愛情は受けたんだ。 日々の中で、僕は確かに愛されていると感じたし、何よりも、ケリの体には、僕を守るためについた2発の銃痕がある。 僕を庇うために一瞬も迷わなかったケリの行動の一部始終は、防犯カメラの映像を通して何度も見た。 それでも、"あいつ"の愛が欲しいと泣き暮らしたケリを見て、僕はいつだって、哀しい嫉妬に塗れていたんだ。 ケリ、僕だけじゃ、ダメなの? 問う事は無いから、答えは決して返らない。 愛してると言いながら、"あいつ"の面影を求めて僕の顔を見つめるケリ。 強く抱きしめていながら、"あいつ"と同じクリーム色の金髪に、愛しそうに触れるケリ。 でも、 それでも――――、 僕が彼女に与えたかった、彼女にとっての理想の愛が、この天城アキラという男から注がれて、そしてケリが笑うなら―――――。 「―――もういいでしょう? ルビ」 エリカの言葉に、僕は切っ掛けをもらって立ちあがる。 先方のジョニー企画の現地筆頭である樋口さんに、頭を下げた。 「私情で―――、契約の場を混乱させて申し訳ありませんでした。お詫びは、改めて、御社の社長を交えた場で正式にさせていただきます。契約破棄について、当の天城さんの要望が継続であれば違約金は不要です。契約を続行いただけるのであれば、弊社としては付加価値をつける用意があります。 ご納得いただけるのであれば、ぜひ、うちの樫崎と話を進めてください」 「あ、はあ……」 狐につままれたような樋口さんの反応。 「エリカ、後は任せる」 「はい、社長」 僕は足元を確かめるように、ゆっくりと歩き出す。 天城アキラが、怪訝な顔でジッと見つめていた。 「―――次にケリを傷つけたら、今度は容赦しません」 振り返って告げた僕に、彼は何か考えるような顔をした後、僅かに目を見開いた。 けれどそれは一瞬の事で、直ぐに優しく笑った天城アキラ。 「似てるな、お前」 「!」 こいつ……ッ。 悔しさに、情けなさに、拍車がかかる。 ケリと似てるなんて、ほとんど言われた事はない。 それを言ってくれたのは、僕が生まれた時から傍にいた、メイドのイリーナだけ。 『ぼっちゃんと奥様、ほんの少し泣きそうになった時の表情が、とってもよく似てらっしゃいますよ』 つまりケリは、天城アキラの前で、泣けたんだ。 ――――そっか。 会議室を出て、そのドアが閉まる瞬間、僕は改めて天城アキラを見つめた。 ほんの少しくらいは、笑顔を見せられたと思う。 エレベーターホールまで行くと、後ろからトーマが追いついてきた。 「待ってください、ルビ」 「なに? 後はエリカに任せたって伝えたよね?」 誰とも、話をしたくなかった。 エレベーターの呼びもどしボタンを押して、箱の到着を待つ。 1秒1秒が長く感じられた。 「――――ウェインを呼びますか?」 「冗談でしょ?」 黒い塊が、あっという間に膨張した。 「今あいつを見たら、本当に殺しちゃうよ」 ケリとアキラの事の始まりは、あの男なんだから。 「トーマこそ、ケリが心配でしょ? もう、ボディガード交換している意味もないし、戻ってもいいよ」 「ルビ―――」 「僕は適当に帰るからいい」 「ですが」 「何度も言わせないで」 「―――わかりました」 チーン、とエレベーターの扉が開く。 乗り込んで、空気を読んだトーマが後に続かない事にホッとする。 このまま別れるのは気まずい気がして、少しだけ手をあげて挨拶にした。 困ったな。 ……泣いてしまいそうだ。 この年になって、母親が離れていく事に感傷して涙が出るなんて、誰にも知られたくない。 エレベーターを出て、ホテルを出て、ただ、マンションの方向に向けて黙々と歩く。 速足になればなるほど、歩くことに集中して、脳は一時停止を継続したまま―――――。 タクシーに乗ろうかとも思ったけど、密室になればやっぱり涙は溢れそうだったし、 幾ら他人でも、運転手にそれを見られるのは嫌だった。 ああ、ダメだ。 歩きながら泣くくらいなら、タクシーの方がマシだったかもしれない……。 ジャリ。 細かい土を踏む感触。 変わった足音に気を引かれ、ゆっくりと辺りを見廻すと、いつの間にか公園に入り込んでいた。 暗闇に支配され、1つの街灯だけに頼り切ったそこは、隔離された世界のように見える。 歩きながらよりは、まだいいかと思った。 座って、少し落ちつこう――――。 深い深呼吸をして、気を取り直して歩き出す。 すぐ目についたブランコの囲いに凭れて、体重を預け、 ホッ……、と気を緩めた時だった。 「……本宮君?」 ドクン。 激しく僕を揺るがす声が響く。 顔をあげると、 「千愛理……」 こんな時間だというのに、まだ白いブレザー姿のままの佐倉千愛理が、僕を見つめて立っていた。 |