小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
BEGINNING


 暗い公園の景色の中で、浮かびあがるように目の前にいる千愛理。

 僕を真っすぐに見つめてくるその薄茶の瞳は、この前のように"射る"ような力強さはないけれど、僕はまるで仕留められた蝶のように、視線を逸らす事ができずにいる。
 千愛理の手は、僕の頬を包むように添えられていて、

 「ママが言ってた。―――――男の子だって、泣いていいんだって」

 子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いでくる。
 その少し高い声が、僕の耳に優しく張り付くの感じて、


 「……千愛理」

 僕は思わず、千愛理の腕を引き寄せていた。

 一瞬強張った千愛理の身体。
 僕は構わずにその腰に腕を廻して、しっかりと抱きしめる。
 華奢な体は、僕の腕が二重に巻けてしまいそうで……、それでも、自然に頬を埋めた場所は柔らかい。

 ドク、ドク、ドク、ドク

 耳が当たったそこからは、千愛理の早くて大きな心音が響いていた。

 "こういう事"に慣れていないなんて、想像しなくても分かってる。

 それでも、千愛理の指が慣れない手つきながらも僕の髪をたどたどしく撫でてくるから、なんだか愛しくなって、僕は更に、力を込めて千愛理を抱きしめた。

 「……」

 この腕に掴んでいるその温もりに救われながら、それに相反する気持ちが湧き上がってくる。


 (嫌だ)


 僕の髪を梳く千愛理の指が震えていた。


 (こんな僕は)


 「本宮君……」


 掠れた千愛理の声が、甘く、聞こえてくる。


 (――――違う)



 こんなの、まるで僕が、

 「――― 千愛理」

 「本宮君……」

 お互いを抱きしめる力が強くなる度に、

 (縋っているわけじゃない――――)

 認めたくない感情が、思考のどこかを迸る。
 それでも、複雑になった僕の感情に解答を出そうとする思考は既に停止していて、今はただ、

 「千愛理」

 このまま抱き潰してもいいと思うほど、僕の全ての感覚が、千愛理の温もりを求めて感じていた。


 ケリを想って微笑んだ天城アキラの顔を思い出す。

 初めて会った時、本気になれば、きっと全身全霊で1人の女性を愛し抜きそうな"大人の男性"だと思った。
 そんなひとならと覚悟はしていた筈なのに、自分で思っている以上に、ケリが"誰か"と巡り会った事が、僕の心に孔を造り出したようだった。

 この公園までの道すがら、その大きな孔には荒ぶような風が吹いていたのに、千愛理と密着する部分から、それを埋めるような"何か"が流れ込んでくる。

 「本宮君……、泣かないで……」

 泣いていいと言っておきながら、泣かないでと伝えてくる千愛理。


 「――――泣いてない」

 縋りつきながら言うセリフじゃないな、と思ったけれど、抱きしめる腕も緩めずにそう応えた僕に、千愛理がもそっと動く。

 「……うん」

 許容したようなその答え。

 涙が出ているわけじゃない。
 僕の肩が震えたわけじゃない。

 それなのに、

 「うん。本宮君は泣いてない」

 微かに笑いながらそう言って、僕の頭を抱える千愛理の手に少しだけ力が入り、肩に添えられた手はあやすようにポンポンとリズムを打った。

 「……」

 言葉とは裏腹な千愛理の行動の意味。
 何故かムッとする気持ちが小さく湧いて、かと思ったら、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
 自分の中に複雑に色を成す未知の感覚に名前がつけられない。

 「……もう、帰ったら?」

 「――――え?」

 驚いたような千愛理の反応。

 「時間、遅いし、家の人が心配するんじゃないの?」

 「……うん。そう、だね……そろそろ、帰る……けど」

 「なに?」

 「あの……」

 身を捩られて、僕はハッとした。
 千愛理が戸惑うのも無理はない。
 僕はまだしっかりと千愛理の腰を抱いたままで、僕の吐息は千愛理の胸の間に溜まっている――――。
 帰ったら? なんて言葉とは、僕も完全な裏腹……。

 「本宮く……」

 千愛理が言いかけたのを遮るように、

 「送れないから」

 そう言い放って、僕は千愛理から腕を解き、彼女に凭れかかっていた体を起こして、しっかりと自分で支えた。


 「――――うん。大丈夫。ここから近いの」

 しっかりとした答えと共に、僕の頭から千愛理の手が離れて行く。


 「本宮君……、明日、学校来る?」

 「――――多分」

 「わかった」

 わかった、と答えたのは、多分お弁当の事だと思った。


 「……」

 「……」


 暫くの間沈黙が走る。
 1分後か、数分後か――――、僕はその無言の継続に耐えかねて、一息ついた後に千愛理を見上げた。

 「――――送れないって言ったよね?」

 自分でも冷たいと思う言葉に、千愛理は僅かに目を見開いてから、コクコクと頷いた。

 「うん。分かってる、――――あの……、そうじゃなくて……」

 何かを、言いかけたような気がしたのに、


 「……ううん。……また、――――また明日ね!」

 僕が眉を顰めるほどすっきりとした表情で、ふんわりと笑った千愛理。
 ひらひらと手を振ったかと思うと、鞄を両腕で抱きしめながら駆け出して行った。
 仄かな街灯1つに浮かびあがる、白いブレザー姿の千愛理のスカートの裾が左右に跳ねる。
 まるで、あのホームレスに絡まれていた後の再現だった。
 夜であること以外、あの時と確かに違っているのは、それを見送る僕の感情。

 あの温もりに、もっと溺れたかっと言う僕の情念。
 明確に、はっきりと、千愛理に湧いた欲情。

 香水とは違う、柔らかな花のような千愛理の香りが、まだ辺りに残っているようだった。
 さっきまで確かにあった温もりを、しばらく掌に見つめていたけれど――――、


 「……いつまでそこに隠れているつもり?」

 ついさっきから背後に感じていた気配に向けて、僕は低く唸りを上げた。

 「ルビ……」

 夜の死角から姿を現したのは、普段は明るい茶色の髪が、今は宵に埋もれてチョコレートブラウンに見える1人の男。
 僕は鼻で笑って投げるように言い捨てた。

 「これで予定通り? ウェイン・ホン」

 僕の言葉に、ウェインは哀しそうな顔をする。
 僕は構わずに、心の膿を吐き出した。


 「"あいつ"と繋がっているお前なら、うまく虫除けをしてくれると思っていたのに、本当に計算外だった」

 「……」

 「まあ、天城アキラも十分計算外だったけど」


 この言葉には、穏やかな笑みを浮かべたウェイン。
 "あいつ"との雇用関係以前に、ウェインとケリには不思議な友情があるらしい。
 ケリに幸せが訪れたこの結果に、心から満足しているように見えた。


 「―――"あいつ"に、報告するの?」

 僕が問うと、ウェインは「いいえ」と首を振る。

 「ケリに関しては、私が報告する必要はありません」

 「ふうん……?」

 別のルートがあるって事か――――。
 ウェインがその役を担っていると予測していたから、その状況は意外だった。

 「――――まあいいや」

 軽い口調で吐き出して、僕は立ちあがった。
 昨日の僕と、今日の僕と、明日の僕と、例えどんな変化があったとしても、明日も平日である事には変わりは無く、ケリと約束した手前、都合がつく日は学校に通う義務はある――――。

 歩き出した僕の後ろを、久しぶりに追ってくる昔から慣れた影。

 「どちらへ?」

 「帰る」

 「車を移動してきます」

 「うん」

 トーマに問題があるわけじゃないけれど、四六時中傍にいる事に煩わしさを感じない親密度はウェインの方が比較できないほどに高い。

 道路の向こう側へと足早に消えたウェインを見送りながら、一瞬吹き荒れた冷たい風が、晒された肌を殴るのを感じた。
 その冷たさに、思い出すのは千愛理の手――――。

 学食に行くために手を引いた時も、今朝屋上で触れた時、そして、さっき頬に触れられた時も、

 千愛理の手は、いつも冷たかった。


 そして、僕と手を繋いでいる内に、同じ温度に融解していく、あの不思議な感覚―――――。

 千愛理といると、僕じゃない僕に、否応なしに出会わされる。
 誰かに弱い所を見せる僕は、これまでには有り得なかった。


 「千愛理……」

 ほとんど無意識のうちに、僕の唇から彼女の名前が紡がれる。
 その夜は、眠りにつく瞬間まで、千愛理の体の温もりを、幾度となく思い出していた。








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