小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
BEGINNING


 ふと目覚めると、夢も見ずに深く眠りについていたらしい自分の状況を把握して、まずそれに驚いた。
 僕は、物心ついた時から、一日の出来事を夢の中で整理してナレッジ化するのが得意だった。
 学習した事にももちろん応用は効いて、酷い時……それは効率よくとも言うべきなのか、仕事でさえも夢の中でまとめあげ、起き抜けから一気にその内容を具現化して、幾つかの業務を短時間で仕上げる事もある。
 R・Cを立ち上げた時も、“Stella”を子会社に吸収して再生させる時も、本宮を継ぐ時も――――。

 殺人的とため息をついた各当時のスケジュールをこなせたのは、夢の中でもまるで生身の時と同じように、収集した情報を整理して、それをリアルにリンクさせられるこの特技が充分に発揮されていたからだ。

 『それはもう”ギフト”だよ』

 そんな僕の生態を知る人間は少ないけれど、彼らは口を揃えて、それに"才能"という名をつけた。


 (どうして……?)

 僕は、ちゃんと寝ていたんだろうか?
 不思議な空虚感がじんわりと僕を包み込んだ。

 今日はまったく夢を見た気がしない。
 何も覚えていない。

 まるで、"本当にただ眠っただけ"のように……。
 こんな事は、記憶がある限り、多分初めてのような気がする。

 どんな時だって、僕は眠る度に夢を見るんだ。
 夢なら誰でも見るだろう、と。
 そう言われれば否定も肯定もする気はない。

 けれど僕にとって、生きている事と、夢の中に居る事はほとんど同じ事で……。

 とうとう才能が枯渇したかな、と冷静に自分へ向けて言い放ち、冗談抜きに対策を練ろうと考えた。


 枕元においてあったスマホからその一報が齎されたのは、そんな実になりそうもないどうでもいい考えに、寝起きという弱点をつかれて囚われている時だった。

 「――――大輝?」

 回線の向こうの、いつもの静かな口調に聞こえるようで、珍しく昂ぶった色が感じ取れる大輝の声。


 『ルビ、日本の出版社にケリの写真が出回っている』


 「え?」

 一瞬で覚醒して、

 「……どういう事?」

 僕は毛布を跳ねさせる勢いで上半身を持ち上げた。
 途端、元の温もりに戻りたくなるほどの朝の冷たい空気に体を締め付けられる。
 11月でこれじゃあ、本格的な冬はどうなるんだろうと、ロスの気候でしか生活した事が無い僕の脳裏に少し不安が過った。

 『"Stella"の新しいマスコットのキスシーンが日本の各雑誌社に持ち込まれていてね』

 「天城アキラの?」

 それはつまり……、

 『そこに一緒に写っているのが、ケリだ』

 「……対策をたてる」

 『――――知っていたんだね?』

 息を呑んだ後の、意外そうな声が返ってきた。

 『いつから……?』

 「まだ始まったばかりなんだ」

 『君は……』

 「大輝」

 何かを言いかけた大輝を遮って、僕はわざと強い口調になる。

 「事態は収拾できそう?」

 『君が望むなら』

 言った大輝は、きっと目の奥に、笑いを含んだ表情を浮かべているような気がした。
 滅多に綻ばない彼の、見透かしたようなオニキスの眼差しを思い出す。
 一回りも年が離れていれば諭されて当然だけど、こういう会話で僕のブレーンである事をいつも楽しんでいる大輝のその悪癖は、大学で出会った時から変わらない。


 「今は、ケリにとってタイミングが悪い……」

 記事が出ると知れば、ケリはまた、立ち止るような気がした。
 僕の父親であり、元夫である"あいつ"が、ハリウッドスターのケヴィン・モーリスだという事は、ケリにとってステータスでもなんでもない。

 "あいつ"の存在は、いつだって鉛だった。
 穏やかな海に浸っていたいという僕達の望みを嘲笑うように、足かせのような"あいつ"の存在が全てを決めさせてしまう。

 動けない。
 もどかしい。
 望みだけが、波で生まれた飛沫のように浮遊して、現実は水底に縛られたまま。

 そう蝕まれながら、夫が"あいつ"だと知られる事で、親しいと思っていた人が仮面を被り、自分を通して誰を見ているのかという暗鬼に囚われて、人に囲まれながら、いつも孤独を味わっていたケリの心情とその翳りは、僕が僕として認められずに過ごしてきた心情と、種類は違っても、シンクロする。



 特にケリは、

 同じ"俳優"である天城アキラに、この過去について簡単には伝えられるはずがないような気がした。

 『ケリが望むなら尚更、出来る限りの力を尽くすよ』

 その言葉に、僕は内心ほっと息をついた。
 大輝のそれは、確約と同じ。

 『―――――今年度の広告予算の残りを使いきる覚悟でいけば、そうだね……多分1ヶ月くらいは抑えられるかな』

 本宮もあわせるとかなりの企業数になる。
 大輝の狙いは直ぐに読めた。
 雑誌を支える広告スペースを買い取る事で、それを交換条件に記事を抑える。
 WEBが主流になった今の時代、ハード媒体である雑誌への広告掲載の獲得にはどこ出版社の営業も苦労しているはずだから、取引としてはこちらに歩がある。
 そして、ハードを抑えれば、ソフトITはどうにか対策は取れる。

 『さっそく各社の広報部にすぐ業務令を出して掲載広告内容を発案させるよ。数時間内にR・Cのグループウェアに順次アップするから承認可否を決済して』

 「わかった。それから、平行して、Webで"Stella"の新キャラクター発表をするようにエリカに」

 予定よりかなり前倒しになるけれど、代替となる記事を用意した方がどこかのポイントで差を詰められる可能性が高い。

 『なるほど、了解。10分後にかけ直すよ』

 一旦通話を終えようとした大輝を、

 「待って」

 僕は、思わず呼びとめた。

 「その情報、どうやって掴んだの?」

 ケリが天城アキラとそういう過ごし方をしたのは、僕が知る限りでは一昨夜が最初のはず。
 大輝は一拍おいて、事態のタイムテーブルを口綴った。

 『"Stella"にジョニー企画から連絡がきたのは日本時間の明け方5時30分過ぎ。エリカを通してR・Cの広報に連絡が入ったのが5時40分。それが法務部に連携され、統括である僕に一報されたのが5時47分』

 スマホをひと時耳から話して時間を見れば、6時19分。

 『言っておくけど、君への電話はその5分後から開始している』

 「……え?」


 『君が電話に気付かずに熟睡していたなんて、珍しい事もあるものだね。さっきの様子だと、間違いなく起き抜けだったでしょう?』

 「……」

 黙った僕に、大輝は内容を本筋に戻した。

 『ジョニー企画には出版社にいる"協力者"からの情報提供みたいだよ』

 「――――そう」

 『ではルビ、また10分後に』

 通話が切れる。

 10分。
 シャワーを浴びるには十分な時間だ。

 「……」

 一瞬だけ、バスルームに行くのが躊躇われた。
 未だに僕を包んでいるような、甘い"香り"のようなものが洗い流されてしまいそうで気になった。

 熱いシャワーを浴びると、僕の感覚を惑わせていた雰囲気が払拭出来た気がする。

 すっきりした。
 やっと僕らしくなった。

 やっぱり"彼女"は、
 それは本当に時々だけど、視姦に似たあの視線を始めに、行動が、言葉が、その時だけは的確に僕の癇に障ってくる……。

 何故か僕を幻惑するんだ。
 得体の知れないヴェールを、僕に被せるようにして―――――

 表現しきれない感情を扱いかねていると、ベッドに置いてあったスマホが鳴った。


 ディスプレイに表示されている名前は大輝だった。
 きっかり10分。

 「はい」

 『ルビ? 一応の対策はすべて指示を終えた。写真が持ち込まれた各出版社に対してエージェントに情報を集めさせているから、直ぐに売り元にたどり着けるよ』

 「本体、デバイス、関わったもの全部買い取って、データのコピー回数も解析してね」

 『クス。徹底的だね。――――確かに、君がそうやって守りたくなるほど、幸せそうな顔をしているね』

 恐らく、手元にあるその"データ"を見ているんだろう。

 『こんなケリは、見た事が無かったな』

 息を漏らすように笑う大輝。

 「……」

 大学に通っていた頃、大輝はケリに対して明らかに恋心を持っていた。
 結局、息子の友達というケリの視線から逃れられず、告げないままに大輝の中でだけ終止符を打ったようだとは、ルネの見解。
 これに関しては、大輝は僕に言うつもりはないだろうから、それに応えて、僕も何も言わない。



 「……インターネットは?」

 『既にサイバー班に依頼して検索プログラムを更新済だよ。提携している検索サイトでも警戒ワードに加えてもらって、ヒット次第削除の方向で動いている。その他の拡散監視もイメージ検索もすべてプログラム更新済。さすがに個人サーバーはどうにもできないかな。個人的には発見次第ウィルス送り付けたいところだけど、逮捕されたら困るしね』

 「大輝」

 『大丈夫。心得ているよ』

 どのへんをどんなふうに? とは敢えて聞かないでおこうと思った。
 策士を相手にする時は、余計な口は挟まない方が的策だ。

 『もうすぐエリカが日本のIT部のビルに入る。会見はそこでやってもらって、ロスを中継し、配信する』

 「ジョニー企画の方は?」

 『"Stella"の方針に従うそうだよ』

 ジョニー企画にとっては、たかだか、看板俳優の熱愛報道。
 こちらにとっては、ケリを守るための防御戦。
 温度差はあって当然だけど、やっぱり気に入らないと思ってしまう。

 暫く黙ってしまった僕に、大輝が突然話題を変えて尋ねてきた。

 『ところでルビ、ウィンストン家とは何か思い当たる関わりはある?』

 「ウィンストン?」


 ……って、

 「あのワシントンの?」

 アメリカでも有名な政治家系。
 その血脈もサラブレッド級で、確か現当主の母親はオランダの王室縁の女性。

 『少し前まで、そのウィンストン家が、君の行方を捜していたみたいなんだ。少し気になってね』

 「僕を?」

 『君が日本に移住する事は、グループ内でも暫くトップシークレットだったからね。さすがに高校に入った時点で情報が掴めたのか、LAからエージェントは跡形も無く消えた。悔しいくらいに見事な引き際で、それがウィンストン家の手の者だと確認できたのは数日前なんだけど……、覚えは?』

 「ないよ」

 『そう……』

 「……」

 その沈黙の中に、大輝の脳は次の一手に向けて攻略を練り始めたと、長い付き合いから直ぐに判る。



 「大輝」

 僕が低く呼ぶと、覚醒したように応えてきた。

 『ああ、すまない。それじゃあ、グループウェアの起動と、Webの会議室のタイムラインについては後でメールを送信するよ』

 「うん」

 『エリカから連絡がいくはずだから』

 「会見内容の草稿はすぐに送るよ」

 『了解。それじゃあ』


 電話が切れたタイミングで、部屋のドアがノックされた。
 デスク上のノートPCの電源を入れながら、「いいよ」と応えると、ウェインが顔を出した。
 さっきシャワーを浴びに行く時に出会い、今の状況を簡単に説明しておいたから、表情がいつもの寡黙さと違って複雑だ。
 事態の切っ掛けになったのは間違いないから、気にしているらしい。

 「ルビ、朝食は?」

 ウェインといいトーマといい、彼らはボディガードであって執事ではないのに、こうして生活の基盤も守ってくれる。

 「コーヒーだけもらえる?」

 「わかりました」

 ウェインがドアを閉め、また静けさが戻った部屋に、PCのパスワードを求める電子音が高く鳴り響いた。
 ソファ椅子に座り、キーボードを打ちつける。

 起動してくるOS。

 デスクトップ背景に設定してある、ロスの生家のラナンキュラスの花の鮮やかさが、昨夜の香りを思い出させた。


 「……」

 PC横に置いてあったスマホをしばらく見つめて、短く息をつく。
 考えが及んでしまうのは、メールが無ければ、僕の分のお弁当を準備してくるだろう彼女のこと。

 気になるくらいなら、義務を早く終わらせてしまおう。
 僕はメールを起動した。


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 To Chieri Sakura
 件名
 本文 今日は行けない
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 入力して、送信ボタンをタップしようとして、


 「……」


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 To Chieri Sakura
 件名
 本文 |
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 気付いたら、点滅していた本文欄。

 「……」

 僕は、


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 To Chieri Sakura
 件名
 本文 今日は、
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 生まれて初めて、



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 本文 今日は―――――
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 個人的なメールを書き直していた。








著作権について、下部に明記しておりマス。



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