小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
BEGINNING


 朝、机に鞄をおいて席を外すのは沙織先生との合図。

 "あの部屋で待ってる―――――"

 返事は、彼女が来ることによって齎されればいいし、来ない時の言い訳は要らない。
 持ち込んだハードカバーの小説を読み進めている内に、いつの間にか2時限目が終わる時間だった。
 ガタンと物音が響いた事を合図に、ソファで足を延ばしてリラックスしていた僕は、本を閉じて、体を起こす。
 座り直して、足を組んだところで、沙織先生が姿を現した。
 花柄のブラウスと、腰のシルエットラインを強調するデザインのスカート。
 その女性らしい容姿に、僕はふわりと笑う。

 「先生、今日は一段と綺麗だね」

 歩み寄ってくる沙織先生に腕を伸ばすと、流れるような動作で僕の手を取り、僕の隣に腰を下ろした。

 「ふふ、ありがとう」

 アップになった事で露になった首筋に、唇を這わせる。
 味わうように舌を滑らせ、耳の後ろに軽く吸い付く。


 「……ん、……するの?」

 「嫌?」

 「そうじゃないけど……、あ、んッ」

 腰のラインから太腿にかけて、じっくりと手を這わせる。
 キスは執拗に耳の周りに集中させて、沙織先生の体が反応してくるのを待った。


 ビクッ、

 「んぅ」

 「―――可愛い」

 僕が開発したその糸口に一度火が付けば、あとは誘いによって、ただひたすら快感が波のように繰り返されるだけ。


 『一人の女性をじっくり堪能して、指先一つで細胞の隅々まで操れるようになってこそだよ』

 抱き捨てるように寄ってくる女を片っ端から相手にするルネに、大輝が吐き出した持論。
 本当にその通りだと思う。

 特に沙織先生は、一人の単調な男性だけを長年相手にしてこれまで燻っていた分、開花した体から放出される蜜は極上だ。

 指の動きひとつ、舌の動きひとつ、耳に吹きかける呼吸一つで、沙織先生が従順に乱れていく様を、僕はただ愛しく見つめる。


 「はあ、ぁぁあッ」

 激しい痙攣の後、沙織先生が虚ろった視線で僕を見上げた。

 しばらく目を合わせたまま、その知性ある眼差しが、何かを考えるような動きを見せる。

 「……どうしたの? 先生」

 「――――私にも、させて……?」

 「……いいよ」

 いつもと違うパターン。

 あまりにも既視感溢れるこの流れ―――――。
 沙織先生の熱い舌が僕にまとわりついて、快感への序章を与えてくれる。
 静かな部屋に、沙織先生の口内から生まれる水音がしばらく響いた。

 「良くない・・?」

 「そんな事ない。気持ちいいよ、沙織先生」

 本当は、女性にされるのはあまり好きじゃないけれど、何かを予感した僕は止める事はできなかった。

 「―――――ねぇ、今日は、今日だけは、先生はやめて」

 「……うん」

 先生のシャープな顎に指をかけ、顔を上げさせて瞼にキスをする。
 いつものゴムをソファの下から取り出して着けて、

 「沙織が、きて」

 僕が言うと、沙織先生は素直に下着を脱いで黒のスカートを腰まで捲り上げた格好になり、座っている僕に向かい合って跨った。
 目の前にある半脱ぎ状態のシャツから零れる柔らかな胸の膨らみを、生地の隙間から啄んで、

 「ルビ」

 小さな声で僕の名前を呼んだ沙織先生の頭を、強く撫でた。
 髪を留めていたバレッタを手探りし、外す。
 パーマがかかった黒髪が、ふわりと落ちてきた。
 先生自身の香りと、香水の香りだけが擽っていた僕の鼻孔に、新たにシャンプーのものが加わった。

 感覚が刺激され、感度が上がる僕の体と、
 僕の上で跳ねる沙織先生の体。

 その腕は僕の首に絡んでいて、隙間もないくらいに密着し合っている僕達。

 「あ、あ、あ」

 「沙織……」

 動きがラストスパートにかかった時、その細腰を両手で支え、強く押さえつける。
 ソファの背もたれから体をずらし、寝転んだ。
 抱き着いたままの沙織先生を、容赦なく突きあげていく。


 「やだ、あ……イクッ、……ふッ」

 ブルリと体が震えた瞬間を見計らい、沙織先生の頭を抱えて深いキスを重ねた。
 口内の上あごを舌先で細かく刺激し、声音が変わってきたころに、また腰を動かして突き上げる。

 シャツの中に手を入れて、指先で背中を何度も行き来した。

 「だめ、また、……あぁッ」

 沙織先生の反応に、僕もだんだん苦しくなる。

 「沙織」

 「ルビ」

 目を合わせて、沙織先生の瞳の奥の光を見る。
 それは、間違いなく、僕が知っている種類のもので―――――

 「一緒にイって、沙織」

 「ルビ」

 僕の上に重なったまま、微笑みを落としてきた沙織先生。
 きつく、きつく抱きしめ合って、お互いの耳元に呼吸を預ける。
 僕が下から突く動きと、先生が腰を廻す動きがリンクして、

 「あぁッ、ダメ、イっちゃ」

 「ん、僕も」

 お互いの絞る様な声が重なる。


 「あ、イく」

 「・・ッ」

 襲いくる快感に逆らわず、僕はそれに身を投げた。


 ――――――
 ――――


 「私たち、今日で最後にしましょう」



 ―――――……やっぱり……。


 空気を入れ替えようと窓の傍に立った僕の背後にそんな言葉を投げてきた沙織先生。
 窓を開けて振り返ると、すっかり装いを正した、綺麗な立ち姿の先生が、真っ直ぐに僕を見つめていた。
 想定していたから、割と冷静に受け止められる。
 まあ、悶着があるような関係でもないけれど。

 今日の行為の中にシグナルはあった。

 僕のものを愛撫したいと言い、
 名前を呼んでと願い、
 初めて、僕の名前を呼び捨てにした。

 いつもはしないことを求める女性には要注意。
 過去の男を上書きする性質を持つ女性は、それなのに、理想の思い出を作りたがる。
 その願望は、セックスフレンドが相手でも同じ事らしく―――――、

 ああ、今日で捨てられるんだと、
 最後に、繋がったまま見つめ合った時に確信した。

 決断をした女性が持つ特有の光。
 これまで、何人もの女性の中に見つけてきた。
 恋人じゃないから、話し合う余地なんかない。
 セフレにおいてのすべての権限は、受け入れる側の女性が優位。

 そしてそんな強い意志が、沙織先生の目の中にも光っていた。


 「どうしてか、聞いてもいい?」

 「あら、聞いてくれるの?」

 悪戯っぽく笑う先生の言葉が、とても意外だった。
 顔に出ていたのか、沙織先生が、今度は声に出して笑う。

 「ふふ、いいの。うまく伝えられるかは自信ないけど……。そうね。それが、私の役目なのかも」

 ……役目?

 「本宮君―――――」

 敢えてなのか、最初に僕が拒んだ呼び方できた。


 「初めてここであなたに会って、抱かれたあの日、教師としては本当に失格だったけれど、私は本当に、……本当に救われた。身を亡ぼすほどの絶望ではなかったけれど、圭吾さんが離れていくような感覚は、いずれ私を蝕んでいたと思うから、本当に本当に、あの時、あなたに縋って良かったと思うの」

 「……」

 「あなたに何度か染められていくうち、SEXの楽しさを思い出した時、――――私、こっそり覚悟を決めたわ。今のこの私に気づかないなら、圭吾さんはもう要らない。潔く次に進もうって」


 決断をする女性の怖さはこういうところなんだと思う。
 男と違って、理屈が感情。
 だから、浅い話し合いではなかなか思いは伝わらないし、切る時は、女性の方が容赦無い。

 「圭吾さんが私を再び見始めた時、私はそれでも、背徳を選んで継続してもいいと思った。あなたとのSEXに溺れきっていたしね」

 照れくさそうに笑った沙織先生の、頬が染まる。

 「うん」

 クス、と。
 僕もつられて笑ってしまう。
 沙織先生から垣間見える、思いがけず恥じらう部分が、僕は間違いなく好きだった。
 それは、Favorite。
 つまり、お気に入りという境界を超えることは無いけれど……。

 「このままでいいのかな、ってちょっとだけ悩んだのは、佐倉さんの事を聞いてから、かな」

 「―――え?」

 思い出す沙織先生とのやり取り。



 『ねぇ、佐倉さんと付き合ってるって、本当なの?』

 『――――どうしたの、先生。……ヤキモチ?』

 『ふふ。事実確認。あなた、この3日間、私とのSEXでイってない』



 「千愛理が、引き鉄?」

 僕の言葉に、沙織先生は首を振った。

 「というよりも、あなたが、これまでどういう女性を相手にしてきたか、なんとなくわかった気がしたの」

 「……?」

 「その年で、それだけのテクニックとスキルがあれば想像はつくわ。最初に私にアプローチしてきた内容を踏まえてもね」

 「……」

 「でも、佐倉さんに出会って、あなたに変化が出た。あなた自身は気づいていないのかもしれない。でもね、」


 沙織先生がゆっくりと近づいてきて、僕の前に立ち、頬に触れた。

 「でも、―――――これまで、あなたに慰められてきた女性は、多分、全員気づく」

 窓からの柔らかな陽光に当たる彼女の表情は、まるで教会のシスターのようだった。
 日本に来る直前に終わりを切り出してきたイライザも、そういえばこんな表情をしていたっけ。


 「ああ、今度は、ルビの番ね、って」

 沙織先生の微笑みが増すたびに、僕の困惑だけが大きくなる。

 「――――え?」

 語られている、言葉の意味がわからない。

 「僕の、……って?」

 その問いには答えずに、僕の頬を撫でながら、沙織先生はこう言った。

 「週末、何かあったでしょう?」

 「え?」


 ドキリとする。
 特に思い当たることといえば、"Stella"の、あの揺さぶるようなディスプレイに齎された感動の中、長年僕の中にあった燻りを、母親であるケリが拭い去ってくれた事。

 でも、それがどうして……?


 「今日のSEXで、いつもと違っていたあなたが分かる?」

 「……?」


 沙織先生が、何を言い出そうとしているのか、見当もつかなかった。
 僕の両頬を手て包んで、真っ直ぐに僕を見つめてくる先生。
 それに応えようと見返して、

 「―――――……」


 (……え?)

 視、姦が、

 「……どうして……?」

 沙織先生だから?

 ――――違う、そうじゃない。
 もっと、根本的な部分で……、

 「あなたがこれまで相手にしてきた女性達は、あなたのその瞳に反応してきた人ばかり」

 「……」

 「ねぇ、本宮君。これまで、その女性達が、嫉妬で騒いだり、他の女性との優先順位の事でもめたり、なんて事、あった?」

 訊かれて、僕は僅かに首を振る。
 沙織先生が満足気に頷いた。

 「うん。たぶん、ないと思う」

 「……」

 沙織先生の云いたい事が、わかった気がした。


 「だって、あなたが求めたのは母性で、反応したのは、それに答えた、母性本能の強い女性ばかり」

 「……」

 「そうでしょう?」

 「―――――多分」

 躊躇いがちに頷く。
 確かに、SEXができるなら誰でもいいわけじゃなくて、まずは僕のこの"視"に反応すること。
 それが、僕の相手をする女性に求められる絶対条件。


 (――――いいこと? ルビ。あなたのこの情熱的な眼差しに感応する女性が、きっとあなたを幸せにする)

 そう言って、決して『自分が幸せにする』とは言ってくれなかった僕の初めての女性ひとが残した、まるで呪縛のような前提。


 「お互いが、あなたからの癒しと、あなたへの母性を交換し合っていたんだもの。みんな、きっとあなたの状態を見ながら、引き際を心得ていたはず。―――今日の、私のように」

 「……、」

 僕は、口を開こうとして、けれど何を伝えればいいのか、結局、噤んでしまった。

 「けれどもう、あなたは母性を求めてはいない」

 それはきっと、昨日のあの抱き合って解り合えた時間の中で、僕に与えらえるケリの愛情が偽物ではないと実感したから。

 「あなたのその視線に応えられるのは、――――応えらえる人がいたのなら、それはきっと、これまでとは全く違う意味を持つ女性か、……もしくは、あなたが過去に執着して、捨てきれずにいる女性」

 「!」

 ピクリと、僕の手が動く。
 たった一晩で、僕から引きずり出した全ての安らぎを、完膚なきまでに奪って去って行った女性、


 (―――――マリア)



 「やっぱり……いるのね」

 細い息が、沙織先生から漏れた。

 「私は、あなたの味方よ」

 「……」

 「絶対に、幸せになる選択をしてね。次は、あなたの番なの。これまでの女性達も、きっとそう願ってる」

 「沙織、先生……」

 僕の肩に、沙織先生が頬を埋めた。
 背中に腕を廻し、ギュッと抱きしめてくる先生に、今までの想いをこめて、僕も抱きしめ返す。

 「――――ごめん」

 「だめ。私は、ありがとうだから――――」

 「うん……」

 僕が慰めていたんじゃない。
 結局、僕が癒されて休ませてもらっていたに過ぎないんだ。
 今まで、抱いてきたつもりの彼女達に、抱き着いて甘えてきたのは、きっと、僕だった―――――。


 「――――僕も、ありがとう」

 「ふふ」


 もう一度目を合わせ、笑い合う。

 背後から風が入ってくる。
 冬の冷たい乾いた風。
 風に靡いた沙織先生の前髪を指で避けて、

 「くすぐったい……」

 「最後の合図」

 「そうね」


 これが、沙織先生への最後のキス。


 「「これで、終わり」」


 二人の言葉が重なった後、額に、少し長めの口づけをした―――――。








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