小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
BEGINNING


 最後のキスの後、沙織先生はこれまでで一番綺麗な笑顔を浮かべると、僕達の逢瀬場所だった部屋から一度も振り返らないまま出て行った。
 先生の腰に触れていた指が、離れる寸での瞬間、彷徨うように彼女を求めて寂しさを感じたのは、相性が良すぎたSEXの味に未練があったからかなのか……な。

 これまで繰り返してきた"終わり"とは違う、迷っていた何かにエンドラインが見えるような、今、僕が立っている場所。
 つまり、これから進むべき道の先も、きっとこれまでとは違ってくるのかもしれない――――。

 少しの時間、感傷のような思考に浸っていると、昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。


 千愛理……。

 ふと過った存在に、スマホを取り出してメールを送る。


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 To Chieri Sakura
 件名
 本文 どこ?
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 From Chieri Sakura
 件名 Re:
 本文 屋上です
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 その返信を見て、僕はすぐさま本校舎へ歩き出した。

 『佐倉さんに出会って、あなたは変わった』

 沙織先生はそう言ったけれど、具体的にどんな変化があったかなんて僕にはわからない。
 けれどこうして、身体の関係が無くても、気が逸って足が向いてしまう行動はこれまでには覚えがなくて、多分それだけで、彼女の存在は、やっぱり少しは特別だと考えてもいいんだと思う。

 屋上のドアを開けると、いつもの花壇の位置に千愛理は居た。
 風が無い今日は、冷たい空気が好ましいくらいで、他の花壇に陣取る女子生徒も、風が強かった前回より頭数が多い。
 頬を染めながらチラチラと視線を向けてくる彼女達にいつものように柔らかい笑みを振りまいて、

 そしていつものように、広げられた弁当を挟んで千愛理の横に座る。

 ―――――けど、

 いつもと違うこと……。


 「……?」

 僕の姿を目に入れた瞬間から、千愛理の眼差しは何故か揺れていた。


 「千愛理?」

 「……あっ、はいッ、お箸、どうぞ」

 明らかな挙動不審。


 「――――いただきます」

 「……はい」


 いつものやり取りに、珍しく歯切れの悪い千愛理の反応。
 今日という一日は、僕にとって何か意味が求められている日らしい。

 ぼんやりとして、なかなか箸がすすまない千愛理を、視界の隅でこっそりと観察する。
 俯き加減になっているから、ふわふわの茶色の髪が頬の半分を隠すように垂れていて、その癖、薄茶の瞳は上目で僕を見つめていた。


 ―――――違う。

 僕の唇を、――――――だ。


 何かを思い、瞳が揺れ、
 振り切るようにギュッと目を閉じたかと思うと、
 また僕の唇を見る。

 やり返し、というワケじゃないけれど、僕も思わず、千愛理の唇に視線をやった。

 ふっくらとしたピンク色の唇。
 その端には、僅かに赤いケチャップが付いていて、

 お箸の先にウィンナーを持っているからか、少し半開きになったその唇は、

 唇は……、


 「……」


 ―――――あ、


 自分の中の変化を、見つけてしまった。


 以前、千愛理を押し倒すところを想像した時、僕の心は罪悪感で苛まれた。
 完全に性の対象外で、萎える以前に、犯罪だとも考えるくらいで……。


 けれど今は、

 多分、僕は、


 ――――千愛理を抱ける。


 この唇を僕の舌が割って入ることも、
 その唇からどんな甘い声が零れるのかも、
 そしてそこから、僕の耳元に届けられる吐息のことも、

 想像して、"反応する"僕がいる―――――


 「……ケチャップ」

 唐突に告げて、親指でその唇を拭った。
 柔らかな唇は形を変えて、僕の官能を刺激した。
 千愛理の顔が真っ赤になって、瞳が潤み始める。
 指についたケチャップを舐める僕の仕草を、魅入られたように見つめていた千愛理は、僕に見とがめられる事を避けるように、慌てて言葉を綴り出した。

 「あの、週末、バイトが忙しくて、……なんだかぼんやりしちゃって……」

 「……ふうん」


 千愛理は、多分気づいていない。
 僕と同じように、自分の中に変化があったことを―――――。

 そして、その身の内に湧き出している感覚のことを、まさか性欲だとは、知らないのだと思う。


 「千愛理」

 箸を置き、その名前を呼ぶと、僕は千愛理の顎に指をかけて目線を上げさせた。

 「はい……」

 なぜかそんな返事をした千愛理。

 「クス」

 SEXのとき、相手の指先が肌を滑るあの時と似たような快感が、僕の心を擽っている。

 「千愛理……、もしかして、僕に欲情してる?」

 敢えて、疑問で投げてやった。
 見開かれていく瞳。

 「も、本宮君!? よ、欲情って」

 「そういう顔、してるように見える」

 「えッ!?」

 震えた声を漏らした唇を、ゆっくりと親指でなぞった。

 「キスしたら、そのまま蕩けていきそうだよ。自覚ない?」

 「わ……わかんないッ」

 千愛理の体が、逃げるように背後に反れた。
 肩で息をし始めているのが分かる。

 「そう? ―――――顔、真っ赤だよ。……熱があるみたいに、どこかジンジンしない?」

 「し、しません!」

 「ふうん……?」

 素直じゃない。

 ――――か、やっぱり千愛理には早すぎた事なのか。

 それとも、教えるのが、僕―――――とか?



 「も……本宮君、なんか、なんていうか……オープンだよね。その……セ、……性に対して、あからさまというか……慣れているというか……」

 「そうだね。僕、―――――セックスは好きだよ?」

 「え!?」

 僕の放った真髄に、千愛理は目を丸くしていた。

 「――――僕はね、セックスは最大の愛情表現だと思っているんだ。誰にも見せられない姿を僕にだけ晒して、僕にしか聞かせない声、表情。――――それらを向けられて初めて、想いを感じられる」


 それはセフレでも同じ。
 ただ挿入て吐き出すだけなら、もっとビジネスライクに簡単な方法が幾らだってある。

 そこに性欲以外の感情は要らないんだから――――――。

 けど、僕が楽しいのは、そこにたどり着くまでの女性の心の紐解き。
 僕にしか見せた事のない表情を探す楽しみ。
 僕としかできない場所の探索。

 その過程が、誰かとするエンジョイセックス、つまりメイクラブをする醍醐味。
 だから、誰でもいいわけじゃない。

 「そう。―――――だからね」


 だから、



 「千愛理がそんな欲情的な顔見せると、――――――挑発されてるみたいで、すごく気分いい」

 笑った僕に、千愛理の瞳孔がぐらりと揺れた。

 瞬間―――――、

 「!」

 僕は息を飲んだ。
 以前、感じた事のある、千愛理からの、眼差し。


 僕の、

 奥に、

 突き刺さるような、

 まるで可視光線。

 僕の視とは異質で、心を抉るように、容赦なく放たれてくる。


 「…………」

 今度は、――――逃げない。


 逆らわず、視線が誘うものに従えば、僕は舐めた親指をまた千愛理の唇に戻していた。
 僕の唾液が、そのピンク色の上に乗せられる。

 「も、とみや、く」

 掠れたような、千愛理の声。
 僕の胸に、痛いほどの衝動が走った。

 ああ、

 千愛理から向けられるそれはやっぱり、



 "挑発"、―――――だ。



 「……蕩けて、みる?」

 「……ぇ?」

 顎の周囲を指先で撫でると、千愛理の喉の奥から小さく声が漏れた。

 ドクリ。

 これまでに感じたことがない、きついほどの、胸の昂ぶり。


 「――――キス、しよっか?」


 固まったまま動かない千愛理に、僕はゆっくりと近づいていった――――――。



 カランカラン……!



 「「!!」」


 静寂を破る音に、ハッと我に返る。
 音がした方を見ると、別の花壇に座っていた生徒の手から缶ジュースが滑り落ちたらしく、けれどその視線は、僕達へと向けられていた。

 「あ」

 今度は、千愛理の声がしたかと思うと、ガシャン、と弁当が無残にも落ちる音。


 「……」

 「……」

 信じられない。
 完全に、呑まれていた。
 こんなに、周りが見えないなんて、無かったのに……。


 「あ、ごめ、なさ」

 震える手を大きく動かして誤魔化しながら、落ちた弁当を拾い始めた千愛理。
 まだ食べかけだったから、かなりの量がビニールへと入って行く。

 「……いや」

 体の中心じゃない。
 もっと別の場所に、熱い燻りが残っている。

 体を屈めて拾うのを手伝いながら、僕はほんの少しだけ、呼吸の苦しさを感じていた――――――。








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