小説:クロムの蕾


<クロムの蕾 目次へ>


VIOLETISH BLUE
MOTION


 『――――キス、しよっか?』

 そう言ってあたしを見つめた本宮君のヘーゼルの瞳の中には、くっきりとヒマワリの紋様が浮き出ていて、


 ――――キス、しよっか――――?


 少し低めの声が綴るその言葉に、体中に痺れを感じて動けなくなっていたあたしは、その瞳の螺旋の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
 本宮君の薄茶の長い睫が、だんだんと黄色の宝石を隠すように覆っていく。
 近づいてくる本宮君の綺麗な顔。
 クリーム色に近い金色の髪が、首を僅かに傾げた反動で、ふわりと揺れた。

 あたしも、

 シンクロするように、

 ゆっくりと、



 目を閉じ―――――――、




 ――――――
 ――――



 「佐倉さん、少し休憩しない?」

 「――――ッ!」


 突然声をかけられて、ハッと身体を動かす。

 グラリ、

 脚立の上部に座っていたあたしのその揺れに、

 「きゃ」

 白いブラウスと黒いマーメイドタイプのスカートをはいた照井さんが小さく悲鳴をあげた。
 離れた場所にいた桝井さんが険しい表情でこちらを振り向くのが分かる。
 どうにかバランスをとって体勢を立て直していたあたしは、

 「あ、大丈夫です。すみません」

 苦笑いを浮かべながらも、脚立から一歩ずつ、確かめるようにゆっくりと降りた。

 "Stella"で転落事故なんて騒ぎを起こしたら大変だもん。
 大理石模様の床に足が着くと、思わずほっと息がもれる。
 そんなあたしにクスっと微笑みを見せて、照井さんがショーケースの間に用意してくれたテーブルと椅子を示した。

 「さ、お茶いれたから」

 「わあ、ありがとうございます」

 思わず感激の声が漏れたのは、綺麗な小薔薇模様のティーセットと一緒に、大きな苺が乗ったショートケーキが置かれていたから。

 「桝井さんからの差し入れなの。遠慮なく食べましょ」

 ショートボブを耳にかける色っぽい仕草で、照井さんがふふ、と笑う。


 今年26歳になるという照井さんはこの店舗専任の宝石鑑定士さんであり、今後、あたしが"Stella"でフラワーアレンジする時に、コラボする宝石や原石を監修してくれる役目を快く引き受けてくれた女性。

 紹介されたばかりの頃はカチッとスーツを着こなした大人の女性という雰囲気に驚いたけれど、話をするととても気さくですっかり打ち解けることができた。
 こうして、二日に一度、お花の状態を確認するあたしに、嫌な顔一つしないで付き合ってくれている。

 「お花はどう?」

 ディスプレイの方を見て尋ねてきた照井さんに、あたしは背筋を伸ばして答えた。

 「調子いいみたいです。隔離されたスペースの空調がいいからか、萎れてもいないし……。水を吸って動いたりするんでやっぱり手は入れないとレイアウト崩れちゃうんですけど、今日の調整でたぶん明後日までは大丈夫そうです」

 「そう」

 「あ、花の部分的な入れ替えの時間を明後日の夜にいただいてもいいですか?」

 「いいわよ。よろしくね。さ、食べちゃって」

 「はい。――――いただきます」

 ぺこりと軽く頭を下げて、ケーキにフォークをいれた。
 光沢良く輝く苺に、高そうだな〜なんて思いながら、一口舌に乗せて、広がる甘さに感激する。

 「美味しい!」

 「そう! 美味しいし、高いの。佐倉さんと一緒でラッキー♪」

 ウィンク交じりに大きな苺を最初に食べた照井さん。
 なんだか照井さんらしいなって頬が緩んでしまう。
 離れたところで、桝井さんがPCと睨めっこしていた。

 「桝井さんは誘わなくていいんですか?」

 「ああ、いいの。彼、基本女子2名以上のところには近づかないのよ。面倒くさいんですって」

 「……」

 意外な事実。
 あたしが見る桝井さんは、そういうのが一番得意そうに見えた。

 「食べたかったら寄ってくるでしょ。放置が一番なの」

 親しげ気だな……って、ちょっと思ってしまう。
 そんな野次馬根性を濁すように、あたしは改めて周囲を見回した。
 トーンダウンされた照明に包まれる店内。
 重厚なショーケースの中には色とりどりの宝石が並んでいて、あたしでも知ってるシリーズもあった。
 指輪もネックレス、ブレスレットにピアス。



 各ケースに綺麗にディスプレイされて、一つ一つが、みんな特別な逸品に見えるのに、思ったより、お値段が目を瞠る様な設定じゃない事に初めて気が付いた。

 "Stella"って、もっと敷居が高そうなイメージがあったのになあ……。

 そんな事をぼんやりと思っていると、

 「あのディスプレイが入ってから、トパーズの売れ行きがいいのよ」

 紅茶をカップに注ぎながら、照井さんが言った。

 「サファイアとルビーはそれを追いかけてる感じね」

 「……」

 あたしは曖昧に笑って返す。

 「あら、嬉しくないの?」

 照井さんが目を細めて尋ねてきた。

 「いえ……でも、アレンジがあるから、なんてこと、ないと思います」

 あたしはイメージ通りに仕上げられた事にはとても満足した。
 でもやっぱり、それが宝石店にふさわしいアレンジだったかどうかなんてわからないし、結局は、自分の好きなようにさせてもらっただけで、契約として仕事がこなせているのかも判断できない。
 そんな事を考えながら俯いたそんなあたしに、照井さんはまた笑い声を聴かせる。

 「謙虚ね。まあ、それが佐倉さんなのかな? でも、……うまく出来た出来ないって、決めるのはあなたじゃないし、私でもない。ましてや桝井さんでもないし、うちのCEOや、社長でもないわね」

 「――――え?」

 あたしは首を傾げた。

 「お客様、――――よ」

 「……」

 「あなたの叔母様のショップだってそうでしょ? どんなに頑張ってますアピールしても、結局はリピートしてくれるお客様の判断」

 「あ」

 高校生のあたしがアレンジすることに、最初は戸惑いを見せていた常連さんや新規のお客様も、今ではあたしを指名してくれる事もある。
 お客様が、あたしに、と決めてくれた事。
 評価をくれた結果だ。

 「ね?」

 「……はい」

 ちょっと嬉しくなってしまう。


 あたしのしている事が、なんだか報われたような気がした。
 次もがんばろうって、気になる。

 「会社はおべっかは使わないわよ。数字が伸びれば、例え自分の好みじゃなくても、それこそコーディネーターと反り合わなくたって、愛想よくできるし、報酬だってマージンつける。でももちろん、評価が無くなれば切り捨てる事だって決断は早い」

 「……はい」

 それは仕方ないことだと思う。
 それが社会だという事は、あたしにだって理解できる。
 仲がいいからなんて、そんな事、お給料をあげる理由になるわけないもんね。

 「でも、本当によくあれだけのコンセプトが浮かんだと思うわ」

 特に意味があるような問いかけではないみたい。
 だからあたしも、軽く返した。

 「あたしの、……周りにあるものを表現したんです」

 「そうなの。ああ、美味しい。佐倉さん、二個までは数あるから遠慮なくね」

 「はい」

 1つのカットが大きめなケーキは、多分一つでお腹いっぱい。
 照井さんは本当に二個いけちゃいそうで、その勢いに思わず笑ってしまった。

 美人さんなのに不思議な人。
 この細い体の、どこに入るんだろう。

 「……」


 もしかしたら、照井さんは香織さんの事を知ってるかもしれない。
 だって、桝井さんの話しぶりだと、役員の人と一般社員の人でもいろいろと交流の方法があるみたいで、他の会社よりは距離感が近い感じだった。

 だから、あえて言わなかった。

 あたしのコンセプトに対するイメージを触発した、
 あの時、香織さんが漏らした言葉は、決してあたしが口にしていいことじゃないから―――――。


 女神の胸像は香織さん。

 あの人の、自分という主体と、愛すべき息子という掛け替えのない存在に向けた不変の愛。
 その間で揺れ動いていたって誰にも責められることじゃないのに、

 天使像へと伸びていく白と青は女としてのジレンマ。
 胸に抱く淡いラナンキュラスはいつだって灯されている愛の揺らめき。

 パパとママを見てたから分かる。
 家の人たちを愛していなかったわけじゃない。
 でも、この愛だって捨てられなかった。
 悲しいけれど、持って育みたいと思う愛が、すべて報われるわけじゃない。


 『それでも、愛しさは減ったりなんかしない。無限に湧き上がってくるものなのよ、千愛理』

 ―――――うん。

 ママ。
 ちゃんと、きっとあたしは分かってる。
 分かってるあたしに、いつか出会いたいと思う。


 そして―――――、

 天使を包み込んでいるのは、あの夜、公園で、あたしが本宮君に感じた想い。

 天使像の下に輝くトパーズは本宮君の瞳。
 ウォールスクリーンに在る金色の月は、彼から放たれる光。
 いつだって、あたしの目を奪う輝き。

 それを守りたいと思った、
 強い母性本能―――――。

 女神像の下に飾られたルビーは、あたしが時々、彼の指先に垣間見る、あの熱い炎を現した。

 本宮ルビ。


 あの名前は、その赤い石が由来なのかな―――――?


 (本宮君……)


 目を閉じても閉じなくても、いつだって鮮やかに思い出せる彼の姿。
 悪戯っぽく笑いながら、あたしを翻弄する言葉を囁いて、あの細い指がそれを援護する。

 その指先に灯る炎は気紛れに、あたしの胸を、チリチリと焦がす――――――。

 "そういう事"を知らないあたしの体を、あんなふうに挑発する。


 ――――キス、しよっか――――?


 あの時―――――、キス……してもいいと思った。
 本宮君の言う通り、蕩けてもいいと思った。
 それを想像するだけであたしの胸はこんなに切なく痛みを生んで、体の隅々まで痺れが走る。
 爆弾が落とされた瞬間、あたしの中で広がった破片。



 『千愛理がそんな欲情的な顔見せると、――――――挑発されてるみたいで、すごく気分いい』

 不思議な独占欲が、あたしの中に目覚めた瞬間だった。



 あの時、目撃してしまった沙織先生にキスをした本宮君の後ろ姿に、あたしは、全身が痛くて、泣きたいほど、苦してく、悲しくなった。
 自分が立っている場所がわからなくなるほど、地面がグラグラと揺れていた。

 そして屋上にやってきた本宮君の、制服のブレザーについたオレンジの汚れを見た時、その黒い感情は、勘違いじゃないことも自覚した。
 あのオレンジは沙織先生の唇を飾ってた色。
 偽物だけど、「彼女」として本宮君に扱われて、周囲をそう偽っているうちに、あたしの中の何かが、少しおかしくなったのかもしれない。


 あたしは……、

 沙織先生にキスをしたその本宮君の唇を、あたしはずっと、拭ってしまいたかった。
 手を伸ばして、ティッシュで拭いてしまいたかった。




 あの時、止まらなかったら、どうなっていたんだろう―――――――?



 ……ただ、本宮君の良いように、蕩けさせられただけかも―――――。
 なんだか本当にそれが真実のような気がして、思わず苦笑した時だった。

 大きく鳴り出した照井さんの携帯。

 「やだ、社長だ。出ていいかな?」

 「もちろんです」

 あたしが頷くと、照井さんは応答した。
 こういうところも、素敵だなって思えるところ。
 見習えるようにしよう。

 「―――――社長、お疲れ様です。ええ、――――はい。――――アレキサンドライトですか? まあ、入荷の予定が無いわけじゃありませんけど……、えッ? ルース!?」

 声を高くして立ち上がり、あたしに向かって「ごめん」のジェスチャーを取りながらレジの方へと歩いていく。
 会釈したあたしに照井さんも頷いて、それからはノートを取り出して真剣な顔。
 いろんな国の名前が漏れ聞こえて、

 「……」

 食べたら再開しよ。
 そう考えて、最後の一口を頬張った時だった。


 「美味しかったかい?」

 突然の桝井さんの声。



 「あ、はい」

 あたしが返事をする間にも、桝井さんは照井さんが座っていた椅子に腰かけていた。

 「照井は社長大好きだから、なかなか終わらないよ、あれ」

 「そうなんですか?」

 「うちの社員は、R・Cをはじめに、傘下企業も、みんな社長を可愛がってるんだ」

 「……可愛がってる?」

 なんだか、不思議な表現だと思った。

 「女性……の方なんですか?」

 「え? ああ、いや、そうじゃない。ごめん、気にしないでくれ」

 あはは、と笑った桝井さん。

 「あ、そうだ」

 スーツの内ポケットから封筒を取り出した。

 「これあげるよ」

 「え?」

 受け取って、中を見ると、

 「……あ」

 比較的新しいタワーの中にある、水族館のチケットが2枚。

 「いいんですか?」

 「ずっとポケットに入ったままなんだ。活用してくれると嬉しいよ」

 「ありがとうございます」

 水族館……。
 去年、健ちゃんと行って以来だな……。
 頂いた封筒を足元に置いてあった鞄にしまったタイミングで、照井さんが戻ってきた。

 「おまたせ」

 「照井、社長なんだって?」

 「あ〜、アレキサンドライトのルースが欲しいって」

 「ルース? まあ、アレキサンドライトなら、誰のためかはわかるけど……なんでルース?」

 「ケリさんの恋人さんに依頼されたらしいわよ。社長としては、一点もののオリジナルデザインにしたいみたい」


 ケリさん?
 確かそれって……、

 「……え? 香織さん?」

 思わず会話に入ってしまったあたし。
 照井さんが手を叩く。

 「そういえば面識あるんだったわね?」

 「あ、はい……」

 香織さんの恋人さんか……。
 最初に来てた黒髪の人かな……?
 二回目に来てたダークブラウンの髪の人は、多分、違うような気がする。


 「アレキサンドライトのルースねぇ。手に入るのか?」

 桝井さんの考えるような質問に、照井さんは肩を落とした。

 「アレキサンドライトはどうにかなる。問題はもう一つよ」

 「もう一つ?」

 「コンクパールをご所望なの」



 「コンクパール!? 本気か?」

 「そうみたい」


 パールというからには真珠なんだと思う。
 けれど、桝井さんの表情から、なんだか大変な事らしい。
 まあ、あたしがぼんやり聞いていても仕方ないし、

 「あの、ごちそうさまでした。あたし、続きやっつけちゃいますね」

 そう言って立ち上がったあたしに、照井さんが慌てて頷いた。

 「ええ、ごめんなさい。よろしくね」

 「はい」

 ディスプレイスペースに入っても、桝井さんと照井さんの会話が聞こえてくる。

 「コンクパールなんて、ケリさんのイメージじゃないよな?」

 「別の人だと思う。あえて小粒でいいって言ってた。ただ、色だけはこだわって欲しいって」

 「色?」

 「火焔模様が少ない、桃色」

 「……ソフィちゃんには、早い……よな?」

 あたしは脚立を上った。


 「社長って、セフレはこれまでもたくさんいたじゃない? でも形に残るプレゼントなんて多分一度だってしたことないわよ? 花や食事はあっても」

 「……本命ってこと?」

 「どうしよう、桝井さん。私、楽しくなってきちゃった」

 「いいの探せよ? いま持ってるルートは?」

 「二つ」

 「よし。他のルートを使えるか"Stella"本社に確認する」

 「よろしく」


 いつもと少し雰囲気を変えてテンションがあがった二人。
 なんだか思わず笑いが零れる。

 桝井さんが言ってた通り。
 本当に、家族のように仲が良い会社なんだな―――――。

 セフレが多いのに、こんな風に社員に好かれている社長さん。
 パパが初めて桝井さんとお酒を飲みながら話をしたとき、思ってた以上に若い社長で驚きました、なんて語っていた事を思い出す。


 どんな感じの男性ひとなのかな。

 女性にも社員にも甘そうな、二十代くらいの社長像を、有名な芸能人に合わせて想像してみる。

 本命の恋人さんが出来たのなら、幸せな事。


 なんだか、

 あたしも、桝井さんと照井さんに感化されたみたいで、ウキウキして頬が緩んでしまう。


 伸びてきた葉っぱに入れるハサミも、さっきよりは進みが良い気がした。








著作権について、下部に明記しておりマス。



イチ香(カ)の書いた物語の著作権は、イチ香(カ)にありマス。ウェブ上に公開しておりマスが、権利は放棄しておりマセン。詳しくは「こちら」をお読みくだサイ。