土曜日。 12月に入って二週目を過ぎた約束の日は、気落ちするくらい底冷えする空気が漂っていて、風もなく、空を覆う薄い藍色の低い雲はなかなか流れていかない。 「昨日までは天気良かったのにな……」 いつか、本宮君が座っていたブランコを囲う柵に腰かけて、あたしはそのどんよりとした空を見上げた。 もうすぐ約束の10時。 ファーがついたショートブーツの踵で僅かに砂を蹴って深呼吸をする。 吐く息は仄かに白くて、けれどそれとは裏腹に、内側の熱は高まる一方。 「どうしよう……」 緊張して、逃げたくなってきたかも…… 見下ろすクリーム色の膝丈のコート。 胸の辺りに、心音が見れちゃうくらいドキドキしている。 一緒にお弁当を食べたりして、少しは2人でいるのに慣れたつもりだったけど、私服で外で会うのって、やっぱり少し違う気がする。 「はあ……」 もう一度、吐息の色を確かめるように深呼吸したときだった。 「千愛理」 遠くからあたしを呼んだその声は、ジワジワとあたしの脳を擽る、本宮君の、少し低めの優しい声。 振り向くと、公園横に停車したシルバーの高級車から降り立った本宮君が、軽く手を上げていた。 「本宮君……」 その姿を視て、ますます心臓が軋みだす。 黒のロングコート。 中は、白いシャツの上にシルバーの上品なベスト。 それより少し濃いグレーの、ショールカラー・ジャケットとパンツ。 冬の景色さえも、キラキラと輝く世界へと色づけていく。 少し前までと違って、本宮君があたしの目にこんな風に映るのは、あたしが、本宮君に、恋をしているから、なのかな―――? 「おはよ、本宮君」 「おはよう、千愛理」 僅かな距離を駆け寄っただけなのに、少し息があがってしまった。 多分、ドキドキしている分、酸素が足りないんだと思う。 そんなあたしとは全然違って、余裕綽々で手を伸ばしてくる本宮君の長い指が、あたしの頬に触れた。 「冷たい。結構待ってた?」 「あ、ううん。違うの。もともと冷え性だから……」 でも、触られた場所から、まるで発熱するように温度が上がっていく。 「そうだね。千愛理の手は、確かにいつも冷たい。おいで」 左手を掴まれ、体を引っ張られる。 温かい……。 本宮君の温もりが、その手の形をあたしの手に伝えてくる。 「乗って」 「あ、はい……」 促されるまま乗り込んで、放れた手に意識を向けた。 本宮君の体温に溶けかかっていた手が、寂しい―――――。 ふと、視線を感じて顔を上げると、バックミラー越しに運転席にいた男の人と目が合った。 ……あれ? この 「僕のボディガードのウェイン・ホン。ウェイン、彼女は千愛理」 「えっ、あ」 紹介されて、あたしは頭を下げる。 「初めまして。佐倉です」 「……初めまして」 ボディガード……? そう言われて、思い出すのはママが好きだったという昔の同名の映画とかで、……ああ、でも、花菱のお祖父ちゃんにも、パーティの時には警備会社から何人かついてたかも――――。 「千愛理、あの新しいタワーでいいんだよね?」 「あ、うん」 あたしが返答すると同時に、ウェインさんが操縦する車はゆっくりと走り出した。 ―――――― ―――― 「ではルビ、3時間後に」 「うん。よろしく」 後部席のドアを掴みながら、車内を覗くようにして応える本宮君。 見目が綺麗だと、いちいち恰好良くて仕方ない。 1つ1つの所作が自然と目に留まるから、その存在に気づいた女の人達が、足を止めて遠巻きに見始めていた。 そして、その視線は一緒に居るあたしにも向けられる。 針のムシロ、再び。 バタンとドアが閉められ、シルバーの車体が遠くなっていくのをしばらく見届けて、 「行こう」 「――――うん」 自然に繋がれた手に、あたしは胸がギュッとする。 数歩進むうちに、指同士がしっかりと絡まれていつの間にか恋人繋ぎになっていて、 「……」 手慣れている様子の本宮君に、今度は別の意味で、胸がギュッとした。 「うわぁ……、すごい……」 水族館に入場した途端、思わず口からでたそんな感想。 幻想的な青の光が視界いっぱいにゆらゆらと揺れて、あっという間に別世界に迷い込んだような気にさせられた。 「本宮君、見て見て!」 クラゲの生態を観察しながら中へ進んで、階下に作られたプール型水槽にたくさんのペンギンを発見。 「可愛い〜」 手摺に掴まってはしゃぐあたしを、本宮君の声が追ってくる。 「千愛理、落ちるよ」 「まさか」 笑って振り向こうとして、 「―――――え……」 ……出来なかった。 いつの間にかあたしの背後に立っていた本宮君の両腕が、あたしを囲うようにして手摺を掴まえる。 凄く近くに、本宮君の香りが漂った。 マリン系の、包み込むような優しい香り―――――。 学校では気づかなかった。 こういうの、付けるんだ―――――。 あたしの背中に、触れるか触れないかの本宮君の身体。 「落ちるよ。仲間に入りそうな勢いだ」 「え?」 「このまま群れに飛び込みそう」 「そ……そんなに飛び跳ねてません」 頭上から落ちて来る本宮君の、いつもより優しい声音に、呼吸が追いつきそうにない。 肩が上下しそうになるのを、苦しい思いで何とか我慢してた。 どうしよう。 体中に、よく分からない痺れが走り抜ける―――――。 そんなあたしを正気に戻したのは、 「久しぶりだな……水族館」 そんなセリフとポツリと綴った本宮君の声。 「そう、なの?」 なんとか平静を装って切り返す。 「小さい頃は時々行ってたよ」 「アメリカ、どこだっけ?」 「カリフォルニア」 「カリフォルニア……ロサンゼルスとかの?」 「そう。ロングビーチってトコにある水族館。サメがお気に入りだった」 「サメ!? 意外」 「そう?」 「うん。――――どうして行かなくなっちゃったの?」 「……さあ、どうしてだったかな」 それまで軽快だった本宮君の声音が急に沈んだように感じて、斜めに顔をあげようとした時だった。 キィィィ、と、子供の悲鳴にも聞こえる鳴き声。 「な、なに?」 ドキドキして、慌ててペンギンのプールを見下ろしてみる。 クスクス、と本宮君が笑った。 「オットセイの鳴き声だよ」 「オットセイ?」 「うん、―――ほら」 本宮君が、あたしの前でパンフレットを広げる。 「ッ」 み……密着度高すぎるよ。 どうしよう、心臓が壊れそう――――。 「ああ、プールの後ろにオットセイが見えるトンネルがあるみたいだよ。行ってみる?」 「あ、うん、行く」 答えると、本宮君の手が手摺から離れて、少し体が離れた。 今だ。 あたしは透かさず、本宮君の腕の中から逃げるようにして階段へと走り出す。 「まるで子供だね」 クスリと笑いを含めながらあたしを追いかけて来たその言葉に、 「……」 本宮君の腕の中にいた、大人な沙織先生の顔が浮かんでは消えて―――――、あたしの心の奥底には、泣きたいくらいに切ない痛みが、また改めて発芽していた。 |