小説:クロムの蕾


<クロムの蕾 目次へ>


VIOLETISH BLUE
AGITATION


 深夜―――――。

 スマホが光り出した事に気づけたのは、色っぽい小さな声を上げて寝返りをうったマリアを抱きしめ直そうと、うっすら目を開けたからだった。
 ベッドから見えるスタンドテーブルの上に、消音で放置してあるスマホ。
 本当の緊急時にはウェインの携帯が鳴ってドアを開けて来るだろうからと、この部屋に籠もり始めてから二日の間、気にしたのは最初の数時間で、それ以降はほとんど確認していない。

 それほどに、マリアとの時間は濃密で、魅惑的、官能的で、離れていた3年という時間が嘘だったかのように、僕達は何度も深く抱き合っていた。
 考えてみれば、僕の人生の中で、マリアと実際に相対した時間は、出会った日と、昨日今日を合わせて三日間。
 明日が来て、その夜を超えれば、また、手の届かない人になる。

 柔らかなマリアの金髪に指を通した。
 寝ても覚めても、感じるマリアの香り。

 あの朝―――――、

 一人で目覚めたあの朝から、僕はこの香りを、どれだけ求めていたのか、悲しい程に良く分かった。

 もうずっと、どこかで人間関係に絶望していたからこそ、あの夜に見つけた、たった一つだと思っていたんだ――――――。


 「……」

 まだ続いている着信の光。
 肩を揺らす程のため息をついて、一房掴んだ金の髪の先にそっと唇を触れさせた後、僕はベッドから抜け出した。
 ソファにかけてあった黒いガウンを羽織る。

 スタンドテーブルに近づいて着信名を見ると、Daiki Shinoba。

 さっき寝返りを打ったばかりだから、暫くは大丈夫かな。
 健やかな呼吸を繰り返すマリアの寝姿に視線を投げて、スマホのロックを解除して、通話をONにする。

 「僕だよ。ちょっと待ってて」

 ドアを開け、リビングへ行くと、ソファセットの一人掛け用にウェイン・ホンが腕組みをしながら眠っていた。



 廊下にあった優しい光とは違って、目的があって部屋を照らす白い照明は、寝不足の目に痛烈に痛みを覚えさせる。
 目頭を押えるようにして広いソファに身を沈めると、僕の気配に気づいたウェインが、ソファから身を起こそうとした。

 それを手を上げて制して、スマホを耳に当てる。

 「―――――おまたせ」

 悪びれもせず会話の再開の合図を出した僕に、篠場大輝は盛大なため息をくれた。

 『ルビ、困った人だね、君は』

 その切り出した口上に、あまり良い内容ではない事が判る。

 「……どうしたの? 大輝」

 『本宮の日本支社のヘッドクォーターから苦情が入ったよ。決済効率が7%も落ちてるって』

 「……」

 『……何も返さないってことは、自覚はあるんだね? ルビ』

 大輝のセリフは、諭すような内容とは裏腹に、笑いすらも含んだような口調で、

 「あと二日、大輝のとこでおさえといてよ」

 『二日、ね……。僕のところにくる苦情案件はどうにかできるけど、その他の面倒は見れないよ?』

 柔らかいトーンで大輝は告げる。
 ケリが黒曜石と称賛したあの瞳と、まるでビロードのような光沢を持った漆黒の髪。
 思い出すのがあまりにも容易過ぎる、存在がまるで黒ヒョウの様な彼は、優しく語りながらも、僕に釘を刺している。
 僕に、こういう静かな厳しさを与えてくれるのは大輝だけだ。

 「うん。分かってる」

 『そう願うよ。それにしても……、君が会社を放り出すほど、なんて……』

 僕の様子を電話越しに窺うように、大輝は一度、言葉を切った。

 『そんなに"価値のある"女性なの?』


 この様子だと、僕が、このホテルから動いていない事はGPSで調べはついているんだろうけど、誰と一緒なのかまでは分かっていないみたいだ。

 「――――どうかな?」

 答えは濁す。
 けれど、蜜は与える。

 「……でも、思い出は"ある"ヒトだよ」

 『そう』

 僕の返答に、これ以上は何も得られないと悟ったらしく、大輝はその一言に集約した。
 きっと、大輝は調べ上げる。

 ウィンストン家が僕を探していた事。
 このホテルを、ウィンストン家がワンフロア抑えている事。
 そして、その頃、いったい"誰が"日本にいたか。
 過去に、僕と接点があったか。

 彼の頭脳と行動力によって、ピースが揃えばすべては彼の脳裏に露呈される。
 恐らくは僕よりも、僕とマリアの事を知る―――――。

 そして、その情報を僕が欲している事も、

 "詮索はやめてね"

 そう言わない僕の態度から、半ば命令として下っているんだ。


 『―――――君が15歳だなんて、時々詐称されているのかと思うよ』

 少しの沈黙の後、大輝はそう切り出した。
 僕は笑う。
 子供らしくないなんて、小さい頃から言われていた。
 でもそれは、僕が高いIQを持っているからじゃない。
 僕の性格がそうなんだ。
 そしてそれを行使する能力が、備わっていただけ。

 僕にとっての当たり前を、才能ギフト経験スキルが補っているだけなのに、他人はそれを逆に見る。
 才能ギフト経験スキルがあってこそ、こんなに生意気になるんだと。
 僕の人格は、表に出過ぎる評価の後ろに、いつも人目には映らない。
 他人としては、およそ近くに感じている大輝さえ、僕の事を全て理解しているわけじゃ、ない――――――。


 「――――大輝。日本支社の対処は君に一任する」

 『承知しました』

 業務命令として恭しくなったこのやり取りが、通話終了の合図。
 ふつり、通話終了のフラグが立ったスマホを、テーブルに置いた。


 「ルビ、コーヒーを淹れましょうか?」

 「……ううん。すぐ戻るよ」

 言いながら、置いたスマホを指で弾いて、ウェインの前に滑らせた。

 「同じ発信者から2度目のコールには応対して。18日の夜からなら対処出来る」

 「……? わかりました」

 指定した日付は、日本時間での、マリアの二十歳の誕生日。

 この日から、マリアという存在は永遠に消えてしまう。
 そして彼女は、自分で決めたそのラインをエンドとして、綺麗さっぱり僕の事を過去に置いて行くんだ。
 飛行機に乗ってシアトルに戻り、別の18日がマリアに訪れた後は、メアリー・ウィンストンとして新しいスタートを切る。

 「……」

 ベッドルームに戻ると、マリアはさっきとまったく変わらない様子で、

 金色の長い睫毛が、
 唇が、

 呼吸を営むたびに、甘美に震える。


 寂しい、んだろうか? 僕は。
 探していた光は、旅立つことを前提に僕の前に自ら現れた。

 【マリア……】

 頬の撫でていた手を、横髪を梳くように動かした。

 みんな、僕を置いていく。


 これまで相手にしてきた女性達も、

 マリアも、



 そして、

 …………、




 【マリア】

 【……ん、……ルビ?】

 肩に、背筋に、ゆっくりと舌先を這わせると、刺激で目を覚ましたマリアは、背後から愛撫を始めた僕を、まだ虚ろなエメラルドグリーンの瞳で肩越しに見つめてきた。

 【ルビ? どうしたの? ッ、……ぁ】

 どこをどうすれば、マリアが直ぐに僕を受け入れられるか、もう知っている。

 【ぁあ、ゥ、……ルビ】

 枕に縋る様に、快感に耐えるマリアの姿はとても綺麗で、

 【入っていい? マリア】

 【ルビ】

 【今すぐに、あなたと一つになりたい】

 【……いいわ、きて、ルビ】

 【マリア】

 【私が、あなたを包んであげる】


 男が、女性を抱く理由の一つに、きっとこれは必ず当てはまる。



 女性は、温かいから。
 柔らかくて、気持ち良くて、そして何よりも、

 こうして、身体の中に自分を埋め込んでくれるという許容に、甘えたくなるんだ。


 【あ、ルビッ、ルビッ】

 【マリア……ッ】

 激しく求め合う中で、労わるように指が絡むのは、
 マリアの指が僕の髪を撫でるのは、
 今この瞬間なら、確かにお互いへの"愛"が存在するから―――――――。

 【……僕を愛して、マリア】

 終わりが来る、その瞬間まで。

 【愛して、マリア】

 【……ルビ……】

 驚いたような、マリアの顔。
 その手が僕に伸びてきて、指先が、頬に触れる。

 【泣かないで、ルビ】

 言われて、初めて気が付いた。
 こんな涙を、僕はまだ、流せたんだ。

 【―――――愛してるわ、ルビ】

 今だけ、

 【あなたを愛してる―――――】

 今だけだけど、

 【愛してるわ】

 【……ッ】


 音を立てているのは、

 汗か、涙か、

 二人で奏でる愛の水音か―――――、


 僕が求める腰の一振りに、

 【あッ、ぁあ、愛してる、ルビ】

 僕の心に空いた孔に、このひと時のマリアからの情熱が、

 【マリア……ッ】

 ぴったりと寄り添うように、埋まってくる――――――。


 永遠にこの時間の中に居たいと願うのは、きっと、これ以上、
 戸惑ったり、傷ついたりする事が、怖いからなんだと思った―――――。


 夕方、シャワーを浴びて新しいガウン姿のままエントリーに出て行くと、備え付けの鏡台に向かって、マリアが長い金髪を梳いていた。

 【マリア】

 呼ばれて僕を見上げたマリアの唇に、ちゅ、とキスを落とす。

 【綺麗だ】

 まだ化粧前の素顔と、湿り気を残した金髪の加減が、この三日間の濃厚に過ごした内容を思い出させて火を点ける。

 【ル、】

 開きかけた唇をくわえて、舌先を挿し込めば、あっという間にとろける二人になった。

 【ん、……て、待って、ルビ】

 僕の胸を押し返してキスを終えようとするマリア。

 【僕が欲しくないの?】

 悪戯っぽく見下ろすと、紺碧の瞳がまるで海の水面のようだった。

 【ルビったら、せっかくデートが出来るのよ? 夜まで待ってて】

 【マリアがデザート?】

 【ふふ、生クリームでも持ってきてトッピングしましょうか?】

 【――――】

 【……やだ。冗談よ?】

 【なんだ、残念】

 戸惑って頬を染めたマリアに、今度は僕がクスリと笑う番で、小さな喜びが湧き立って来る。

 【可愛い、マリア。初めて見た、そんな顔】

 【……もう!】

 少し機嫌を損ねたようなマリアが、僕のお腹を叩いてくる。
 ついさっきまでは高嶺の花のようなマリアだったのに、こんなに身近に感じるのは、こんな風に生活をするマリアを見たからなのか、それとも、共有したこの三日間の結果、という事なのか。

 【――――ルビ、座って? 髪を乾かしてあげる】

 【うん】

 立ち上がったマリアに促されるまま、入れ替わりに鏡の前に座る。


 目の前のもう一つの世界に、ドライヤーを取り出すマリアが映り、鏡越しでもくっきりと美しいエメラルドグリーンの瞳が、僕のクリーム色に近い金髪を見つめている。
 熱風が僕に向けて噴射され、マリアの指が僕の髪を梳き、優しい眼差しが、僕だけを映していて、

 しばらく、幸せな時間が、僕達を包んでいた――――――。

 【――――ルビ、ドレスを二着出してあるの。どちらがいいか、決めていてくれると嬉しいわ】

 【分かった】

 僕の髪を乾かし終えて、ドライヤーを片づけながらそう言ったマリアの頬にキスをして、ベッドルームに戻る。

 【……?】

 ふと感じた違和感に、室内に視線を巡らせた。
 さっきまでは無かったホットウォーターや炭酸水がテーブルにセットされている。

 メイドが入ったのかな―――――?
 ふと過ったその考えを、僕は直ぐに訂正した。
 乱れていたシーツは新しいものに換えられ、コインが弾みそうなほど丹誠にメイキングされたベッドに並べられているのは、マリアが言っていた二着のドレス。

 【……あの執事か……】

 金髪と、眼鏡の奥の深い瞳の、恐らくは僕らが出会うずっと以前からマリアの傍に存在していたんだろう男を思い出す。
 用意されていたのはオレンジピンクと、アクアマリン。
 同じパステル系だけど、しっかりと型が取られたワンピースドレスだった。

 どちらも、きっとマリアに良く似合うと思う。

 【……】

 【ルビ、決めてくれた?】

 まだガウンのまま立ち尽くしていた僕の背後から、マリアの声がする。
 一瞬、連れ去られかけた思考を、現実に戻した。
 振り返ると、身だしなみ程度の化粧を施したマリアがいて、

 【――――うん、こっちね】

 【ふふ。合わせて靴を選ばなくちゃ】

 楽しそうに笑いながら、着ていたガウンを惜しげも無く脱ぎ捨てて、真っ白な肌に、映える真紅のランジェリーを僕に晒してくる。

 【マリア……。僕を挑発してるとしか思えない】

 【そうよ。今夜は、私が私でいられる、最後の夜だもの】

 【ディナーの後までお預けなのに?】

 【ふふ】



 マリアは、ドレスを着ると、コスメボックスから口紅を取り出した。
 半開きにした唇に塗られていくその色は、さっきまで素肌を彩っていたのと同じ赤。

 【マリア……】

 僕を見ながら、余分な口紅を舐め取るのは、紛れも無く、強烈な誘い。

 【凄く、欲情するよ、その顔―――――】

 【して――――。そして、壊れるまで私を追い詰めて】

 【マリア】

 手を伸ばそうとして、ふい、と躱された。

 【ダメ。食事が先】

 ベッドに座り、受話器を取って内線を架けているマリア。
 きっと、マシューを呼ぶつもりなんだろう。
 靴を待つ素足が、伸びをしたり縮んだりと遊んでいる。

 ペディキュアも赤。
 あの指一つも、今夜は決して逃さないと決めた。

 【覚えておいて】

 丸めた人差し指でマリアの唇をスッと撫でる。
 付いた口紅に僕の唇を合わせると、マリアは満足そうに目を細めた。

 【ええ、しっかりと】

 マリアの応えに僕は微笑み、ソファに置かれていた僕の服を手に取った。
 このホテルを訪れた時に来ていた一式そのまま、クリーニング処理が施されている。

 【あなたの執事は優秀だね】

 【ワイズマン家は、代々ウィンストン家の執事なの】

 それを語るマリアの表情は少し憂いを感じられて、

 【そう】

 マリアのまた違う側面を垣間見たような気がする。

 【それじゃ、僕は先にロビーに下りるね。時間が来たらレストランの前であなたを待ってるよ】

 【え?】

 着替えを終えた僕に、マリアが顔を上げた。



 【どうして? 一緒に行けないの?】

 こういう詰めが緩いところは、やっぱりお嬢様なんだと思う。

 【特別なディナーに見られないように、わざとバイキングにしたんだ。それなのに、同じエレベーターから一緒というのは、明らかにビジネス的じゃない。きっとマシューの望むところではないと思うよ】

 僕の言葉に、

 【あ……】

 とマリアが呟いて俯く。

 【――――ごめんなさい】

 【マリア】

 僕はベッドに座るマリアに近づいて、膝を折った。
 胸の前に垂れる金髪を手にとって、その一房にキスを落とす。

 【そんな顔しないで、マリア。レストランの入り口で待ち合わせなんて、本当にデートみたいだよね?】

 【――――ふふ、そうね、ルビ】

 どうにか気分を戻したらしいマリアに、僕はホッと息をつく。
 同時に、コンコンと部屋がノックされた。

 【失礼いたします】

 入って来たのはマシューで、

 【マシュー、今夜はこのドレスにするわ】

 【かしこまりました。では、履物は二段目からお選びいたしましょう】

 引っ張って来たワゴンの二段目から、幾つかの箱を取り出して見せる。
 そんなやり取りを見ながら、僕は立ち上がり、マシューと入れ替わるように部屋の外へと足を進めた。

 【それじゃあ、マリア】

 【ええ、ルビ、後でね】

 そう言って小さく手を振ったマリアは、アクアマリンのドレスが金色の髪の豊かさを映えさせて、明日の別れを惜しみたくなるほどに、とても、綺麗だった――――。



 寝室を出ると、廊下の向こうに身支度を整えたウェインが立っていて、そのまま部屋を出てロビーへ降りるつもりだった僕は、足を止めることなくその姿を追い越した。
 長年僕についているウェインはそんな事には慣れた様子で、自然と僕の半歩後ろをついてくる。

 「どうぞ」

 無愛想なそんな言葉と同時に、横から差し出されてくる僕のスマホ。
 それを受け取りながら、

 「折り返し待ちがある?」

 尋ねてみると、

 「2回目をかけてきたのは、"Stella"の照井さんとルネです。正確には、ルネはもう何十回もかけてきてますが」

 おおよそ大輝で抑えられたって事か……。
 ま、ルネが抑えられなかったのは想定内。

 照井さんは……、

 考えながら未読メールを確認して、思わずため息が漏れた。

 「……どうしました?」

 「――――ルネって、ほんとは暇みたい。ブレーン探すために人事部にスキル調査を通達したの、早まったかもね」

 ここ数日、表示される受信ボックスを埋め尽くす未読メールはほとんどルネからのもので、しかも内容はほとんど大輝とのやり取りの愚痴。
 その隙間にケリから1通、大輝から1通。

 ルネのものは無視して、ケリのメールから先に開く。

 "心配かけてごめんね。愛してる"

 その文面に、思わずクスリと笑った。
 どうやら大丈夫そうだ。


 天城アキラ―――――、
 最初の難関を突破した……か。

 完全に、認めるしか……ないのかもね。

 「……」

 "僕も愛してる。クリスマスプレゼント、考えておいて"

 そう返信している間に、ウェインがエレベーターの呼び戻しボタンを押していた。
 何気なくウェインが背中に触れてリードしてくれるから、ロビーフロアに辿り着くまでに、続けて大輝に返信する事も出来た。
 下り立ったフロア。
 ちょうど左右がレストランとフロントに分かれるエレベーターホールは、チェックイン客が重なり易い18時過ぎという時間もあってか、人の行き交いが多い。

 「ルビ、先にレストランに入りますか?」

 ウェインの質問を耳にしながら辺りを見回すと、幾つか並んでいるレスト用のソファーが目に入って、

 「照井さんに1本電話を入れる」

 「わかりました」

 一番近いスペースに腰を下ろして足を組み、着信履歴から発信した。


 『――――社長?』

 「ごめんね、電話くれた?」

 『はい。ご要望のアイテムが揃いましたので、デザインの確認をお願いしたくて』

 「……、ああ!」

 その内容が、天城アキラに頼まれていたアレキサンドライトのルースと、そして、コンクパールの事だと思い出す。

 「……アレキサンドライトは、前に見せてもらったデザインでカットを進めていいよ」

 『分かりました。――――あの、コンクパールの方は……』

 「――――そのまま」

 『……え?』

 「そのまま保管しておいて。今度店舗に行くときに受け取るから」

 『……あの、加工は……?』

 「もう、いいんだ」

 千愛理の事が、一瞬頭を過る。

 『社ちょ、』

 照井さんが何かを言いかけた時、

 「ルビ」

 僕の視界の端でウェインが合図をするように手を上げた。
 導かれるように目を向けると、5Fで止まっていたエレベーターが下へと動き出すところで、
 貸し切りフロアからの移動だから、それにマリアが乗っているだろう事は容易く想像できる。

 「照井さん。もう行くよ。明日また連絡する」

 『あ、わかりました』

 終話して、画面をロックしながら立ち上がって歩き出した。

 「ウェイン、先に入ろう」

 「はい」

 頷いたウェインを従えてレストランの入り口まで行くと、若い男性スタッフが控えめな笑顔で対応してきた。

 「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

 「4名です」

 「かしこまりました。本日はお席が混みあっておりまして、バイキングコーナーから少し離れたお席へのご案内となりますがよろしいでしょうか?」

 「うん。構わないよ。その方がゆっくり出来そうだし」

 「ありがとうございます。お支払いはご一緒で?」

 「カードで」

 そう答えたタイミングで、



 【ルビ、それは私の部屋につけて】

 マリアの声が届く。

 【マリア】

 金髪を靡かせて、僕の腕にするりとその細い腕を絡めて来たマリア。
 僕が選んだアクアマリンのドレスと、それに合わせた金のハイヒール。

 胸元に輝くエメラルドをパヴェ調に敷き詰めたネックレースがエレガントな雰囲気で、

 【やあ、マリア。とても綺麗だ】

 【ありがとう、ルビ】

 【ところでマリア。僕にもこれを扱うくらいの甲斐性はあるよ?】

 笑いながらそう言った僕を、

 【馬鹿ね、ルビ。あなたには今夜、もっととびきりのモノを貰うからいいの】

 紺碧の瞳が、悪戯っぽく見上げて来る。

 ――――今夜が、最後。

 【クス】

 僕はマリアの腰にぐるりと腕を巻き付けた。
 グッと僕の方へ引き寄せて、

 【期待してて。とびきりの時間をあげる】

 その額にキスを落とす。

 【ふふ。いきましょう? マシュー、お願い】

 【はい】

 マシューがルームキーを見せてサインをする傍を、別のスタッフの案内で歩き始める。
 窓側のテーブルの列に沿うように進んで、


 ―――――え?

 通り過ぎようとしていたテーブルに座る人物に思わず足を止めた。



 「……ち、」


 "千愛理"


 出かかった名前を、どうにか喉の入口で呑みこむ。


 【ルビ?】

 立ち止まった僕に、マリアが顔を上げた。

 【どうしたの?】

 尋ねながら、僕の視線を追うように、その席に座る3人に目をやったマリア。
 そこには、白邦の制服姿のままの千愛理と、その向かいに藤倉貢。
 そして――――、千愛理の隣には、僕の知らない、白邦の制服を着た男が居て、

 「……お前、千愛理の男じゃねぇの?」

 日本人独特の漆黒の綺麗な髪をかきあげながら、"そいつ"は言った。
 温和そうに見えた目が、僕を鋭く見つめている。



 "千愛理"


 ――――ふうん?


 「え? 本宮? なんで? えっと、その人……、おねぇさん、とか?」

 僕の腕に絡められたマリアの腕を見ながらの、藤倉の焦ったようなセリフを放置して、僕は俯いたままだった千愛理を見やった。

 「千愛理」

 僕が呼ぶと、千愛理の身体は一瞬だけハッとしたように動き、

 「……」

 それから、薄茶の瞳が、ゆっくりと僕を見上げてきた。
 隣の男が、少しだけ、千愛理の方に身体を寄せた。
 いつでも支えようとする気遣いが窺えたその距離感。


 ……、

 誰――――?


 「千愛理、―――――まだ言ってないの?」

 僕の問いに、

 「あ、……タイミング、逃しちゃって」

 微かに、苦笑した千愛理。

 「僕から言おうか?」

 「……」

 少し間を置いて、コクリと頷く。
 それを合図に、僕は藤倉を見て言った。

 「――――僕と千愛理は別れたんだ。三日前に」

 「えッ?」

 藤倉の大袈裟なほどの反応と、眉を顰めて、心配そうに千愛理を見るその男。

 「――――ね?」

 同意を求めた僕に、千愛理がもう一度頷いた。

 「そういう事だから」

 待たせてしまったマリアの腰を改めて引き寄せて、

 【行こう、マリア】

 【ルビ、いいの? 少しくらいなら待ってあげてもいいわよ】

 【いいんだ。今は、マリアとの時間が何よりも大事】

 【ふふ、ルビったら】

 笑うマリアの髪を耳にかけてやって、

 【……行こうか、マリア】

 背中を押すようにリードした僕に、マリアが一瞬だけ不思議そうな顔をした。

 【……マリア?】

 【――――ううん、なんでもないわ。――――早く行きましょう】

 【うん】

 「それじゃあ」

 歩き出した僕の視界の隅で、その男が、千愛理の手を、テーブルの下で握っているのが、はっきりと見えていた。








著作権について、下部に明記しておりマス。



イチ香(カ)の書いた物語の著作権は、イチ香(カ)にありマス。ウェブ上に公開しておりマスが、権利は放棄しておりマセン。詳しくは「こちら」をお読みくだサイ。