レストランスタッフに案内された店内の奥の席に着き、4人のフルートグラスに食前酒が注がれて落ち着いた頃、 【――――ねぇ、ルビ。あの可愛らしい子はあなたの恋人?】 壁側を背に座っているマリアが、紺碧の瞳を悪戯っぽく揺らしながら僕を見る。 明らかに、背後に座って居る筈の千愛理と僕とを、遠目近目と行き来しているのが分かった。 「……、ex-girlfriend」 【元……、ね】 クスリ、とマリアの赤い唇が両端を上げる。 【……何?】 意味深な眼差しに、一言そんな声を出した後で、少し後悔した。 年上の女性は、女の勘にプラスして、経験が多い分、心情の読み方がこういう所に由来しやすい。 案の定、 【ふふ、なんだか機嫌悪いのね】 楽しそうに笑ったマリア。 思わず短息をついた。 【――――そんな事ないよ】 【別れた彼女に、既に新しい恋人が出来ていた事が不満なの?】 【……マリア】 【クスクス。あなたでも、そんな顔をするのね、ルビ】 再び、マリアの視線が千愛理の居る方向へと流された。 "そんな顔" その言葉に、一つ椅子を挟んで左側に座っていたウェインの身体が、"見たい"という欲求を隠せずに、僅かに僕の方を向いてくる。 僕自身、自分がどんな顔をしているのか、見たいような見たくないような、複雑な衝動が心の奥底に走っていて、ウェインのそれを戒める言葉は思い浮かばなかった。 【……】 僕は椅子の背もたれに身体を預けて、マリアを見据える。 【――――マリア、今夜のために僕を挑発したいなら、方法を間違っているよ?】 【……そう?】 お互い、真顔での視線のぶつけ合い。 【……】 【……】 どれくらいそうしていたのか、ふと、マリアが頬を緩めた。 【そうね、やめましょう。あなたの別れた彼女の事で私達がこんなアンニュイな時間を過ごすなんて馬鹿げてるわ】 【でしょ?】 グラスを僅かに持ち上げて飲み始めたマリアに応え、僕もグラスに口をつける。 ノンアルコールのフルーティな香りが、僕の気分と雰囲気をやんわりと静めた。 ふふ、と笑いながら、マリアがグラスを置く。 【ねぇ、ルビ】 【なぁに? マリア】 【――――あなたのその真摯な姿勢は、なんだかとても、安心出来るわ】 【え?】 【何をおいても、目の前の私をまず優先して考えてくれるその姿勢に、とても信頼を覚えるの】 【……】 僕がこれまで、結果として、パートナーが居ながらも孤独を感じている女性だけを相手にしてきたのは、ほとんど"あいつ"が反面教師だからで、 そして、目の前の女性に向き合いたいと努めるのは、蔑ろにされてきた母親、ケリを見て育ったから――――。 【あなたが、惜しみなく愛を注ぐ相手に巡り合った時、きっとその女性は、世界一幸せになれるわね】 そう言いながら、テーブルの上で僕の方へと伸ばされてきたマリアの右手に、 【……】 僕は、そのマリアの言葉の意味を完璧に噛み砕いてはいなかったけれど、求められたのは温もりだろうと、それを返すべく、僕の左手を合わせ、そのまま指を深く絡めた。 性感帯とも呼べるその指の間は、擦り合わせている内に境目が判らなくなる程に心地いい融解感が走り始める。 【どうしたの? マリア。そんな顔は初めて見る……。何か不安を感じてる?】 その問いに、マリアはゆっくりと首を振った。 【違うわ、ルビ。ただ、いつかあなたに愛される人が、羨ましいと思うだけ】 【……マリア、今夜も、僕は、あなたを際限まで愛するよ】 声を掠れさせて僕が囁くと、 【……セックスじゃないのよ、ルビ】 マリアが微かに目を細めた。 【どういう意味?】 首を傾げて問いかけたけれど、マリアはただ微笑んでいるだけで口を開こうとはしない。 仕方なく、質問を重ねる。 【――――セックス以外に、注がれる愛を量るバロメーターがマリアにはあるの?】 尋ねながらも、不思議に思う。 僕と、セックスだけの関係を欲したのは彼女で、僕にはそれ以外の選択肢は無いという前提で全ては進んでいる筈。 それとも、そんな弱音とも呼べる本心を語らせてしまう程、明日で僕との時間が終わるという現実は、少なくとも、マリアの心を揺さぶる事が出来ているという事……? 【バロメーターね……。ええ、もちろんあるわ、ルビ。時間が短くて私はそれを伝える事は出来ないけれど、あなたはきっと、そう遠くない日に全てを学ぶ】 【……】 【全てを感じて、全てを知る事になるわ】 【……】 【きっと】 マリアの眼の、目も眩むようなエメラルドの光が、僕の時間さえも止めそうな程の鋭さで向けられてくる。 【マリア?】 なんだろう……? 達観したような、その目線は彼女独特のものなのに、今彼女が見せているその強さは、 もっと別の"もの"のような気がする――――。 【……、――――メアリー様】 【!】 現実離れしたような世界から、空気を一気に変えたのは、ワゴンに色とりどりの料理を運んできたマシュー・ワイズマンの声だった。 【マシュー。まあ、美味しそうね】 仕掛けた筈のマリアは、僕から料理へと興味を移動させた。 【見繕って参りましたので、どうぞお召し上がりください。本宮様も、MR・ホンも、どうぞ】 【ありがとう】 【ありがとうございます】 次々とテーブルに並べられるお皿には、本来ならバイキングで各自の皿に盛るべきメニューが並んでいる。 マシュー・ワイズマンのやって来た方向から察すると、恐らくは表に並べられる前に分けてもらったらしい。 ふと、マリアが顔を上げてマシューを見て、それに応えるように、マシューが微かに頷いた。 (……マシューは、毒見役も兼ねているのか) チラリとウェインを見ると、彼も僕を横目で視界に入れていた。 この、主人と執事という枠を超えたやり取りに気づいたんだろう。 幼い頃、僕は3度誘拐された。 ここ何年かは、僕を取り巻くボディガードはウェインを中心に編成されているけれど、小さい頃から入れ替わってきたボディガードの中には、その銃撃からの防衛で僕を護りながら重体になったメンバーも居る。 キンダーガートンで普通の学校への通学を諦め、セキュリティの確かなセミナーを通い歩くしかなかったジュニアスクール時代。 同級生がシニアスクールに入る頃には、僕はもう大学で、友人という存在を作る機会は全くなかったから、仲間意識と 得たものの結果から言うと、その環境自体が嫌ではなかったけれど、窮屈な子供時代だったのは確か。 けれど、ある意味、僕を目当てとする場合は"金"という明らかな偶像があって、ウィンストン家のように、"存在"自体を邪魔にするという事は無く、"毒殺"という危険性は一切ない。 でも、マリアが育った世界は、こんな風に、慣れたように"毒見"が行われるのが普通だったんだ。 約3年前のあの夜と、 そして、今僕の目の前に居るマリア。 大手を広げて、誰をでも寛大に受け入れるように見えたマリアが、何故か儚く僕の目に映ったのは、マリアの持つそれが、僕の持っていた寂しさの一部と、本当にほんの一部だろうけど、同調したからかもしれない―――――。 【ルビ】 一段と優しく名前を呼ばれて、僕は、マリアを改めて見つめた。 豊かな金髪は、思わず手を伸ばして掴まえてしまいそうなほどに輝いていて、笑みを湛える唇は、今すぐに食みたいほどに美しい形をしている。 【愛してるよ、マリア】 その愛が、どんな色だろうと、この言葉に、嘘は無い。 【――――ありがとう】 【……】 "私も" そう返さない応えに違和感を覚えたけれど、マリアなりの、明日の別れに続く序章なのかと思うと、ただ微笑んで受け入れるしか、出来なかった。 |