小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
AGITATION


 【ルビ、起きて? 朝よ】

 マリアのそんな声と共に、シュ、シュとカーテンレールを走る紐引きの音がして、ベッドルームに冬らしい透明な陽射しが差し込んできた。

 【……ん】

 目に受けた刺激を合図に、早速、体中の細胞が反応し始めたけれど、今朝の寝起きの調子はあまり良くなかった。
 いつもの記憶の整理も、同じようなシーンが繰り返されただけで、うまく脳内のキャビネに分類しきれなかった気がする。
 まあ、この四日間は業務をしていなくて、ほとんどの記憶がマリアとの事だから特に構わないけれど――――。

 【……おはよう、マリア】

 ぼんやりと言いながら身体を起こし、肌蹴ていたガウンを整えて、逆光の中のマリアを振り返った。
 そして、目に入ったマリアの姿に、

 【ああ……】

 思わず苦笑を浮かべてしまう。

 【――――そう言えば、時間は聞いてなかったね】

 僕がそう言って息を漏らすと、マリアは僅かに首を傾けて微笑んだ。
 再会した日、二十歳の誕生日を境に家の名の下に檻に入ると宣言していたマリア。
 考えてみれば、日本を発つ飛行機の時間は聞いてなかった。

 【まさか、その日の朝に手を放す事になるなんて、思ってなかったよ。ま、眠っている内に居なくなっていた前回よりは随分ととマシな扱いだとは思うけど】

 僕らしくなく、或いは僕らしく、過去の恨み言を一つ添えて責めてみる。

 【……ごめんなさい、ルビ】

 今、マリアがどんな顔で僕の名前を呼んだのか、次第に光に慣れてきた目が、シルエットの中に浮かんできたその表情を捉える。

 久しぶりにまみえた日と同じように、エレガントなベージュのスーツを身に纏ったマリア。
 化粧も終え、綺麗に梳かれている輝かしい金色の髪に負けないほどに、メアリー・ウィンストンとして今日からの日々を生きていくマリアは、この時間で置き去りにされる僕の心をはかるように美くて、

 【……誕生日おめでとう、マリア】

 【ありがとう、ルビ】

 僕達の関係の終わりを現す合言葉は、儀式的に交わされた。


 マリアにとって、これから生きて行く道の区切りとなるこの日を祝う全ては、多分、これでいいんだ。

 でも――――、


 【―――――最後に、一度だけ確認させて? マリア】


 僕が何を口にするのか、きっと察したんだろう。
 微かに、困ったような表情を浮かべたマリア。

 【本当に僕は、あなたをここで見送るだけでいいんだね?】

 【―――――】

 しばらく無音が続いたのに、重い空気にならなかったのは、

 ――――――それが答え。

 ここが、僕達の最後の場所。
 ふと、マリアの紅い唇が弧を描き、ベッドに座ったままだった僕の傍まで歩み寄ってきた。

 【――――ルビ】

 色白な腕を伸ばしてきて、その両掌で僕の頬を優しく包みこむ。
 夢から醒める事を促すような肌の冷たさが、くっきりと記憶に染みこんだ。
 僕は、マリアの紺碧の瞳を見上げて、この4日の間、僕が何度も啄んだその唇から、次に綴られる言葉を待つ。

 【私は……、今、この瞬間も、やっぱりあなたに会いに来て良かったと思っているわ。……あなたは私にとって、私の人生に必要だった特別な人――――。そしてあなたにとっても、私はそんな存在に成り得ると、いいえ、――――成り得ていると、信じている―――】

 【……】

 それは、否めない真実だと思った。
 きっと僕は一生涯、マリアの事を心の中から消してしまう事は出来ないだろう。
 3年以上も前の、あのたった一晩の縁をずっと胸に仕舞いこんできた僕は、マリアと出会った僕の誕生日が来る度に、マリアと過ごしたこの冬の季節がくる度に、多分これからも何度でも思い出す――――――。



 繰り返し繰り返し、思い出す……。

 記憶に焼きついたマリアの色を、匂いを、温もりを、何かが引き鉄になる度に、この密度の濃い4日間の事は、鮮明に僕の記憶を駆け抜ける筈だ。

 金髪碧眼の、どこまでも自由な美しい人。
 そして、永遠に不自由になる、美しい人。

 僕の、初めてのひと
 情としての愛しさではなく、恋情の灯火を初めて僕に、教えてくれた人――――――。


 【マリア……】

 僕の頬に添えられたままだったマリアの手に、そっと手を重ねた。
 恐らくはこれが、最後の触れ合い―――――。

 【ルビ、私は大丈夫よ。私は必ず幸せになる】

 【――――うん】

 【だから、あなたにも幸せになってほしいの】

 【……?】

 僕を見下ろすエメラルドの瞳が、クスリと笑ったような気がした。

 【ルビ……、恋はね、タイミングがとても重要だったりするから、初心者のあなたに特別に教えてあげるわ。これが最後のレッスンよ、私のToyBoy】

 【――――――え?】

 急な話題の展開に、一瞬、頭の中がフリーズした。


 ――――"恋"?


 【私を抱きながら泣いたでしょう? ルビ。―――――あ、忘れたなんて言い逃れはダメ。愛して欲しいと、あんなに縋ってきたのだから】

 今度は、ふふ、と声に出して笑ったマリア。


 それは、二日前の事。
 大輝から連絡をもらった後、湧き上がる感慨に自分の心が制御できず、涙を落としたあの時―――――。
 去る事が決まっているマリアとの時間が、去って行った女性達との思い出をノックして、

 そして何より、


 ――――――、



 「…………」

 マリアから視線を逸らし、絨毯を見つめた僕に、またマリアの微笑が鼓膜を擽る。

 【今、あなたの脳裏に浮かんでいる人は誰?】

 【……え?】

 その言葉に、ドキリとした。


 【あの時、抱きしめたいと思い出して泣けたのは、本当は私じゃなくて、誰の事だったの?】

 【……】

 女性と居て、他の人の事を考えていたと気取られるなんて初めてで、明らかな動揺が僕の体を強張らせる。
 せめて他の人なら冷静に躱せた筈なのに、相手がマリアだから、情けないほどに思考を停止させてしまった。

 【マリア……】

 苦しく眉を顰めた僕に、マリアは【あら】と笑った。

 【バカね、ルビ。責めているんじゃないの。私はただ、あなたに知って欲しいだけなのよ】

 【知って、欲しい――――?】

 【そう】

 マリアが頷くと、その細い肩を流れた金色の髪が、僕の腕にサラリと触れた。

 【私、夢中で受け止めはしたけれど、あなたが泣いた事がとても不思議だった。―――――だってそうでしょ? 私達の出会いがお互いにとってどんなに大切な思い出だったとしても、お互いの存在や想いは、そこまで心を寄り添えるほどに育んでなんかきてはいない。情はあっても、種類の違う愛はあっても、あんな風に湧き上がる求め方をする程に、私達の心は一つじゃない。――――――なら、何があなたを泣かせたの?】


 僕は、何も応える事が出来なかった。
 あの時は、ただ寂しくて、泣けてしまう自分に驚いていたのも事実で―――――、

 そして、
 千愛理の事が、頭を過ったのもの事実。
 そんな事を、混乱する思考の中でどうにか考え続けていると、

 【でもその答えは、レストランで、あなたの元恋人が座って居たあのテーブルで齎された】

 マリアが涼しい顔でそう言った。


 答え――――?

 否、それよりも、

 【―――――え?】

 一つの可能性に、疑問の声が思わず喉から零れる。


 【マリア、あなたは……】

 「ワタクシ、ニホンゴ、スコシダイジョウブ」

 「マリア……」

 驚いた僕の様子に、満足気に目を細めるマリア。

 【『三日前に別れた』、あなたは確かにそう言った】

 【……】

 【つまり私と再会した日ね?】

 【それは、】

 【つまりそれは】

 僕の言葉を強引に遮り、マリアは笑う。

 【私を抱いて、温もりを共有して、けれどそれはあと二日で終わってしまう……。そんな負の感情が、失恋を自覚していなかったあなたの心の奥底に触れて、"好きな人が傍を去って行く"、そんな連鎖的な反応が、あなたに涙を流させたんだわ。あの涙は、あの子が自分の元から離れた事を時間差で実感した涙だった。――――違う?】

 語り切り、再び満足気な顔をして頷いたマリアに、僕は演出のように肩を上げて見せる。

 【……マリア、失恋なんて大袈裟だよ。確かに千愛理の事は嫌いじゃなかったけれど、それは】

 努めて、まるで自分にも言い聞かせるように言葉を綴る僕の目を、

 【ルビ】

 少しだけ口調を強くしたマリアのエメラルドグリーンの瞳が、諭すように覗き込んできた。

 【……マリア】

 この眼に敵う人間が、この世界にどれくらい居るのか。
 そう考えてしまう程の力を秘めた、強い眼差し。
 これが、政治一家の血筋が持つ魅力、もしくは系統の才覚というものかも知れない。
 暫く見合った後、ふと、マリアが微笑んだ。

 【素直な気持ちで、目を閉じればきっと分かるわ】

 【……】

 【あなたは、あの子が好きなのよ】

 まるで僕に魔法をかけるように、その呪文は投げられた。

 【あなたが頭で"考えている"以上にね】


 【……】

 【……】


 再び訪れた沈黙の後、

 【―――――"だから"、】

 ポツリと、浮かんできた疑問を僕は口にする。

 【だから昨夜は、……しなかった……?】

 それに、マリアは僅かに首を振った。

 【それは関係ないわ】

 【……】


 昨夜、僕達には何の営みも無かった。
 それまでの挑発がまるで嘘のように、僕がそんな雰囲気にリードしようとしても、マリアに巧みに躱された。
 ベッドに寝転がったまま、時々、気紛れにバードキスを交わしつつ、昨夜マリアと共有したのは、お互いの幼い頃の思い出話や、学生時代の話、時事問題から、アメリカの未来、世界経済、各先進国や後進国の情勢。
 全てを知り合った男女が裸に近い格好で寄り添っているのに、使ったのは頭だけという色気の無い話で、けれど不思議な充実感に満たされた時間だったのは確か―――――。


 【私にとっては、"昨夜も"特別だったわ】

 マリアの指先が、僕の鼻先を突いた。

 【……そうだね】

 諦めを前面に僕が息をつくと、マリアは悪戯っぽく唇の端を上げる。

 【さ、私からのレッスンはここまで。ここから先は、あなた自身が実践で学びなさい】

 すると、その言葉を待っていたかのように、突然ドアがノックされた。

 【―――メアリー様】

 その声はマシュー・ワイズマンのもので、

 【いいわ、マシュー】

 マリアが返事をすると、開かれた扉の向こうから、すっかりコートまで着込んだマシューが現れた。
 その腕に持っているのは、マリアのための真っ白なコート。


 【準備は全て整っております】

 【ありがとう、マシュー】

 背中からコートを羽織らされ、優雅な所作でそれに袖を通していく。



 僕はベッドから立ち上がった。
 正面から、純白に包まれて、まるで花嫁ブライドのようなマリアを見つめて、

 【僕は、あなたが望むブライダルシャワーを、ちゃんとプレゼントできた?】

 尋ねた僕に、白の彼女はゆるりと微笑む。
 それはまるで、3年以上も前に初めて会ったあの夜の、僕の心を一瞬で攫って行ったあのマリアの微笑み。
 闇夜に煙るように浮かびあがるラナンキュラスの花の間に垣間見た、あの美しいマリアの姿。


 【――――もちろんよ、ルビ】

 【そう】

 それだけ聞ければ、もう僕は用済みだと思う。
 これからシアトルに戻り、決められた男性ひとと結婚し、そしてその傍には、きっとこのマシューが、生涯立っているんだろう。


 【さようなら、ルビ】

 【さようなら、マリア】

 足の長い絨毯にピンヒールを沈めて踵を返し、ドアへと歩き出したマリア。
 ふと、金髪を揺らして身体を斜めにし、肩越しに僕を振り向いた。


 【ルビ】

 【――――どうしたの? マリア】

 その眼差しは、これまでには見せた事の無い複雑な光に揺れていて、

 【……きっと未来で、私の事を強く思い出してくれる日が、――――あると思う】

 作り笑いと分かる表情が、やけに僕の心に、この時のマリアを強く印象付けていた。

 【その時、これだけは忘れないでいて欲しいの。―――いいえ、その時こそ、これから伝える、私の心を思い出して欲しい】

 驚くほど必死に見えたのは、マリアの気が昂ぶっていたからなのか。

 【私は、あなたと過ごした時間を、人生においての珠玉だと思っている。決して、後悔なんかしてないのだという事を、――――幸せという名前以外ではこの時間を語る事が無いのだという真実を、絶対に忘れないで】

 【……マリア?】

 【素敵な時間を、本当にありがとう】

 最後に見せた微笑みは、僕が良く知るものに戻っていて、
 マシューに護られるようにして前へ進んで行くマリアの後姿を、僕はただ、ジッと見送るしか出来なかった。








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