小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
AGITATION


 次の日の朝。
 SHRが始まる時間になっても、やっぱり本宮君は姿を現さなかった。
 仕事が忙しいのかと思っていた昨日までとはあたしの考えも一変。

 マリアさんと一緒なのかな―――――。

 昨日の夜、"Stella"で仕事をしている内は結構平気だったけど、一晩眠って、やっと思考が現実に追いついたのか、
 心の隙をついて浮かび上がってくる昨日の残像が、授業中も不意に涙を滲ませてしまう。

 いったい、何人くらいの女の人が、本宮君の周りにはいるんだろう。
 その人達と、本宮君は……、

 考えが巡って一周すると、また、昨日のキスシーンを思い出す。

 涙の次はため息が出て、

 「……」

 お似合いだった二人。
 本宮君のクリーム色の髪と、マリアさんの輝くような金髪の髪が、一つに溶け合うように見えたあのキスシーン。

 マリアさんの腰にしっかりと廻された本宮君の腕、
 愛しそうな顔で、その額にキスをした本宮君の唇、

 そして、

 嘘でも、演技でも、

 先週までは、あたしも向けられていたあの眼差しが、凄く、恋しい……。、

 泣きたいくらい、恋しい……。


 『千愛理、もしかして僕に、欲情してる?』

 いつだったか、屋上で言われたその言葉を思い返す。


 「……」

 本宮君。

 あたし――――、

 あたし今なら、素直に頷ける。


 本宮君の言う通り、
 あたしがあの時に感じていた"本宮君の唇への関心"に、もし"欲情"という名前が付けられるのなら、
 あたしは今、間違いなく、

 本宮君の存在に、欲情してる――――――。

 怖いくらいに、本宮君を求めている……。


 ほんの少し前のあたしなら、全然分からなかったこの気持ち。
 想像すら、出来なかったあたし。
 恋は人を変えるというけれど、こんな短期間で、こんなにも変わってしまうんだ。

 ――――凄く、怖いと思うのは、

 やっぱりあたしが初心者だからなのかな……?


 あたしはただ、始めから、やり直したかった。
 正々堂々、本宮君に好きだと告白するところから始めて、そしてもし、本宮君に好きになってもらえたら、そこから一緒に進みたかった。
 例え振られたとしても、初めての恋に勇気を振り絞った自分の事を、ちゃんと褒めてあげられるように、本宮君に正面から挑めるようにリスタートしたかった。

 そんな気持ちで、

 『付き合っているフリを止めたい』

 本宮君にそう言ったけれど、それでもしばらくは、友達として、一緒にご飯を食べたり、おしゃべりしたり、

 ―――――今まで同じように出来るんだと、信じて、疑わなかった自分が恥ずかしい。



 そう。
 あたしは無意識に、自分が置かれていた"偽彼女"という立場に驕っていたんだ。
 契約が無くなれば、あたしは、今まで本宮君を遠巻きに見つめていた、他のクラスの女の子達と全く同じポジションなのに……。

 気づいてしまった自分の甘い考えに、悲しくなった。
 あたしの席の対角にある、今週はずっと空席のままの本宮君の席。
 そこに彼が居ない事が、今あたしが置かれている現状の、全ての答えを表している様な気がして、また心が沈んでしまう。


 ―――ダメ。

 だめだよ、千愛理。
 こんな情けないの、絶対に駄目―――――。


 『千愛理はどんな恋をするのかしら』


 「……」

 あたしは自分で選択して、今置かれている状況はその結果なんだから。
 もうここから、頑張っていくしかないんだから―――――。


 「健ちゃん、あたし、職員室に行ってくるね」

 お昼休みがあと15分位になった頃、
 あたしは、隣でスマホを操作さわっている健ちゃんに、空にしたお弁当箱を片づけながらそう告げた。

 「ん? 何か用事?」

 「うん。沙織先生にプリント取りに来るようにって言われてるから」

 「お前日直?」

 「うん」

 「一緒に行くよ」

 「いいよ。大した量じゃないと思うし、それに」

 あたしは言葉を切って、健ちゃんが操作してたスマホを見た。

 「今、"面白いトコ"なんでしょ?」

 くすっと笑いながらそう言ったあたしに、

 「あ〜、うん、まあ……」

 バツが悪そうに頭を掻く健ちゃん。

 「お前、―――大丈夫か?」

 その小さくした声音に、あたしはコクリと頷いて応える。

 「大丈夫だよ」

 「……そっか」

 「うん」

 ふと、健ちゃんが笑う。

 「頑張るよな、お前。俺、お前のそういうトコ、スゲェ好き」

 「――――うん。ありがと、健ちゃん」

 健ちゃんに好きと言われると、体中がホッとする。
 自然と、顔が綻んでしまう。



 小さい頃から友達の少なかったあたしを、いつもこうして肯定してくれた健ちゃん。
 あたしはそれだけで、例え健ちゃんとクラスが離れて、休み時間の度に教室で一人になったとしても、強く在る事が出来ていた。

 「けど無理はすんなよ」

 「うん」

 「おし。じゃあ、行って来い」

 「うん!」

 手を振って、早足で教室を出る。
 扉を過ぎる瞬間、やっぱり自然と本宮君の机が目に入って、

 「顔、――――見たいな」

 ―――――会いたいな。

 本宮君、今、何処にいるんだろう―――――。
 自分の気持ちを追い詰めてしまうそんな問いが、どうしても湧き上がってくる。

 きっと、

 "誰とも一緒じゃない"

 ……そんな希望めいたものが欲しいのかもしれない。

 誰が返すという答えじゃなくて、自分で自分を慰めているのかも。
 きっと誰とも一緒じゃないよ、って……、

 そんな事を考えながら、ふと、歩いていた廊下の窓から何気なく目に入ったその景色に、思わず足が止まった。


 ―――――え?


 見下ろした、部活舎の入口の横で、影が重なっているその二人。
 それは、沙織先生と、見間違える筈なんかない、クリーム色の髪の本宮君で、

 「……」

 来て……、たんだ。
 本宮君の手が、沙織先生の頬に触れた。

 「……ッ」

 そして、沙織先生と会ってたんだ……。

 「……あ」

 じわり、涙が溢れて来る。

 けれど、


 ここじゃダメ。
 ここで泣いちゃ駄目。
 あたしは頑張って、涙を呑んで、顔を上げた。

 まだ昼休み中で、すれ違う生徒が沢山いる。
 あたしが泣いてるのを見られたら、きっと本宮君をも巻き込んでしまう。

 「……ッ」


 唇をキュッと噛んだ。
 その痛みが、あたしの感じている心の痛みに、思ったよりも蓋をしてくれた。
 歩き出す。
 どんどん早足になる。

 もうちょっと、

 もうちょっと、

 屋上に行くための階段まで、やけに遠かったような気がして、


 早く、一人になれるところに―――――、

 そう思って階段を一歩、上りかけた時だった。



 「千愛理」

 あたしの名前を呼んだ鈴のような澄んだ声。

 「―――――」

 ゆっくりと、振り返る。


 ああ、

 ほんとに、

 どうして、このタイミングなんだろう。


 あたしは、出て来そうな嗚咽をどうにかグッと呑み込んで、深呼吸を一つ。
 それから何度か咳払いをして、声が出るかどうか心配しながら、その名を呼ぶ。

 「千早ちゃん……」

 消え入りそうな程の小さなあたしの声に、千早ちゃんは、愛らしい唇の両端を微かに上げた。

 「ごきげんよう、千愛理」

 「ごきげんよう、千早ちゃん。何か……急ぎの用事? そうじゃないなら、あたし今、」

 「パーティまであと一週間も無いけれど、本宮様はお誘いしたのかと思って」

 「え……?」

 「――――クリスマスパーティよ。もちろん、もう準備は出来ているのでしょう?」

 「あ……」


 すっかり忘れてた。
 お祖父ちゃん家のクリスマスパーティ……。


 「もしかして、忘れていたの?」

 「……」

 動けなくなってしまったあたしに、千早ちゃんが近づいて来る。

 「もちろん、パートナーは本宮様なのよね?」

 気圧すようなその強い眼差しに、今のあたしは立ち向かえる筈もなくて、

 「あの……」

 「本宮様よね?」

 念を押してくる千早ちゃんに、あたしは頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけてしまった。

 「ち、千早ちゃんはどうして、そんなにあたしのパートナーを気にしてるの? あたしが誰と一緒でも、関係ないんじゃ」

 「あ……、あたしは、千愛理の為に聞いてるのよ」

 「……え?」

 「本宮様なら花菱の親族だって納得するわ。でもあの、幼馴染の人は、」

 幼馴染って、

 「……健ちゃんだと、ダメなの?」

 「あ……当たり前じゃない」

 千早ちゃんの目が、あたしから逸らされる。

 「どうして……? どうして健ちゃんだとダメなの?」

 「――――そ、それは!」




 「パートナーはもちろん僕だよ」

 ―――――え?

 突然聞こえてきた、この数日、ずっと焦がれていた声……。



 うそ―――――、


 「……ッ」

 切なさで、胸が痛い程にぎゅっとなる。
 そして、嬉しいとときめく反面、さっきのシーンをまた思い出して、苦しさが募る。

 「――――も……とみ、や君……」

 あたしの傍へ優雅に歩いてきたのは、さっきまで沙織先生にキスをしていた本宮君で、

 「千愛理、おいで」

 そう言いながら、あたしの腕を引き寄せたその手は、さっきまで、沙織先生の頬に触っていた手。


 でも、

 それでも、


 「千愛理」

 「本宮く、」

 あたしを優しく見下ろしてくる、本宮君のヘーゼルの甘い瞳に、全部全部、知らない振りをしてしまおうと思ってしまう、弱くて狡いあたしが居る―――――。

 でも……、


 『素敵な恋をしてね』

 ママの声が、遠い記憶から蘇って来た。
 そうだよ。
 "愛人"が沢山いる筈の本宮君と、どうやって"素敵な恋"が出来るの?
 恋愛初心者のあたしにはきっと、手に負えない――――。
 今だって、こんなに崩れそうなのに……。



 ―――――でも、

 ―――――でも、



 ―――――でも、


 「千愛理」


 あたしはいつの間に――――――、
 こんなにも愚かに、この恋に溺れていたんだろう――――――。

 「本宮君……」

 会えなかったこの数日間、

 ずっと、ずっと、


 あたしは彼に、


 こうして名前を呼んで欲しかった――――――。








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