小説:クロムの蕾


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VIOLETISH BLUE
AGITATION


 マリアがホテルの部屋を出た後、僕は頭を冷やすようにシャワーを浴びた。
 濡れそぼった前髪の先からポタポタと雫が垂れるのを見ながら、これからどうすべきかを思案する。
 スマホで確認した時刻は11時。
 大輝に抑えてもらっている業務は、多分山のように積まれて僕を待っている筈。
 つまり、視点を変えると、暫く自由に動けない事を想定して、逆に自由に動けるのは今日だけだと言う事。

 『素直な気持ちで、目を閉じればきっと分かるわ』

 『あなたは、あの子が好きなのよ』

 『頭で考えている以上にね』


 マリアの言葉が、その思惑通りに僕の行動を支配しようとしている。
 千愛理が離れて行ったから、ただ恋しくなっただけだと。

 『無かった事にしたいの……。あたしと本宮君が付き合っているという話……』

 『嘘をついてたって事より、別れたって事にしてもいい? ――――それで、いい?』

 僕の念押しに躊躇いながらも、

 『―――うん』


 千愛理が選択して、僕の元を去っただけ。
 今までの女性達と、特に何も変わらない―――――。

 そう、考えていた。

 変わらない筈、―――――だった。


 『恋はタイミングだから』


 ――――あの男。
 白邦の制服を着て、千愛理の隣に座って居た、あの漆黒の髪の奴―――――。


 テーブルの下で、しっかりと千愛理の手を握っていた。
 千愛理もたぶん、握り返していた。
 千愛理の冷たい手が、僕の手の温度で溶かされていくあの感触を、あの男が味わっていたのかと思うと、

 凄く、――――――脳みそのどこかが、チリチリと痒みを持っている。
 対処しようの無い、僕の内側の鬱陶しさ。

 「……」

 マシューが用意してくれていた新しいスーツに袖を通し、寝室を出てリビングへと向かうと、僕の気配に気づいたウェインがソファから立ち上がった。

 「おはようございます、ルビ」

 「おはよう、ウェイン」

 言いながら、足を止めずにそのまま部屋を出るべくドアに向かう。
 そんな僕の後を戸惑いもせずに付いて来るウェインに、目尻から視線を投げてこれからの予定を告げた。

 「一度マンションに戻って学校に行く」

 「――――、……わかりました」

 齎された間は、多分何かを考えたんだろうけれど、深く追求せずに従うのがウェインの方針。
 特に質問を受けることなくマンションまで戻り、制服に着替えてから学園までの道のりは、いつも以上に無言が支配していた。
 普段より会話は無かったけれど、元々ウェインは余計なおしゃべりは少ない。
 気にもせず、車から降りようとした時だった。

 「ルビ」

 校舎を背景に、ドアを開けてくれていたウェインがポツリと口を開く。

 「何?」

 「余計な事かもしれませんが」

 「――――?」

 遠慮がちに何かを告げようとするウェインの顔に、僕は僅かに眉を顰めた。
 長年僕のボディガードを勤めるウェインは、いつも警戒心を怠らず、その表情は常に真顔の状態。
 平和な日本にきて、その頑なな態度にもある程度は緩和が見れていたけれど、こんな風に、口許が微かに緩み、それと正比例するような優しい眼差しを僕に向けてきた事なんて、これまでほとんど無かった。
 何を言い出すのだろうと、僕の方にこそ緊張が走ってしまう。

 「何……?」

 警戒しながら返した僕。
 けれど、不安を払拭するよう微笑みで、ウェインは言った。

 「今日のあなたは、不思議とケリに良く似ているような気がします」

 「――――え?」

 思わず、目を瞬かせる。
 容姿で、ケリに似ているなんて言われた事は一度も無い。


 今はもう乗り越えたけれど、ケリに愛される理由の大半を"あいつ"に似たこの姿だと思っていた僕は、何故ケリに似て生まれてこなかったのだろうと、遺伝子的なこの結果を、どれだけ切実に恨んで来たか……。
 そしてウェインは、僕がその事で自身を追い詰めていた事を、長年傍で見て知っている。
 そんな彼が、それを口にするという事、それはつまり、

 「良く、――――似ています」

 夜、部屋で一緒に食事をしながら寛いでいる時ならともかく、外にいる時にこんな顔をするのは本当に珍しくて、
 猶更、それが僕をアゲるための方便ではない事を実感する。

 「――――ありがとう、ウェイン」

 「お気をつけて」

 見送るウェインの口調は、いつもより優しい。
 その、見守るような視線を強く感じながら、僕は校舎へと足を向けた。
 一歩一歩が、心なしか逸っているような気がするその歩調。

 何が、そんなに変わったんだろう。
 昨日までの僕と、今日の僕と―――――。

 3年前の、今の僕を作り上げる切っ掛けとなったマリアとの事に一応の終焉が打てた事――――?

 それとも、


 「……」

 本当は、自分でも不思議だった。
 意識したわけでもないのに、不意に蘇ってくるその存在。
 柔らかな髪。
 白い肌。
 ふわりとした表情、可愛らしく見えるのに、時々凛として映る、その仕草。

 『本宮君』

 僕の名を呼ぶ声は、まるで甘えているように響くのに、
 それとは反した、自己主張を決して曲げない、可視できそうな程の、強い眼差し。

 そして、それを受け止めた時の僕の胸が、どうしてあんなにも痛く騒いだのか―――――。



 千愛理……。

 天城アキラと相対した夜、迷子になったように彷徨った僕の心を繋ぎとめてくれた、あの細い腕の強さが、

 僕の髪を撫でたあの指先の感触が、
 僕を包み込んだあの温もりが、

 まざまざと体中に蘇る……。


 それに呼応して震える、僕の心。
 これが、

 このフィーリングが―――――、


 「……」

 その心に、名前を付けようとした時だった。

 「本宮君」

 はっきりと呼ばれた僕の名前。
 足を止めて振り向くと、そこには見知った顔があった。
 カールされた髪の先が、手を振る仕草に僅かに揺れる。

 「―――沙織先生」

 「おはよう、―――には、ちょっと遅すぎるんじゃない?」

 腕時計を見ながら笑う表情は相変わらず綺麗で、薬指に光る指輪の輝きも同じ。
 その笑顔から察すると、ご主人のケイゴさんとはうまく行っているんだと思う。

 「しばらくは出校出来ないと連絡を貰っていたのに、今日はどうしたの?」

 「ちょっとね」

 「……」

 濁した僕に、沙織先生が何度か瞬きを見せた。
 あ、嫌な予感がする。

 「あら、あらあらあら?」

 悪戯っぽく細められる形の良い二重の目。

 (やっぱり……)

 内心ため息をついて、僕は口を開いた。

 「――――何?」

 冷静を努めて声を低くしたのに、沙織先生はますます表情を明るくする。


 「ふふ、そう」

 状況を肯定するように満足気に頷き、、

 「とうとう自覚したのね」

 ニッコリと笑う沙織先生。


 自覚……。

 「何、を……?」

 無駄な足掻きをしてみたけれど、

 「ふふ、敢えて口にして欲しい?」

 見透かしたような先生が楽しそうで仕方ない。

 「……先生は、解ってたって事?」

 確かに、最近の僕に一番近かったのは沙織先生で、けれど、本人が気づかない内に悟られてしまう程、僕が曝け出していたとは思えない。
 でも、それは僕が、僕自身をそう評価しているだけで……、

 「――――もしかして僕、判り易かったりする?」

 この際、潔く観念する事にした。
 沙織先生に、――――というよりも、マリアといい、これまで僕が時間を重ねてきた女性達といい、もしかすると、僕本人以上に、僕の事を知っているのかも知れない。
 全てを僕がリードしてきたという考えは、ここで完全にリセットする方が、今後の為に得策のような気がする。

 『あまり急いで大人になる必要なんか無いんですよ? あなたはまだ、15歳の少年なんですから』

 ロスに居た頃、ウェインにそんな言葉をかけられた事があったけれど、きっとウェインも、大人として気づいていたんだろう。

 どんなに経験が長けていても、
 テクニックで女性を翻弄して、何人"愛人"がいようとも、
 所詮僕はまだ子供で、だからこそ、女性達にエスコートする権利を与えられていたんだという事。


 つまり僕は、結果として彼女達を笑顔に出来たかもしれないけれど、それと同時に、彼女達に甘やかされてもいたんだ。

 「そうねぇ……、それはどうかしら。どちらかというと、普通の男の子よりは読み難いんじゃない?」

 「……」

 「でも、相手が本宮君じゃなくても、"見ていれば分かる"という事はあるわ」

 「――――え?」

 「"他人の目"じゃなくて、一度でも何かしらの愛を感じた後、"親愛の目"で相手を見続けていれば、きっと分かる」

 「……」

 「あなたは、きっとその年では考えられないくらい、素敵な人達に出会ってきた」


 僕が出会ってきた、たくさんの女性達――――。

 「あなたの事を見て、愛して、理解してくれる人に出会えてきたあなたは、とても幸せな人ね」


 ――――ああ、

 本当に僕は、―――――自分の心にさえ鈍感な、ただの子供だった。


 「―――沙織先生」

 沙織先生の腕を掴んで身体を引き寄せ、その頬に、ちゅ、とキスをする。
 沙織先生の目が、一瞬だけ驚いたように見開かれて、そして、優しく、笑みを広げた。

 「あなたは、もっと素敵なひとになるわね」

 「え?」

 「それも、たった一人の女性ひとの為に」

 肩を上げて悪戯っぽく笑った沙織先生の頬に、そっと指を添わせる。
 慣れ親しいんだ感触の筈なのに、以前のように満たされない心。
 もう、楽しいという理由だけでは、セックスをしようとは考えられない僕が居る。

 「――――ありがとう、沙織先生」

 考えずに、自然と口から零れた言葉。

 「どういたしまして。――――でも本宮君。こういう事は、恋人以外にはしちゃ駄目なのよ?」

 沙織先生は、僕の手を掴んでそっと下ろさせた。

 「……、――――そういうものなの?」

 「そういうものなの。――――想像してみなさい? 佐倉さんが、―――そうね、例えば」



 沙織先生の目が、女性特有の意地悪な光を宿す。

 「"あの南君"にこんな風にして頬を撫でられている、なんてところ」

 「!?」

 ……南?


 「―――――誰?」

 笑顔は、どうにか貼り付けていたけれど、沙織先生の楽しそうな表情を見ると、"僕を見て理解している"人にとっては、この内側の黒い感情はあからさまなのかも知れない。
 誰かが千愛理の頬に触れるなんて、僕自身、怖さを感じてしまうほどに、この不快感は強烈だった。

 「佐倉さんの幼馴染。今週からかなり久しぶりに登校してきてて、あなたが居ない間の、佐倉さんのガーディアン」

 Guardian?


 「―――黒髪の、奴?」

 「あら、会った事あるの?」

 「……」

 「お昼も、毎日一緒に食べているのよ?」

 見覚えのある、沙織先生の上目使い。
 セックスしてる時以外でも、威力があるんだと初めて知る。

 「――――挑発してる?」

 「育てる楽しみってあるのね。今物凄く実感中」

 うっとりと微笑む沙織先生は、僕の知らなかった一面。

 「……もう行くね」

 宣言して、返事を待たずに踵を返して歩き出す。
 風に乗った沙織先生の笑い声が、背後から微かに聞こえたような気がした。



 逸るような足取りで教室までの廊下を進む。
 そして、僕と千愛理が使っていた、屋上に上がるための階段の前に差し掛かろうとして、不意に耳に飛び込んできたその声に気がついた。


 「ち、千早ちゃんはどうして、そんなにあたしのパートナーを気にしてるの? あたしが誰と一緒でも、関係ないんじゃ」



 ―――― 千愛理?


 パートナー?
 興味をそそられる単語に、ピタリと足が止まる。

 顔を上げて見ると、相対している二人の女子生徒が視界に入った。
 一人は言わずとも知れた千愛理で、もう一人は、

 「あ……、あたしは、千愛理の為に聞いてるのよ」

 千愛理の又従姉妹だという花菱千早。

 「……え?」

 戸惑った千愛理の声は、明らかに震えていた。

 「本宮様なら花菱の親族だって納得するわ。でもあの、幼馴染の人は、」


 幼馴染――――?


 「……健ちゃんだと、ダメなの?」

 「あ……当たり前じゃない」


 何故か、狼狽える千早。

 ……、

 『昔は、仲良かったの』

 千愛理の言葉を思い出した。
 そんな彼女が、何故急に、高等部に千愛理が入って来た途端、嫌がらせをするようになったのか……。


 「どうして……? どうして健ちゃんだとダメなの?」

 「――――そ、それは!」


 千早の焦ったような顔に、
 なるほど、と全てを理解する。



 「……パートナーはもちろん僕だよ」

 突然横槍を入れた僕に、千愛理と千早の二人が、驚いたように固まった。


 「――――も……とみ、や君……」

 千愛理の愛らしい唇が、僕の名前を綴る。



 ああ、

 マリア。


 ――――――本当だね。

 『素直な気持ちで、あの子を見れば、きっと分かるわ』

 その言葉の意味が、ストンと僕の胸に落ちた。



 Beloved……。

 愛しい……。

 目の前で、潤んだ瞳で僕を見つめて、震えているこの少女が。

 佐倉千愛理という、この存在が―――――。



 千愛理の傍に歩み寄り、僕はその細い腕を掴んだ。
 驚いたように身を躊躇させたのは一瞬で、

 「千愛理、おいで」

 されるがまま、僕の身体にトンと身を預けてきた千愛理が、縋るように、僕を見上げて来る。


 ――――参った。


 「千愛理……」

 ここが学校じゃなかったら、

 ――――違う。

 他に誰も居なかったら、奪うように、千愛理の全てを、僕の内側に閉じ込めたい。


 「本宮君……」

 千愛理の声が、震えていて、


 「千愛理」

 僕の声も、少し掠れた。


 痺れのように、想いが湧き上がってくる。
 これは、何処からきたのか。
 こんな感情が、僕のどこに隠されていたのか。

 「千愛理」

 制御が効かず、衝動的に千愛理の細い身体を抱き締めると、

 「ぁ、……本宮君……ッ」

 千愛理の腕が僕の背中に廻って、コートをギュッと掴んできた。


 (やばい……)

 自分に、そんな危機感を思うのは初めてだった。

 柔らかな千愛理の髪を拳の中に強く握って、自制を促す。
 ふと、千愛理の頭の上に顎をおいたまま目線を上げると、千早が顔を真っ赤にして抱き合った僕達を見つめていた。

 「……最近は、仕事が忙しくてなかなか会えなかったから、寂しい思いをさせたみたいだ」

 クスリと笑って見せる。

 「パーティの件は大丈夫。ちゃんと僕がエスコートするから」

 言い紡いだ僕に、ハッとした様子で小刻みに頷く千早。

 「……それなら、いいの」

 「うん。千愛理の事は僕に任せてくれていいよ。だから、――――君も素直になったら?」

 「!」

 花菱千早の、その動揺した姿が、僕の想定が間違いじゃない事を、ありありと知らせていた。








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