小説:クロムの蕾


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PINKISH
BE DYED


 花菱千早をやり過ごし、屋上への階段を上る途中、すれ違う女子生徒に何か言いたげな表情をしながら、それでも黙って僕に肩を抱かれている千愛理は、明らかに怯えている様子で、

 (――――ふうん? 僕の機嫌が悪いって、分かるんだ)

 けれど、"何故"不機嫌なのか、その理由までは見当がついていないらしい。

 まあ、当然といえば当然。

 僕自身、この想いを自覚する前と後で、こんなに思考が変わるなんて思ってもいなくて、なのに、千愛理がそれを理解していたのだとしたら、僕はまったく立つ瀬が無い。
 千早とのやり取りから推察すると、パーティの話は以前からあった筈で、
 それなのに、仮とはいえ、彼氏という立場だった僕には何も言わずに、久しぶりに会った幼馴染には頼めるんだと、
 レストランで見た、テーブルの下で握り合っていた二人の手を思い出して、これまでに感じた事がない、強くて黒い欲望が僕の中に渦巻いている。

 さっきまで腕に中に閉じ込めていた千愛理の感触を思い出した。


 ほんとに、


 "どうにか"しちゃいたいんだけど……。


 「あの……」

 そんな、腹黒い考えを巡らせる僕とは全く対極にいるらしい千愛理は、一歩一歩壁に追い詰められながら、赤くなったり青くなったり、くるくると表情を変えている。

 「……」


 ――――――へえ?


 ある事に気づいた僕は、思わず口元に笑みを溜めた。


 『"他人の目"じゃなくて、"親愛の目"で見れば分かるわ』

 沙織先生がさっき言っていた言葉の意味が、良く分かる。

 「千愛理……」


 君は、いつからそんな目で僕を見てたの――――?

 高揚してくる僕の甘い感情に、クスリと笑いが零れた。
 千愛理と過ごした時間を思い返して、

 ――――ああ、そうか……。

 あれは確か、僕が初めて、今なら千愛理を抱けると認識した時。
 千愛理が、僕への欲情を覗かせた時―――――。

 『もしかして、僕に欲情してる?』

 そんな僕の問いに、顔を真っ赤にして目を潤ませた千愛理は、その頃にはきっともう、今と同じ恋情を燈していたんだ。
 千愛理への気持ちに自覚が無く、まだ"他人の目"だった僕には、見ていてそれが分からなかった。

 存外、鈍い男だったんだ、僕は。
 勿体無いこと、したかな――――。


 「―――千愛理」

 僕に、体ごと壁に貼り付けられた千愛理の白い肌が、一呼吸毎に桃色に燃えていく。

 「お願、離し……」

 消え入りそうなほどの千愛理の声。

 「――――ダメ、逃がさないよ?」

 わざと耳元で囁けば、ビクリと千愛理の体が震えた。
 キスをしたい衝動を誤魔化すように、千愛理の耳元に音を立てて唇を寄せる。

 素肌の香り……。
 髪から微かに香るのは、恐らくシャンプーの甘さ。

 「……僕の事、好きだよね? 千愛理」

 「……ッ」

 泣きそうな顔で、千愛理が僕を見上げてきた。

 「好きでしょ?」

 肩で息をし始めた千愛理に、見ている僕も苦しくなってくる。
 迷っているみたいだった。
 それを告げるか、告げまいか―――――。

 なら――――、



 「――――好き」

 僕が口にすると、千愛理が驚いたように目を見開いた。


 ――――でも、ご褒美はまだ先―――。

 「言って?」

 直ぐにその言葉を足すと、勘違いをしていたんだと、僕の思惑通りに羞恥に身を捩る千愛理が、また僕の支配欲を刺激する。

 「――――言って? 千愛理」

 そして、総てにおいて、優先して僕を求めてきたら、答えてあげる。

 「…………き」

 涙で溢れる瞳を向けて、千愛理が直向に僕を見た。
 その瞬間、これから紡がれる言葉を想定して、僕の中に、果てしない喜悦が満ちる。

 「……聞こえない」

 意地悪く、そう促すと、

 「――――好き」

 耳を擽る、甘い言葉。


 いい子。
 そう言って額にキスを落とせば、

 「――――好き」

 まるで自分の存在をかけるようにその言葉を搾り出す千愛理に、愛しさが際限なく溢れてくるようだった。

 「ふ……、もう一回」

 千愛理の髪に、優しく触れる。

 「好き」

 絡めた指に、力を込める。

 「もっと」

 「好き……、好き!」

 「うん」

 「好きなの、好き」

 千愛理の目から、言葉と同じくらいにぽろぽろと涙が零れてきた。

 「本宮君が、……!」


 その姿が、あまりにも可愛くて、

 愛しすぎて、



 ああ、

 ――――もうダメだ。

 心に迸る熱を制御出来ずに、気が付くと、まるでぶつかるように、涙で濡れた千愛理の唇に、僕の唇を押し付けていた。
 それは一瞬で離れたけれど、重なった事の証のように、微かな塩味が僕の口に広がる。

 それから、

 恍惚とした雰囲気の中、


 幾つかの言葉と、

 幾つかの視線を交わした後―――――、


 「千愛理……」

 わざと開かせた唇を、

 「あ……」

 奪うように啄ばんだ。

 ちゅ、ちゅ、と。

 立てる音が、どこかの神経を刺激して仕方ない。

 始めの内は、挟むだけのつもりで、唇の裏から吸い取れる水気だけ味わえればいいと思っただけだったのに、

 凄い――――。


 これまで僕が交わしてきたキスが、どれだけ"頭"でしてきたものか、良く分かる。
 歯列に触れたら、その先を味わいたくなって、
 舌を絡めたらその奥まで味わいたくなって、

 「ぁ、……ッ」

 このキスは、次はどうしようなんて、考えている暇が無い。
 体が、欲が、勝手に突き進んでいってしまう―――――。

 「ふ、……ぁ、ッ」

 「千愛理」

 ただ僕にされるがままに、必死にしがみ付いてくる千愛理の体を強く抱きしめた。

 「……んぅ」

 慣れていない事は明らかなのに、思いやる事が出来ない。
 僕の理性が、千愛理を気遣ってストップをかけているような気がしたけれど、

 「千愛理……」

 息を整えようと離れる度に、鼻先が触れそうなほど近くで見る、僕への恋情に泣く千愛理は可愛くて、

 「も……とみや、く、ぁ」

 呼吸を求めて逃げようとする千愛理の後頭部を、しっかりと掴まえて、また唇を合わせる。


 甘い――――、

 甘くて、

 千愛理の奏でる声は、僕の官能をどこまでも刺激する。

 「あ、……だめ、本宮く、ぁ」

 求めるまま、

 求めるままに―――――、



 Pilululululu、Pilululululu、


 「「!」」

 僕達の身体が、同時にビクリと震えた。

 大きく鳴り響く、デフォルトのままの着信音。


 僕のコートのポケットで、スマホが激しく震えていた。
 火照った体を冷ますように、冬の風が屋上を駆け抜けていく。

 「……」

 我に返った僕の目に映る千愛理は、もう息も絶え絶えの状態で、肩で息をしながら、今まさに、僕が唇を這わせていた首筋を手で押えて震えている。
 その目には怒りはないけれど、戸惑いは十分に見て取れた。

 いつの間に……、

 気づけば、僕の息も弾んでいて、無意識に、キスから次の段階に進んでいたらしい僕の本能。
 千愛理のブレザーの下のシャツのリボンは外されて、第二ボタンまで開いていた。

 こんなに、行為に夢中になるなんて……。

 この前、屋上で不意にキスをしようとした時もそうだった。
 千愛理が相手だと、怖いくらいに現実を失ってしまう―――――。

 「――――ごめん」

 咄嗟に出た言葉はそれで、
 指の背で、千愛理の火照った頬を撫でると、一瞬、微動して固まったその反応に、思わず胸が痛くなった。

 「あの……本宮君……?」

 ゆっくりと僕の機嫌を窺うように顔を上げて来た千愛理の睫毛は、涙でしっとりと濡れていて、こんなに余裕無く追い詰めてしまう自分自身が、本当に信じられない……。

 やっぱり、いつか察した勘は正しかった。
 千愛理と居る時の僕は、僕が知らない、僕になる……。

 「――――僕が怖くなった?」

 その問いに、千愛理は健気に首を振った。

 「――――死んじゃうかと思った……」

 頬をピンク色に染めて、千愛理が俯く。

 「え……?」

 予想外の答えに、戸惑いを隠せない。

 「死んじゃうって……息が出来なくて?」

 曖昧に笑った僕に、千愛理はまた、首を振る。

 「ドキドキし過ぎて、心臓が爆発しちゃうかと思ったの……」

 「……」

 「へ……、変でしょ?」

 「――――千愛理」

 改めて、そっと千愛理を抱き締めた。
 今度は、優しく、包むように、全身で千愛理を温める。

 「変じゃない」

 「――――え?」

 それどころか、

 ……、



 不味い……。

 怖いのは、僕の方かも知れない。
 初めて手繰り寄せたこの恋に、線の引き方が判らなくて、混乱してる――――――。


 「千愛理、――――僕は……」


 潔く、胸の内を全て晒そうと思った時だった。


 Pilululululu、Pilululululu、

 一時、鳴りを潜めていたスマホが、静寂をかき乱すような音と共に、再び振動し始める。

 「……出て、いいよ? お仕事かもしれないし」

 笑って言った千愛理に、僕は一瞬考えて、無言のままコートを脱いだ。

 「え?」

 首を僅かに傾げた千愛理の肩に、ふわりと掛けてやる。

 「あ、……ありがとう」

 そして、ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出し、

 「待ってて」

 僕の言葉にコクリと頷いた千愛理を尻目に、ディスプレイに表示されている名前を確認した。


 ――――大輝。


 【―――もしもし?】

 『―――ルビ? なぜ英語?』

 【今プライベート中】

 僕がその言葉を使うのは、女性と一緒に居る時の符牒。

 『――――可愛いね。仕事は嫌だと、駄々を捏ねるのを聴かれたくないって事? もしかして、まだメアリー・ウィンストン嬢と一緒? ……って事はないか……。彼女こそ英語圏の人だ』

 さらりと、マリアの名前が出て驚いた。

 【……ふうん、もう調べ上げたんだ】


 つまり――――、3年前に僕が探し求めていた人がマリアだという事も、大輝は既に解ってる。

 『僕が調べた事と、君が転送してきたエージェントからの情報を統合した結果分だけはね』

 【―――調査を依頼して、結果が来る前に本人が現れたんだ】

 『……報告書には目を通した?』

 【否。僕はただ、マリアが誰か、――――あの気持ちが何だったのか、その理由が知りたかっただけだから】

 『そう。――――その様子だと、答えは得られたんだね』

 【……大輝、どうしたの? 僕がどんな女性と一緒にいて、どれだけSEXに溺れていようと、今までは何も言わなかったのに】

 『お相手がメアリー・ウィンストン嬢なら話は別だよ。―――――彼女が結婚する事は?』

 【聞いてる。その前のアバンチュールを楽しみたいって僕に会いに来たんだ。ずっと探していた人だし、断る理由も無かったから四日間付き合った】

 『……彼女は、オランダ王室所縁の家に嫁ぐ人だよ』

 オランダ王室所縁の家……。
 マリアのお祖母様がそこの出身だから、話が有っても不思議はない、――――か……。


 【――――驚いた。"本当に"かごの鳥になるんだね】

 『さすがに、一国家が相手となると、本宮グループで玉砕覚悟の体当たりをしても、生き残る事は無理だからね。それでも君がメアリー嬢を欲しいと言うのなら、僕達は総意で以て、一矢くらいは報いたいけど』

 大輝の言葉は、強ち冗談とも取れなくて、

 【……マリア、――――メアリーは今朝日本を発ったよ】

 僕の言葉に、大輝が笑う。

 『安心した。未練は無い?』

 【無いよ。――――まあ、心残りが無いとは言えない、かな】

 最後のマリアの様子が、少しだけ気にかかる。
 今思い返すと、僕に、何か伝えたい事を含んでるような気がしてならない。

 【もしかしたら、彼女が求めていたのは、セックスだけじゃなかったのかも知れない】

 『……』

 ふと、千愛理の事を思い出して振り返る。
 少し俯き加減で、僕のコートにすっぽりと包まれた彼女は、僕の視線に気づくと、ふわりと微笑んだ。

 通話時間を見ると3分弱。

 『―――――で、さっそく別の女性とデート中なのかい?』

 聞こえてきた大輝の声。
 その言葉には、いつだって揶揄を孕んではいるけれど、一回り以上離れた僕に対して、大学の頃から常に同等に、人として、男として、隔たり無く接してくれた数少ない存在。

 【うん】

 僕は、僕の中に湧き続ける気持ちの意味を、長年の親友とも呼べる大輝に伝えたくて、

 【僕のスペシャル。近いうちに紹介する】

 『――――え?』

 大輝にしては珍しく、声がオクターブ上がるほどの動揺振りで、僕は思わず笑ってしまった。

 【驚いた?】

 『……それはもう』

 けれど、言葉の後に吐き出された息は、少し安堵を含むものに聞こえて、

 『でも、その報告は嬉しいよ。君と出会ってから、一番かな』



 僕に対する、僕が知らない懸念が、きっと大輝にもあったんだろう。
 女性達に甘やかされてきたように、こうして、大輝やルネにも、僕が思っている以上に、見守られていたんだと知る。

 【これからは、公式の場所に同伴パートナーが必要な時は、全て彼女を連れて行く】

 僕の宣言に、大輝は満足気に肯定した。

 『わかりました。――――ケリには?』

 【……まだ】

 『――――僕が先だったのは光栄だけど、ケリに妬かれるのは堪らないな。早く伝えてあげて。きっと喜ぶよ』

 【そうする。じゃあ、待たせてるから】

 『了解。――――あ、そうだ、ルビ、業務連絡。14時からのWeb会議には必ずログオンして』

 僅かに、口調を変えた大輝。

 【……何かあった?】

 『本宮の商社が持ってる輸入ルートの途中で、未明に内戦が勃発した。数日中に自国だけで解決できればいいけど、長引けばアメリカと日本で対応策が変わる筈だから、両国を跨って資本を分岐している本宮の方針はマニュアル化しておく必要がある。それと、代替品と代替ルートの採決。資料は送信済みだから』

 【わかった。直ぐに戻って情報を確認する】

 『それじゃ』

 通話が切れると、風の音だけが響く静寂が僕を覆う。
 その静けさの中、振り返って求めたのは千愛理の存在で、

 「千愛理」

 歩み寄った僕は、再び両腕に千愛理を抱き締めた。
 途端、僕の中の何かが、ホッと胸を撫で下ろしたような感覚になる。
 コートを着ていても冷たくなっている千愛理の手に指を絡めて、

 「一人にしてごめん」

 言いながら、こめかみにキスを落とした。

 「あ、あの……、本宮君」

 やっぱり戸惑った様子が窺える千愛理の所作。
 確かに、自分でも驚くほどの豹変ぶりだから、それを向けられる当事者の千愛理は、一体何が起こっているのか、きっと現状に追いついていない。

 僕もまだ、肝心な事は敢えて言葉にしていないし―――――。



 「……パーティはいつ?」

 「あ、24日。招待状、まだちゃんと見てなくて、時間は……」

 「ドレスは? もう準備した?」

 まさか、そのケンちゃんとやらと選んだりしてないよね?

 腕の中に閉じ込めたまま、覗き込むように問いかけると、千愛理は顔を赤くして首を振った。

 「あたし、パーティの事、さっき千早ちゃんに言われるまですっかり忘れてて……」

 「――――え?」

 ……じゃあ、幼馴染はまだ誘ってない……?

 早合点で、有り得ないほどの嫉妬に塗れていた自分自身を嘲笑する。

 「ドレスは僕にプレゼントさせて」

 「――――え?」

 「靴も、アクセサリーも、千愛理を包むものは、僕が全て用意する」

 「あの」

 また無粋な事を言い出しそうな千愛理の唇に、僕は人差し指をグッとあてた。

 「これ以上何か言うと、また"する"よ?」

 「……ッ」

 時間差で意味が分かったみたいで、千愛理の顔がまた赤くなった。

 「千愛理」

 両腕で、千愛理の細い腰を抱きながら、耳元で囁く。


 「なるべく自制して、壊さないように努力はするけど―――――」


 でも、僕にとって、これは初めての恋だから、どんな風に僕が変わるかなんて、予測なんかできる筈もない。

 だから、

 「頑張って、ついてきてね―――――?」


 眼差しを落とした僕に、困ったような顔をしながらも、千愛理は小さく頷いた。








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