午後の授業に戻って行った千愛理の後姿を見送って数分経ったのに、さっきまで抱き締めていた千愛理の身体の線が、まだ腕の中に残っているようだった。 千愛理に羽織らせていたコートを着ると、彼女を思い出させるフローラルの香りが僕の鼻孔を擽る。 セックスの余韻とは違う、体じゃなくて、心が焼けるようなこの感じ。 物足りなさは感じるけれど、 それは不満ではなく、 先に楽しみを取っておいたという歓びの方が勝っている。 「―――――あ」 ふと思い出して、僕はスマホを取り出した。 発信先は、"Stella"日本支店の専属鑑定士。 「――――照井さん?」 『社長、珍しい時間ですね。でもちょうど良かった。これからメールしようかと思っていたんです。ついさっき工房から連絡が来て、アレキサンドライト、もう納品可能だそうですよ』 「そうなの? じゃあ桝井さんに渡して、僕のマンションに届けてくれるように伝えてくれる?」 『わかりました。――――あの、すみません、こちらの要件が先になってしまって。何かご用でしたよね?』 「うん。実は、――――照井さんと、工房にちょっと無理強いを、ね?」 『―――――え?』 幾つかの要件を伝えて、相変わらず小気味よく了承してくれた照井さんに満足しつつ、スマホをコートのポケットに入れる。 子供の頃、ランチョパロスバーデスの屋敷で、メイド達に悪戯を思いついた時に感じていた純粋な高揚感。 「ふふ」 湧き上がってくる感情を口許に携えて、手摺を背後に凭れた時、 「!」 突如察知した人の気配。 今の今まで、まったく気づかなかった。 ゆっくりと、動いた影を追って目線を上げる。 「―――――!」 さっきまで、僕が千愛理を押し付けていた給水タンクの管理室の上に、白邦の制服を着た男のシルエット。 「君は……」 耳を隠すまでに伸びた漆黒の髪。 人受けの良さそうな甘いマスクに煌めく黒い双眸が僕をジッと見下ろしている。 薄い唇は、楽しそうに両端を上げていて、 「悪い、驚かせた?」 ――――千愛理の幼馴染は、そう言いながら、身軽に僕の目前に飛び下りてきた。 手にはスマホを握ったまま。 「……」 一体、 「――――いつから、……なんてのは愚問だね」 言いながら、僕は笑って見せる。 後から来たのはきっと僕達の方だろうから。 けれど、笑顔と共に、無意識のうちに挑発的な視線を送っていたらしい。 僕に近づいてきながら、困ったような顔をする彼がその証。 「そんな顔するなって。俺、千愛理の味方ではあるけどさ、お前のライバルではないよ?」 「……」 「ってか、ヨリ、戻すんだ?」 「……」 「それにしても、千愛理がああしてちゃんと女の声出せるんだもんな」 「!」 「あ、やっと反応した」 愉しそうに肩を揺らして笑っている。 何―――――? こいつ。 馴れ馴れしいというか、――――妙に人懐こい……。 「俺の事、あいつからなんて聞いてる?」 僕の隣に並んで、手摺に片肘をつきながら、僕の顔を覗き込むようにして尋ねてきた。 「――――幼馴染」 「それから?」 「――――元カレ」 「……、そっか」 少し安心したような微笑みを見せたこいつに、不思議な共感を覚えた。 『千愛理の味方ではあるけど、お前のライバルではない』 その言葉の意味が、何となく分かる。 「それから―――――」 いったん静まった会話に、僕は、敢えてそれを追加した。 「―――――ファーストキスの相手」 「げ」 途端、目を丸くするそいつ。 ――――確か、南、だったっけ? 見極めるように見つめ続けている僕に、南は、困ったように頭を掻いた。 「あいつ、それも言ったんだ。カウントしなくてもいいって言ったのに」 「……」 「あいつさぁ、小学ン時から友達少ないんだよ」 突然変わったように聞こえる話題に、僕は僅かに眉を顰めた。 すると、南は手に持っていたスマホをスラックスのポケットに入れて、 「俺のせいだったりするんだわ」 少し後悔が垣間見える表情で、肩を上げる。 「―――――どういう意味?」 「ん〜、女子のやっかみ? 俺と幼馴染だから標的にされたらしい。女子って表面上の顔がスゲェうまくてさ、報道されるイジメみたいに生傷が出来る訳じゃないし、俺の前では普通に話してたりしてたし。けどよくよく考えると、その会話って俺が入ってる時ばっかでさ……。でもあの頃は、まだガキだったし、卒業する直前まで、実はあいつが女子から完全にハブにされてた事、全然気づかなくて、だから、中学はわざと千愛理と別にして、 そういう事か。 確かに、さっき理解したばかりだけど、なぜ花菱千早が、突然千愛理に意地悪を始めたか、その理由もこいつに間違い無い。 この学園で一緒に居るのを見て、二人が初めて幼馴染だと知り、もしかしたら元カレだとも知って、千愛理が憎らしくなった……? でも、千早にとって千愛理も幼馴染。 だから、あんな風に中途半端な行為になる。 『君も、素直になれば?』 そう言った僕に、戸惑った後、頬を真っ赤に染めた千早は、やっぱり千愛理の又従姉妹だと思った。 花菱の家名のせいもあってか、高飛車な態度を努めているみたいだけど、きっと普段の彼女は、千愛理と似ているような気がする。 「千愛理が通ってた公立の中学では友達も出来て、昔と違って心から楽しそうに笑うあいつを見てたら、可愛くて、凄く好きだって思って、俺から告白して、千愛理も、多分何となく頷いて」 バツが悪そうな顔で、南は苦笑した。 「今思えば、多分独占欲? そういうのが出ちゃったのかもな」 ここまで言えば、何となく読めるでしょ? 目線が僕にそう語っている。 「初めてそういう雰囲気になって、唇合わせた時、お互いに『―――あれ?』って顔したの、今でもはっきり思い出せんの。千愛理に、幼馴染に戻りたいって言われたのは、その次の日だった」 「!」 僕は、思わず反応する。 「―――――千愛理から?」 "また"、千愛理から。 『無かった、事にしたいの。あたしと本宮君が付き合っているっていう話』 揺るがない、千愛理の意志を宿した瞳が、過去から僕を可視光線で制御する。 「あいつさ、小学校の時のトラウマなのか、その場の雰囲気を崩さないようにって流される事、時々あるんだよね。俺の時はまさにそれ」 「……」 「でも、自分の考えをまとめた後のあいつって、スゲェ怖いよ?」 「……知ってる」 「――――ん?」 「先週、別れ話を言い出したのは千愛理だから」 「――――へぇ?」 南がニヤリと笑った。 「そこから覆したんだ。ヤルじゃん」 言いながら、握った拳を軽く僕の方にぶつけてくる。 「……」 「だからさ、さっきのシーン見てスゲェ安心した」 「――――え?」 「千愛理もそうだけど、本宮も、―――――ちゃんと本気だろ?」 「……」 ここで冒頭に戻るのか。 「だからさ」 ふと、声のトーンを変えた南。 「本宮がさっき電話でしてた会話」 「?」 「俺は分かったけど、千愛理は多分解ってないかもよ?」 「――――何のこと?」 不思議だ。 会話の内容も気になるところだけど、それと同じくらい、僕の中にはこの南という男に興味が湧いている。 ルネや大輝と出会った時に感じたものに、少し似ているような気がした。 「"マリアが求めていたのは、セックスだけじゃないのかもしれない"」 「!」 南が言ったのは、僕が大輝に向けて放ったセリフ。 しかも、結構な早口を努めた、英語の――――――、 「"僕の『特別』。近いうちに紹介する"」 「……どういうつもり?」 「まんま」 「?」 「これだけ聞くと、マリアが特別な存在って聞こえない?」 その謎かけの意味を、少し考えて、 「……、!?」 思い当たったそれに、僕は目を見開いた。 南が、また肩を上げて笑う。 「ご明察。――――千愛理、小5の途中で転校してくるまでは、ニューヨークにいたんだ。だからあいつ、英語出来るよ?」 「……」 思わず、深いため息をつく。 だから、電話の後の千愛理は戸惑っているように見えたんだ。 で、あれだけ想いを込めたキスをする僕に対して、自分が浮気相手だと、千愛理は"それ"を呑み込んだって事? ―――――ふうん? 「あ〜、本宮、その笑顔、綺麗なのに黒すぎて怖いんですけど」 「―――そう?」 指摘に平然と応えた僕に、南はくく、と笑る。 「千愛理に直ぐ説明してやんないの?」 「冗談でしょ。これから仕事もあるし、結構忙しいんだよね、僕」 それに―――――、 「"いつか"対処はするから、南君は心配しなくていいよ」 「くく、分かった。俺からは"何も"フォローしない」 愉快そうに笑い続ける南は、僕の考えている事が分かったんだと思う。 ――――そう。 直ぐに千愛理の苦悩を解消してあげないのは、 これは罰だよ、千愛理。 僕のこの想いを、 この気持ちを、 場所を忘れてしまう程に夢中になったあのキスから、 君を見つめるこの眼差しから、 感じ取ることが出来なかった、君への罰―――――。 僕が全てを伝えるまで、 僕の事を考えて、 僕の事で泣いて、 そして再確認するといいよ。 自分が、どれだけ僕を好きか―――――。 その時、千愛理が出した結論によっては、もっと別の罰を考えないとね……。 そんな事を企む僕の前に、 「んじゃあ、改めまして」 言いながら、南が右手を差し出してきた。 ―――――え? 呆気に取られ、その指先をジッと見つめたまま停止してしまった僕。 気づいた時にはもう何秒か経っていて、 「ん」 そんな僕を促すように南が短くそう合図して、出したままだった手を、更に僕へと伸ばしてくる。 「俺、健斗。南健斗ね。あ、ルビって呼んでいい? 俺も健斗でいいからさ」 「……ふ」 僕は、思わず笑いを零した。 藤倉といい、彼といい、千愛理の周りにいる人間は、どうしてこうも―――――、 「フェアなのは、千愛理だけじゃない、か」 以前に会話した時の、藤倉の言葉を借りるなら、きっとこういう事。 「え?」 今度は南が、―――――ケントが目を瞬かせる番で、 「―――――否。……よろしく、ケント」 右手を出し、応えた僕に、ケントは嬉しそうに頷いた。 「おう、こちらこそな」 僕の手を更に握り返してくるケントの力の、好ましいその強さに、僕の世界に、また新しい扉が開いた頼もしさを感じていた。 |