小説:クロムの蕾


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PINKISH
BE DYED


 「死にそう」

 企画書に目を通しながら、思わず零れた言葉。
 そのたった四文字の言葉を紡ぐ間にも、チャット履歴やグループワークのホームページに、次から次へと業務が溜まる。

 『イヴに時間を取りたいと言ったのは君だよ、ルビ』

 Web会議室の向こうから、カメラに映る大輝が厳しい目で僕を見返していた。
 直系5cmにも満たないその映像を通して届く圧力から逃げられない。
 屋上で暫く健斗と話し、ウェインが迎えに来たタイミングで別れてから、参加するように言われていた午後の重要会議の後、しれっとパーティの日の休暇を申請した僕を、これから48時間拘束する宣言をした大輝。

 『せめて、ルネがこのWeb会議室に参戦してくる明日までには、いま受信している決済内容には全て可否をつけて』

 「……」

 『君に本気の女性が出来た事は喜ばしいけれどね』

 オニキスの瞳が、キラリと光を宿す。

 『この数日間、決済率が落ちているという状況で、休暇を取る為にその遅延を取り戻せなかったなんて報告がヘッドクォーターに上がったら、それは君の評価じゃなく、ましてや僕の評価でもない。その君のスペシャルに向けられる評価だという事は今後忘れない方がいい。この1週間でまさか二人の女性に翻弄されているなんて、いくら僕でも、それを聞こえ良くする説明は出来ないよ?』

 確かに。

 マリアの為に放棄した数日と、千愛理の為に作るクリスマス休暇。
 事情を知らない人から見れば、それは全てひっくるめて、現状に一緒に居る人に影響を受けていると考える訳で、

 『君が選んだ女性に文句を言うブレーンは居ないだろうし、むしろ、君が本気の相手を見つけた事に対してだけなら、みんな大手を振って喜びそうだけど、でも、評価というものは、知らず知らずに誰もが無意識で出しているモノ。そんな事で彼女に余計なプレッシャーを与えたくはないよね? まあ、君の選んだ人が、そういう雰囲気を感じ取れない鈍感な人なら、どんな評価を裏で囁かれようとも、問題は無いと思うけれど』

 「……」

 反論や、逆らう気もおきない弁論。
 弁護士だからという事じゃないんだと思う。
 大輝の、全てを見通して計算し尽くそうとする正論が、解っているだけにチクチクと思考の何かに刺さる。


 「……初めて、ルネの気持ちが理解できた気がする」

 頬杖をついてため息をつくと、カメラの向こうの大輝が、ガラリと雰囲気を変えて、目を細めた。

 『ルビ。君は、本当に恋をしたんだね』

 「……え?」

 今更……?

 『僕の言葉はいつだって心情の微かな逆なでを意識しているんだ。相手の本音を引き出すための僕の基本の手法。だから、今日だけ特別に話方の仕様を変えたわけじゃない。今までの君なら、想定しない他人の気持ちを机上に並べた僕の話なんて歯牙にもかけなかった。それで何故ルネが怒るのかも、理解出来なかっただろう? でも、今の話を、君は彼女が傷つく可能性を想定して受け止め、そして、それを紡いだ僕に対して不快を感じた。今までの君とは明らかに違う反応だよ』

 「……」

 『そこまで君の内側に存在したのは、ケリや、屋敷にいるスタッフ、そして創業当時からの付き合いをしている、R・Cの社員達くらいだった』

 「――――そんなに変わる?」

 『些細な事だけどね。いつも君を見てきた人なら、きっと気づくよ』

 「……」

 『さ、おしゃべりはここまで。7分ロスした』

 「……、」

 僕が小さくため息をついて、マウスの操作を再開すると、それまで、僕の視界の端でソファに座ったまま無言だったウェインが、ふと笑いを漏らす。

 「ウェイン?」

 不機嫌を隠さずに呼びかけると、ウェインは慌てて咳払いをした。

 「いえ、すみません。――――ああ、コーヒーでも」

 僕の顔も見ずに、軽く手を上げて立ち上がろうとした時だ。
 不意に鳴り出したウェインの携帯電話。
 ウェインは、それを手に取り、相手を確認した瞬間、僅かに目を見開いた。



 「……」

 チラリと、僕の存在を気にする目線の動きで、その電話の相手がウェインの本来の雇用主である"あいつ"、ケヴィン・モーリスだという事を知らせてくる。


 「―――――出たら?」

 色々と複雑に織り交わしている人間模様は昔から見慣れていて、今更誰と誰がどんな関係だなんて詮索する気にもなれない。
 例えば、ロスに居た時、ウェインが時々姿を消していた時間に"誰"と"何"をしているのかなんて僕にはどうでもいい事で、ケリにだけは、ばれないようにして欲しいと願うだけだ。

 僕は、そんなあいつからの連絡は、電話はおろか、メールや伝言まで全てシャットアウトしている。

 『……ルビ、僕も少し休憩するよ』

 大輝が、映像の中にどんな僕の表情を見たのか、急にそんな事を言って、僕の返事も待たずにフレームから姿を消した。
 それを見届けた僕の視線が自分に戻された事を確認して、ウェインは、緊張を呑むように喉仏を上下させる。

 【――――はい】

 震えているようにも聞こえるウェインの声。

 【……なにか、ありましたか?】

 しばらくすると、ウェインがまた僕をチラリと見た。

 【はい……】

 大方、僕が傍にいるかどうか、尋ねられたという所か。

 【――――えッ!?】

 驚きの声が上がったかと思うと、暫く部屋を沈黙が蔓延り、

 「……」

 ウェインはぼんやりとしたまま、携帯をテーブルに置いた。

 「……、――――ウェイン?」

 僕の呼びかけに、まるで揺り起されたようにハッとしたウェイン。
 それでも、次の言葉が出てこない。


 「――――あいつ、何だって?」

 促した僕に、やっと、声を絞り出す。

 「……来週、日本に来るそうです。ケリに、――――よろしくと……」


 なるほど。
 冷静なウェインが平常心を失うわけだ。


 「……」

 予想はしていたけれど、思ったよりも早かった。
 甘かったらしい自分の考えに、小さく舌を打つ。
 そんな僕の態度に眉を顰め、

 「ルビ……彼から連絡が来る事、分かっていたんですか?」

 確認するようなその尋ねに、僕はため息交じり頷く。

 「―――まあね。先週、ケリへの接近禁止命令の期限が終了したからね。そろそろコンタクトはあると思ってた」

 離婚裁判で、ケリが強要されていた性的交渉への罰則として、裁判官が下した接近禁止命令。

 証言したのは僕。
 二度とケリに会せるものかと、その一心で涙ながらにした渾身の演技は、オスカー賞ものだったと思う。


 「ルビ……」

 心配そうに僕を見つめるウェイン。

 少し前、ジョニー企画に拉致られて、初めて樋口さんと話をした時、僕は犯罪歴を聞かれてこう答えた。
 きっとあの場に居た誰もが、戯言だと聞き流したんだろうけれど、


 『殺人未遂』

 嘘じゃない。
 僕は、実の父親に銃口を向け、殺意をもって、それを撃った事がある。
 ケリにセックスを強要するあいつを見て、諦めたように、泣いてそれを受けるケリを見て、その涙の元凶を消滅させたいと、本気で思って引き鉄を引いた。

 あの時の、思いのほか軽かった銃の感触と、
 引いたトリガーの柔らかさ。
 あいつに弾が中らなかった時の悔しさが、今でも記憶の壁に焼き付いている。

 二射目を放とうとして、それを羽交い絞めで制してくれたのがウェインで、その出来事をきっかけに、ケリはあいつとの離婚を決意した。
 幾ら、母親を護るための行為だったのだとしても、
 あの日、何かが違っていたら、僕は、父親殺しとして世界中に名を知られ、きっと全ては崩壊していたんだと思う。


 「……」

 無性に、千愛理の声が聞きたくなった。



 あの夜の公園で、僕を包み込むように抱き締めてくれた千愛理の温もりが恋しかった。
 PCの傍に置いてあったスマホを手にしようかどうしようか逡巡する。
 千愛理が、僕を強く求めない事に対して意地が発動した事もあるけれど、僕の中の色んな感情をまとめる時間も欲しくて、二人の関係の進展をしばらく手つかずで放置すると決めたのに、僕の方が一日ももたないなんて――――。

 「……大丈夫なんじゃない? 天城アキラもいるし、ね……、あ」

 自分を制御するようにそんな事を告げる中、ふと思い出して、引き出しから一つの箱を取り出した。
 夕方、このマンションまで桝井さんが持ってきてくれた、その天城アキラとの約束のもの。

 「ウェイン。これ、天城アキラに届けておいて」

 「……これは?」

 「彼に頼まれていたアレキサンドライト」

 あいつが来る前に、天城アキラにはしっかりケリを支える準備をしてもらわないと。

 「クリスマスプレゼントですか?」

 「らしいよ」

 ウェインの口許が、らしくなく緩む。

 「嬉しそうだね」

 意地悪く僕が言うと、ウェインはそれを隠そうともせずに、半ば目を伏せて、過去に想いを馳せるように言った。

 「ケリの幸せは、……亡くなった兄の、―――――シンの願いでもありますから」

 「……うん」

 まだ幼かった僕の記憶にも、ケリのボディガードだったシン・ホンの優しさは十分に残っている。
 破綻していく結婚生活の中で、同じ速度で崩壊寸前だったケリの精神こころを癒した男。



 もし彼が生きていたら、僕は全力で、夫であるケヴィンを排除し、シンとケリを結んでいた。

 あのブラッディ・ヴァレンタインの日。
 突然のシンの死が二人を別たなければ――――――。


 思いを巡らせれば直ぐに蘇ってくる、シンとケリを包む穏やかな空気。
 何年経っても、シンの傍で幸せそうに微笑んでいたケリの顔が、こうして忘れられずにいる……。



 「……」

 僕は、ゆっくりと手を動かして、再びマウスを握りしめた。

 業務を再開する。
 PC画面を共有している大輝がそれに気づいて、カメラの前に戻ってくるのも直ぐだろう。

 「――――そう言えば、ルビ」

 「ん?」

 ウェインの声音がふと変わる。
 いつものトーンに戻ったような、もっと別のものになったような――――、

 「さっきから大輝との話に出ているあなたのステディの件ですが、伝えておきたい事が」


 千愛理の事――――?

 僕は、ウェインへと訝しむように視線を向けた。

 「――――何?」


 そんなつもりはなくても、いろいろ警戒してしまう。


 「前に、水族館へ送る途中で気づいたんですが――――」

 「…………、――――え?」



 ――――彼の口から、寝耳に水の話が齎された。








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