『彼女があんな風に触られていても、本当に本宮さんは、不愉快じゃないのかしら?』 例えば――――――、 学校で、沙織先生と親しげに寄り添っているのを見た時、 ホテルのレストランで、ルビ君がマリアさんの身体にぴったりと身を寄せていた時――――――……、 あたしは初めて、胸が張り裂けるという感情を知った。 苦しくて、痛くて、 言葉は何も出てこないのに、涙だけが溢れそうになって、彼女達の頬や腰に触れたルビ君の、その指が伝っていく先を想像して、悲しくて、でも好きで、嫉妬して、ぐちゃぐちゃで、 綺麗に在りたいと願うのに、真っ黒になっていく自分に、また泣きたくなって……、 どんなに気持ちを落ち着かせようとしても、―――――― ――――――ルビ君も……、 『You are dear』 『I love you』 あたしに伝えてくれたあの言葉が、本当にあたしと同じ気持ちを表したものなのだとしたら……、 これからのあたしの言動によっては、ルビ君にあんな思いをさせてしまうって事なんだ。 凄く、緊張もして、 同時に、凄くドキドキした。 もう、一人で不安や戸惑いを心の奥底に押し込めるんじゃなくて、これからは、二人でいることを前提にいろんな事を考えていける。 それは、今日からあたしとルビ君が、恋人同士だから――――――。 『大事にしようね』 あたしの右手の先に咲く花が、もっともっと愛おしくなって、改めて、泣きたいくらいに嬉しくなった。 「はじめまして、千愛理さん。私は花菱の物流を任されている、」 「僕は千早さんの従兄で、つまり千愛理さんとも、」 ルビ君の存在が影響しているのか、それとも、さっきお祖父ちゃんがはっきりとあたしを庇ってくれたからなのか、これまでとは違って、たくさんの人が入れ替わり立ち代りあたしに挨拶をしにきてくれる。 正直言うと、ルビ君の事で頭も心もいっぱいで、顔も名前も次に会った時に思い出せる自信はない。 離れた場所で、沢山の人達に囲まれているルビ君に、何度も視線を奪われてしまった。 「はじめまして」 「あ、はじめまして、佐倉千愛理です。よろしくお願いします」 正面に現れた声の主に、あたしはこれまでと同じセリフを口にして膝を僅かに折ってお辞儀をする。 「こちらこそ」 すると、その男の人はあたしに右手を差し出してきた。 「?」 握手かと思って反射的に手を出すと、 「え?」 それは、手の甲へのキスを求めた合図だったみたいで、、 「あ」 慣れないあたしは、ちょっと身じろいでしまった。 ただの挨拶なのに、過剰に反応して手を引っ込めるのも失礼な気がするし――――――……、 一瞬の間に、そんな事を真剣に悩んだあたし。 けれど、男の人は何故か、その行動をピタリととめた。 「……参りましたね」 苦笑して、彼がため息のようにそう漏らしたのと同時に、 「ああ、そういう事」 千早ちゃんも、納得したという表情で、声に出してクスクスと笑う。 その、悪意は感じられない優しい笑いは、気が付けば周囲の人たちに細やかに広がっていた。 「――――――え?」 戸惑って立ち尽くすあたしに、 「では、私が身を以って」 あたしの指先を握ったままだったその人は、再びあたしの手の甲にキスをしようと……、 「――――あ」 キュン、と胸がトキめいた。 「ふふ、気づいた?」 千早ちゃんが、悪戯っぽい眼差しで、顔を赤くしたあたしを覗き込んでくる。 「千愛理の手をとる事は許しても、キスは許さないって事。なかなかやるわね、本宮さん」 「この花を除けて君の肌に直接口づけをするという事は、きっと彼に喧嘩を売るのと同じ行為だよ」 大人な彼は、あたしの手をそっと下ろして、ゆっくりとした動作で離れて行く 「……」 あたしは、自分の右手をジッと見つめた。 二人の間に咲いた花。 この会場に入る前、確認したその意味の他にも、こんな意味もあったんだ……。 胸が熱くなって、今すぐに、ルビ君の顔が見たくて、さっきまでお祖父ちゃんと居た辺りに視線を向ける。 けれど、同じようなタキシードを着た人の間でも目立つはずの、ルビ君の柔らかい金髪が探せない。 どこだろう……? 不安を隠せずにキョロキョロとしていると、 「千愛理さん」 「―――――亜里さん」 あたしの前に姿を現したのは亜里さんだった。 「社長は今、社の者がロビーに来ておりまして、所用をすませております」 「あ……、そう、ですか……」 「直ぐお戻りになられます。お飲み物、何かおとりしましょうか?」 行き交うウェイターの姿を視止めた亜里さんは、あたしに気を遣ってくれて、 「あの、今のうちにお手洗いに行ってきます」 ちょっと恥ずかしく告げたあたしに、 「ではお供いたします」 亜里さんは透かさず隣に並んできた。 「……?」 「千愛理さんの傍にいるように、社長に指示を受けております。最初に申しました通り、千愛理さんをお守りするのが今夜のわたくしの仕事でもあるので」 知的な光を携えた黒い瞳を細めて、亜里さんがニッコリと微笑むと、金縁の眼鏡から下がる細いチェーンがシャラリと鳴った。 「ご覧になりまして? 本宮グループの会長」 「ええ。噂以上の美しさでしたわね」 「天使のような愛らしさも含んで……。ロスのパーティで何度か遠くからお見かけしただけでしたけど、――――――はぁ……。間近で見ると、ため息が出ちゃいましたわ」 「あの輝くようなトパーズの瞳。一瞬でも見つめられたら、溶けてしまいそう……」 隣のパウダールームから聞こえてくるのは、間違いなくルビ君の噂。 「でも、まさか香澄様の忘れ形見を傍におかれるなんて」 「一時の戯れでしょう?」 「あら、どうして? 先ほどの様子からすると、かなりの逆上せ具合とお見受けしましてよ?」 「だって――――――、ロスに居た頃、あの方と噂になったのはいつも魅力も才能も溢れる年上の女性ばかり。あの方が珍しくパーティに現れると、今夜はどなたとホテルの部屋に消えるのか、賭けの対象になっていたほどにお盛んな方ですのよ?」 「そうね……。それを考えると、……"あの子"じゃ、とても、ねぇ?」 ――――――気にしない。 キュッと唇を結び直した時、あたしが入っている個室のドアが小さくノックされた。 「行きましょう」 亜里さんの声に、あたしは一つ深呼吸をしてドアを開ける。 手を洗って、ドライタオルで水気を弾いて、 「……」 鏡の中に映るあたし――――――。 "あの方と噂になったのは、いつも魅力や才能溢れる、年上の女性ばかり――――――" 分かってる。 実際に、ルビ君と並んでいるのを見た事がある沙織先生とマリアさんだって、あたしとは比べるまでもない、本当に素敵な大人の女性で、 「……」 ふと、あたしの後ろに立つ亜里さんの姿に目がいった。 ――――例えば、ルビ君の隣に並んだのが亜里さんなら……、 「わたしくは社長に興味はありません」 「!」 見透かされてしまいました。 「すみません」 曖昧に微笑んで、あたしは背筋を伸ばす。 「あの……、あたし、ルビ君を迎えに行っても大丈夫ですか?」 努力して紡いだあたしに、亜里さんはニッコリと笑んで頷いた。 「問題ありません。社長も、きっとお喜びになりますわ」 「――――――はい」 歩き出す。 レストルームを出て、上品な装飾が施されたオレンジに輝く廊下を歩き進む。 まだ、始まったばかりのあたし達。 ずっと傍にいて、時間を重ねてはきたけれど、"本当に"心を重ねたのは今日が一日目。 "僕だけを見て" そう言って、微笑んでくれた、あの、愛しそうにあたしを見つめてくるトパーズの瞳を信じよう。 右手の花を、左手でそっと愛でた。 廊下を抜けてロビーに出て、会場へは戻らずに、乗降スペースがある建物の外の方へと足を向ける。 外に出た途端、冬の空気が一瞬にしてあたしを冷やして、ドレスにストールだけのあたしは、思わず身震いをしてしまった。 ヒールの音が、微かに響く。 歩きながら、ゆっくりと辺りを見回してみる。 目に優しく輝く無数のイルミネーションがスノウアロウズの本館をバックに、樹木の間に揺れていた。 敷地内に流れるクラッシック音楽が耳を刺激して、スノウアロウズ独特の西洋的な雰囲気がとてもロマンチックだった。 イブの空気は、まるで何かを隠すように白く煙っていて、 「あ、ウェインさん」 中庭を見つめるように、影に重なって立つウェインさんの姿を見つけた。 あたしに気付いたウェインさんが、表情は相変わらず寡黙だったけれど、少しだけ身体を揺らしたような気がした。 「?」 ウェインさんが見ていた方向へと、あたしは誘われるように視線を向けた。 「あらまぁ」 背後に追いついた亜里さんの、ため息のような声を聞きながら、 「……ルビ君」 あたしは、思わず立ち止まっていた。 そこには、あたしが目印にしていたクリーム色の髪をライトに輝かせ、白と黒のコンビネーションのタキシードに身を包んだルビ君が居て、 そのトパーズの瞳が見つめているのは、 流れるような金髪、夜の色に映える白い肌の顔。 襟の大きな赤いコートを着たその人は、明らかに"年上の女性"で、 ――――――知ってる。 胸が、何かにギュッと掴まれた。 ルビ君が今浮かべているこの マリアさんや、沙織先生に向けていた、 そして、亜里さんには向けなかった、"親密さ"を窺わせるもの……。 "女の勘"って、こんな風に働くんだね……。 自分の中の、黒い感情を吹き消そうと、嘲笑を混ぜて考えてみるけれど、どんなに寄り道をしても、辿り着く答えは、たった一つ。 この 「……ッ」 あたしはどうして、 どうしてこんなに、 "綺麗"でいられないんだろう……。 ブラックバカラが、心の中心で、悲しいくらい鮮やかに花開く。 開ききった花の、花弁の一枚一枚が、心の底に、ひらりひらりと溜まっていく――――――。 自然に、足が一歩下がった。 こんな醜いあたしは、今、いったいどんな顔をしているの? こんなあたしを、ルビ君に見られたくない――――――。 見られたくない……。 見られたくない――――――……。 震える足に力を込めて、 「千愛理」 名を呼ばれ、あたしは思わず、顔を上げた。 ルビ君は、ただ真っ直ぐにあたしを見つめていて、 「おいで」 手を差し出し、それを紡いだ甘さと命を含む声が、じっくりとあたしの存在に絡みつく。 「千愛理」 「ルビ君……」 あたしの、助けを求めるような呼びかけに、ルビ君は応えるようにして柔らかく微笑んでくれる。 「……」 まるで視線で手繰り寄せられるように、あたしは、自分を奮い立たせるようにして、二人の方へと、ゆっくりと歩き出した。 |