小説:クロムの蕾


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PINKISH
EMBRACE


 「ずっとルビ君と、一緒にいたい――――――……」


 僕の腕にいる千愛理の顔にはイルミネーションの光が微かに届くだけだから、今、どんな表情でその言葉を口にしたのか、はっきりとは見えない――――――。
 けれど、掠れて震えている千愛理の声が、ゾクリと僕の官能を刺激する。
 その顔が見たくて、引き寄せていた身体を少し離すと、ホテルから零れる光も重なって当たり、千愛理の日本人らしい肌の色が夜に映えた。

 花が咲く手から、添えるように密着した僕の胸へと千愛理の強い鼓動が響いて来て、緊張を隠そうとするほどに苦しそうな呼吸を見せる肩は、まるで擬似的に喘がせているような気分になる。
 泣きそうな程に僕への恋情を可愛く見せる千愛理に、欲情しないなんて、嘘でも言えない。


 「―――――今夜は、家に帰らなくても平気?」

 小さな耳朶に指先を這わせ、千愛理の眼の奥を試すように見下ろす。

 本当は、昨夜から千愛理の父親である修氏が急な出張で渡米している事は、千愛理をエスコートする旨を伝える電話の中で当の本人から聞いて知っていた。
 敢えてこの問いを投げたのは、千愛理に与えた最後の逃げ道だ。

 『ずっと一緒にいたい』

 その意味を、"今夜"という意味ではなく、"これから"という希望に置き換えて、

 『今夜は帰りたくない』

 そう口にしてしまった取り繕いを、父親が心配するからというセリフに言い換えて……。


 「どうする?」

 これが、今夜、僕から逃げるラストチャンス。


 「僕の部屋に、――――――来る?」

 千愛理が放った言葉と同じく、"その意味"を含んだこの誘い文句に、

 「はい」

 はっきりとそう返事をして、千愛理はコクリと頷いた。

 「千愛理……」

 想定していた筈の答えに、驚きと、喜び……。
 複雑に混じる僕の心に、千愛理がまた新しい波紋を投げる。


 「あげたいの……」



 思いもかけなかった言葉を紡がれて、僕が「え?」と反応して聞き返すと、千愛理は伏し目勝ちに呟いた。


 「……クリスマス、プレゼント」

 花の咲いたその手が、そっと胸元のコンクパールに触れる。


 クリスマスプレゼント……、


 「……身体を、――――――という意味?」

 核心に迫ろうと質問を詰めると、今度は、左右に首を振って、ゆっくりと僕を見上げてきた。

 嬉しい戸惑いが続く僕にぶつけられる、何もかもを射るような、千愛理の直向きな可視光線。

 彼女だけが、こうして僕の胸を、ドキリと鳴いて痛むほどに刺すことが出来る。



 「千愛、」

 口を開きかけた僕を遮るように、千愛理は言った。


 「ルビ君が感じる事の出来る、あたしからの想いを、……あげたい」

 「――――――え?」

 「エッチ、……でしかルビ君に伝えられないのなら、あたしは、今夜、……それをあげたい」

 「……」

 「どうしても、それをあげたいの――――――……」

 「……千愛理――――――……」


 いつだったか、


 『そうしたいって、思ったの――――――』

 浮浪者に甘いモノをあげたかったと、初めて僕に強い意思の眼を向けてきた時の千愛理と同じ……。

 それから、

 『なかった事にしたいの――――――』

 "付き合っているフリ"をめたいと、そう告げてきた時の千愛理の、強さ――――――。



 「――――――、」


 何を、どう綴って応えればいいのか。

 色んな感情は溢れているのに、それに値する言葉が何一つ思い当たらない。



 絶句。

 それを現す状態が、憤ったり、怒りに溺れるシーン以外であるなんて、今初めて経験した。


 『僕はね、セックスは最大の愛情表現だと思っているんだ。誰にも見せられない姿を僕にだけ晒して、乱れる声、表情、それらを隠すことなく向けられて、初めてその想いを感じられる……』


 僕が口にしたあの言葉に、千愛理は、自ら決意して盲目になって、僕の為に答えを紡ごうとしてくれている。


 生まれたままの姿で抱き合い、弱い部分を曝し合う事で初めて、相手からの想いを信じられるなんて質をあげて、真意を探ろうとする僕の、自己欺瞞に満ちたそんな考えを、


 ――――――正面から受け止める為に……。



 「……――――ねぇ、千愛理」

 向き合った千愛理の、それぞれの手をそっと握り、僕は吸い込まれてもいいと思う程、真剣に彼女を見下ろした。
 そして、やっと探し出せた僕の言葉を、想いを込めてゆっくりと綴る。


 「"僕をあげる"、そう伝えた言葉に、嘘は無いよ」

 「……」

 「でも……」


 ―――――でも……?

 と、首を傾げた千愛理の瞳が不安気に揺れた。

 勇気を借りるように指先に力を込めると、千愛理からも想いが返る。


 不思議だ……。

 あんなに拘っていた"セックス"への執着が、まるで僕からハラハラと剥がれていく――――――。


 こうして、身体が繋がっていなくても、それに似た繋がりが感じられるなんて、これまでの僕では決して辿りつけなかった未知の感情。

 これは、この感情は、"千愛理と出会った僕"にだからこそ生まれたものだ――――――。


 「……でも、これまでの僕が、沢山の女性と関係を持ってきた事も事実で、その過ぎた時間は僕を形成する、間違いなく僕の一部……。もう、塗り替える事は出来ない経験ことだから」

 敢えて言葉にはしないけれど、僕を包んでくれた女性達の優しさは、僕の心の奥底に、きっと永遠に眠り続ける。

 「だけど、これだけは君に誓うよ」

 「……」


 何かを言って欲しい、

 何かを期待したい――――――。

 千愛理の欲は、そんな欲じゃない。

 ただ、僕の言葉を聞きたいという意志で眼差しを向けて来る千愛理のひたむきな欲。
 それは、これまでの、子供だった僕の時間さえも、無条件に包み込んでくれるような気がして……。



 そんな彼女に、ずっと傍に居てもらう為に綴る、これが、僕の誓約の言葉。


 「これから先、どんな時も、何があっても、僕は君に、心から誠実で在り続ける事を誓う」





 「……――――――え?」


 僕を見つめる千愛理の眼が、ゆっくりと瞬いた。
 あまりにも、"心外"だと驚く意味合いを含んでいて、自分のセリフに僅かに照れて動揺していた僕は、少しだけムキになる。

 「……何?」

 「え、あ、ごめんなさい。だって、」

 慌てた表情で、自分が口に出そうとした言葉に代わるセリフを一生懸命に探している千愛理の様子が可愛い。

 「ん?」

 わざと追い詰めるように促すと、

 「だ、……だって、ルビ君、こういう時はいつも、お砂糖くらい甘い事しか言わないから、きっと、またそういう事を言って、あたしを……」

 「……千愛理を?」

 意地悪く聞き返しながら、僕は握った千愛理の掌に、数本の指先をさわさわと泳がせた。

 「ぁ、あの……、ルビく」

 逃げようとする千愛理の手を、しっかりと握り直す。

 「どうしたの? 千愛理」

 「あの……ルビ君、……手……ぁ」


 千愛理の唇から漏れる息が熱い。
 きっと、瞳は潤んで、真っ赤になってる筈の千愛理の顔が、僕から逸らされて俯いてしまう。


 こうして少しずつ、彼女という花弁を開かせていきたい。

 これまでは、女性を満たす事が優先で楽しんで来たSEXに対して、自覚するのに勇気が要る程、今僕に湧き出ている欲望は、恥ずかしいくらいに、穢れなく純粋。

 頭ではなく、本能で求めるという事は、僕にはあまりにも未知過ぎて、それはまるで、深い闇に堕ちそうなくらいに恐ろしいけれど、

 「千愛理」


 その誘惑の香りは、とてつもなく強烈だ――――――。




 「今度は、甘い言葉だけじゃなくて、僕の指で、唇で、千愛理の全部を溶かしてあげる」




 耳元で囁くと、千愛理の身体がピクリと震えた。

 僕の首筋に、短い千愛理の息が、何度もあたる。




 「千愛理、――――――これから、僕の部屋に来る?」




 僕からの最後の確認に、千愛理の口から、まるで絞り出したような様なYESの言葉が、小さく零れた。







 パーティ会場に戻り、さっきと同じように花菱の上層部面々が集まるスポットへ一直線に中央を歩き進んだけれど、揺れる程度に割れた人波と、その波状から絡みついて来る視線は随分と色味を変えていた。

 僕と千愛理が不在だった間に、会長から何かしらの通達がされたのかもしれない。

 敵を見るような戸惑い、花菱にとっての不条理さをぶつけてくる警戒等は一切なく、大なり小なり、企業の中枢にいる人間が、短時間でここまで転じていいのかと疑問に思う程、友好的な眼差しが多かった。


 「――――――会長」

 僕の呼びかけに、椅子に腰かけている会長が顔を上げる。

 「おお、本宮のか」

 「はい」

 「――――――千愛理はどうした?」

 僕の背後を流し見て、改めて僕を見上げた会長は、温和な表情とは裏腹に観の目が強く、僕の曾祖父である本宮伸次郎を思い出させた。

 「……シャンパンの香りに酔ってしまったようで、今、休憩室で休ませています」

 「ほう、シャンパンのう……?」

 呟きながら、指先を動かして、周囲に立つ取り巻き達に少し離れるように指示を出す会長。
 それを受けて去りつつ、横目で僕を見る顔触かおぶれの中には花菱社長の顔もあった。
 その先には娘の千早がいて、会場内を飛ぶ視線の先には、恐らく千愛理の姿を探している。


 「―――――申し訳ありませんが、僕らはこのまま失礼させていただこうと思います」

 「なに?」

 「挨拶もせずに帰るのはどうかと千愛理も気にしているのですが、僕としては無理はさせたくありません。身内のパーティという事でどうかご容赦を」

 決定を告げる内容をオブラートに包んだつもりだったけれど、会長の眼光が何かを探るように僕を捉えて離さなかった。


 「……ヌシは」

 それが、Youと言い直された言葉だと思い出し、僕は促すように「はい」と応える。

 「身綺麗にはしとるんじゃろうのう?」

 ミギレイ……。

 それがどんな意味を含むのか、想像に難くて、亜里が傍に居ない事が悔やまれた。

 「会長、申し訳ありません。その日本語は僕には難しいので教えていただけますか? その、"ミギレイ"とは一体どういう意味でしょうか?」

 「おおそうか、すまんじゃった。身綺麗とは、……過去の女はきちんと清算しとるか、という事じゃ」

 唇を動かさないように、後半は小さく告げてきたその内容に、

 「――――――ああ」

 なるほど。

 身を綺麗にしたか、そういう意味なのか……。


 「ソチの浮名は伸次郎からも聞いておるし、ロスにいる儂のイロからも色々耳に入っておったぞ。向こうでは、若いうちから相当な暴れ馬だったらしいな。良い女を知る事は、男を上げる事でもある……が、千愛理を傍におくのなら、今まで通りでは困るぞ」

 「勿論です」

 「それに、血筋はどうしようもない。姓が違おうとも、千愛理は花菱の直系ぞ」

 「……僕は、彼女の相手として、相応しくないという事ですか?」

 「馬鹿を言うな。グループ規模もほぼ同じ。被っているのはIT部門のみ。生産ラインをとれば、提携のメリットは幾つもある。年齢も、まして、本人同士が相思相愛というのなら、これほどの良縁はないじゃろうて」

 「お言葉を返すようですが、僕は千愛理との事を、企業戦略に組み込む気はありません」

 「……」

 「ただ、花菱での"千愛理の価値"をあげるための、企業間での改善になら、努力は惜しまないつもりです」


 これまで、本宮と花菱の子会社で滞っているプランを全て拾い上げ、育てる人材がマッチングしている案件に限って、千愛理との縁を理由に合意ラインを下げる。
 本宮にとって、その企画での純利は下がるけれど、それをまとめ進め、リーダーシップを経験エクスペリエンスとして習得出来れば、人材育成の最高の踏み台に出来る筈だ。

 それが花菱にとって、潤いを齎す結果となるのかどうかはまた別の問題……。


 「どうだ? スノウアロウズに部屋を押えてあるが……」

 「え?」

 会長の言葉に、反射的に口が動いてしまったのは僕の未熟さだ。
 まさか、"そうくる"とは予想していなかった。

 「……千愛理を、そういう意味で僕に差し出す気ですか?」

 僕と千愛理の仲を公にし、支配する事で、会長は"何か"を迂回しようとしている。

 「――――――いや、すまん……。今のは忘れてくれ。……香澄で懲りた筈なのに、どうにも保身の労に走ろうとするのは悪い癖じゃ」

 「……」


 今、本宮がやろうとしている事を、会長は察知しているのかも知れない。

 勘……、それとも、情報に基づいて――――――?


 僕はじっくりと会長を眺めた。
 御年おんとし76歳。

 会長職を辞せないのは、姪の婿である社長の佑介氏にこれ以上の余力が無いからで、そして、一族の中に、それを補う程のブレーンが存在していないから……。

 本宮の曽祖父は、ケリの両親、つまり僕の祖父母が跡を継がない事を早い内から知っていたから、血族以外の優秀なブレーンを、危険を承知で自分の周りに取り込んで来た。

 人格に恵まれたメンバーに多く巡り合ったのは、本宮伸次郎の運の強さと、そして人を魅了する人柄だろう。
 僕も、それに惹かれた一人だけど――――――。


 花菱の会長に、その魅力が無いとは思わない。
 けれど、花菱は、あまりにも一族としての血に拘り過ぎた。

 きっと優秀なスタッフは、各グループ企業の中堅あたりで力を発揮できずに燻っている。

 いつだったか、大輝が花菱グループの事を、ヘッドハンティングの宝庫かりばだと一笑した理由が、今明確に理解出来た。


 「――――――会長」


 実は本宮は、花菱に繋がって得をする事がほとんどない。
 そして、僕とルネが密かに進めている10年規模の企業買収プランの結果次第では、8年後には、今はほぼ同等の花菱を、270%追い抜いている予定だ。

 逆に花菱は、ルネの試算として、その煽りを受けて、18%の衰退。

 もしかすると、会長も同じ試算結果を持っているのかも知れない。
 千愛理の祖父としての愛情と、経営者としての計算が、会長の中でメビウスの輪となり、結論の出せない逡巡を繰り返している。


 「千愛理とはまだ始まったばかりです」

 「……そうじゃの」

 微かに笑いさえも浮かべた会長に、僕も笑みを返した。

 「――――――ですが、そう遠くない内に、婚約まで話を進めるつもりはあります」

 「!」

 「僕の曾祖父である伸次郎も千愛理を気に入ってそれを望んでいますし、僕としても、異論は全くありませんから」

 「……」

 「ただし、打診先は花菱あなたではなく、佐倉修氏です」

 「!?」

 皺に包まれた会長の目が、大きく見開かれた。

 「彼女は、"佐倉"千愛理であり、花菱とは何ら関係ない。――――――そしてきっと、彼女の母親である香澄さんも、僕と同じ考えの筈です」

 「……」

 「もしこの場にいたなら、先ほどの千愛理を貶める言葉は、きっと香澄さんを怒らせていたでしょうね」

 「……ふ、そうじゃな」


 会長の肩が、見るからにがっくりと、下に落ちた。

 「こんな事を聞かれては、千愛理を、……今度は儂が泣かせるところじゃった……」

 「……千愛理はあなたの事を慕っています」

 「……うむ」

 「僕との事に関して、同じ血を持つ花菱から、千愛理に圧力がかからないように、それだけは、あなたの力で押さえてください。そんな話題が出る事自体、千愛理の心を傷つけかねません」

 「あい判った」


 僕の要望に応えようと顔を上げた会長は、反省を含みながらもその眼光はやはり気丈で、

 「――――――ロスにいる会長あなたの恋人に、ぜひ僕らから花を贈らせてください。母の店の招待券を添えておきます」

 慰めにとクリスマスプレゼントを打診した僕に、会長はふと意味深な笑みを零す。

 「二か所でもええかの? 最近新しいのが増えての」

 「!」


 一瞬、言葉に詰まってしまったけれど、


 初めて会長から向けられた、親しみの籠もるその笑顔に、


 「――――――喜んで」

 気付けば僕もまた、自然と社交用じゃない笑みに綻び、その言葉を返していた。








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