たまに一緒に買い物に出る未希子が、思いもよらない場所でお気に入りアニメキャラクターの関連グッズを見つけた時のような、正直言うとちょっと怪しい笑いに、私は少し溜息を交えて反論した。
「未希子、美少女って、色々語弊があり過ぎるから…」 「はあ? 語弊って意味知ってる? あれが美少女じゃなきゃ何がそれなのよ」 「あれはね、関わったみんなの演出力の賜物であって、私がどうこうっていうワケじゃないの」 話は、大学二年生の時に成り行きで参加したミスコンの事。 つまりは六年も前の事になる。 メイクアップ研修室を名乗るサークルの先輩に捕まって、文字通り上から下まで大改造され、予選を勝ち抜いた十人の中から、当時の司会進行役の言葉を借りれば"これはかなりの番狂わせ"により、私は二位に入ってしまった。 その秘訣は間違いなく、先輩が魔法のように施してくれたメイクと、類友で集まった演出研究部のメンバー達。 某アニメの「メークアップ!」という変身シーンの音声を使って印象操作でイメージアップ、更に、マジシャン同好会の演出が入れば、いかにも普通の女の子が、まさに学祭のシンデレラ。 知識を競う二次予選のクイズまでは楽しかったけど、ドレス姿にされて舞台に押し出された時は泣いてしまいそうだった。 それでも、頑張ってくれた先輩達の努力を無下にする事も出来なくて、私なりに精一杯頑張ったけれど。 「何言ってるの。演出であれだけキレー可愛くなれるんだから、やっぱり咲夜(さや)は美少女なの! どんなにいい道具が揃ってたって、素地が無いとどうしようも無い事は多いのよ! はあぁ、眼鏡の向こうに隠れるキュートな素顔。萌えるわ〜」 「…もう」 未希子の言葉に、当時の遣る瀬無さがぐんぐんと蘇ってきた。 あのミスコンに出場するまで、私はただ平和に大学生活を送っていた一女子大生。 でもあのコンテストで、西脇 周りは妙に騒がしくなり、ご飯を食べに出かけるのさえ視線を感じてしまう有様で、誰かが携帯を開いていると俯く癖が出来て…。 高校からずっと一緒の親友の逸美がそれを気にするタイプだったら、私は、大学以外では引きこもりになっていたと思う。 次第に、私がそういう外向きのポジションには向いていない性格だと漸く理解されたのか、大学でも、一時は迷惑をかけてしまったバイト先の書店でも、ミスコン以前とは程遠いけれど、それなりの人権を返して貰えたと、じんわり感じる程度には生活が落ち着きを取り戻し始めた矢先だった。 別れたカレに、出会ったのは。 彼も図書館通いが好きな人で、一年の時、そう言えば一緒の講義があったかなってそんな印象くらいで、だから、告白された時は驚いたけれど、今まで声をかけてきたナンパな人達とは全然違って見えたから、まずは友達から始めて、ご飯を食べて、デートして、少しずつ好意をもって理解する内に、大切な存在へと育んでいけた。 就職して直ぐは、お互いに忙しくて会える時間も凄く疎らで、そうこうしている内に夏前には彼の大阪への異動が決まり、それから三年。 どうして何も疑わずに信じていられたんだろうって、今の私には過去の自分が解らない。 サクさんと出会う前は、どんなに泣いても、もしかしたら何かの間違いかもって、まだ彼を信じたい気持ちがいっぱいだったのに、こんなに体温を忘れる距離で過ごしていて、何を根拠に私は信じていられたんだろうって、不思議で仕方ない。 これは、浮気されたという結果からくる、女としての思考の進化なのか、 ――――――それとも、人としては退化なのだろうか。 "サヤちゃん、お願い! ヘッドセット1個、9の6に持ってきて〜" 「あ」 突然現れたチャットボックスに、確定前だった文字が所在を失って画面の端に浮いている。 返信漏れがないようにわざと設定を解除していないけれど、こういう時だけはアクティブに前面に来るのを迷惑だと思ってしまうから、使う側は自由に我が儘だなと思わず自嘲が走ってしまった。 入力途中だったアプリに浮いていた文字を確定して、それからチャットに戻り、スーパーバイザーの一人、羽柴さんに"了解しました"と返信を入れる。 そして顔を上げたところで、ちょうど目があった皆藤さんへと口を開いた。 「羽柴さんに九階までヘッドセット届けるので、少し離席しますね」 「なんだ、俺が言う前にチャットがいったのか。本当にせっかちだな、あいつは」 困ったように眉根を下げる皆藤さんに、それを指示しようとしていたから目が合ったのかと理解した。 つまり、そこに至るまでの経緯を把握しているという事だ。 「何かあったんですか?」 「ああ、十五時から会議室でWeb会議する予定なんだが、打ち合わせで動作確認とろうとしたら音が出ないってんでシステムサポートの奴呼んでやったんだ。そしたら、ヘッドセットの故障だと」 「そうなんですね」 すると、私達の会話が始まった頃に丁度電子ドアを開けて入ってきていた入社二年目の藤代さんが、ブースに行きかけた足を止めてこちらへと目を輝かせながら近づいて来た。 「システムサポートチームですか!? もしかしてタクミさんだったりしますかぁ? いいなぁ、西脇さん、あたしも行きたいですぅ、連れてってくださいぃ」 「えっと…」 タクミさん…? 猫撫で声になった理由が分からずに首を傾げている内に、皆藤さんが一つ息を吐いてから言った。 「サポートしてるのは室瀬だよ。行くか?」 「あ、そうなんですねぇ、あ、待ち呼さんが点いてます。急いで電話とらなくちゃ! それじゃあ、戻りまぁーす」 …え? 話の展開についていけないまま、茫然と藤代さんを見送った私に、「やれやれ」と皆藤さんの溜息が聞こえた。 「女ってのはほんとに、わかり易いイケメンが好きだよな」 「え?」 わかりやすいイケメン? 「っと。これはセクハラか?」 特に危機感もない表情で言われても、私は苦笑するしかない。 「いいえ。――――――多分ですけど」 「そりゃ良かった。六番のキャビネから持ってって」 「はい」 席を立ち、金庫から鍵を取ってキャビネを開け、箱の一つを取り出した。 箱に記載されているNoをPC前に戻る間に確認し、管理システムを開いて持ち出し欄に追記入力する。 システムトレイにある時計が示しているのは14:42。 会議が十五時からなら、結構ギリギリだ。 「行ってきます」 「おう」 私は、ヘッドセットの箱を抱えて、急ぎ足で九階を目指し始めた。 大小の会議室が二十近くもある九階は、この巨大な社屋の最上階フロアでもある。 社内コンペはもちろん、他社とのアポイントメントやミーティングから、景色を楽しんでもらえるビューイングルームもあって、使用用途は幅広い。 「あ、咲夜(さや)ちゃん、助かるわ〜」 ICカードで電子ドアを開けた先には、ふくよかな体系をした羽柴さんが涙目をうるうるさせながら立っていた。 「本当にありがとう〜」 「どういたしまして。はいこれ、故障機は私が持っていきますね。ついでに申請もしておきます」 「咲夜(さや)ちゃ〜ん」 三児の母である羽柴さんは、皆藤さんと同期の四十歳。 産休と育休を繰り返しながら、お子さんが全員小学校を卒業したタイミングで、打診されていたスーパーバイザーを引き受けたのが三年前。 そして、私が大学の時に参加したインターンシップの時の指導員でもある。 見た目と話し方は癒し系だけど、理不尽なクレームをつけてくるお客様に対しての対応はカミソリの切れ味とは伝説じゃない。 ニッコリ笑って響きは良い声音で、後からじわじわと効いて来る文言を呪いのように繰り返す羽柴さんは、コールテーカーからすると神サマに近い。 小谷さんと越智さんは最初から管理職ありきで異動してきているから、現場からたたき上げられた羽柴さんは一線を画して慕われている。 『電話の向こうのお客様はね、襲ってなんかこれないでしょう? 同じサービス業なら、生身の人間を相手にするより全然楽よ』 早い内に離婚した旦那様とは色々あったらしくて、お酒が入ると"男を見た目で信用しちゃ駄目"が口癖になるところだけ玉に瑕。 でも、そんな元旦那さんの悪口も絶対に言わないから、そこもまた、みんなから信頼を勝ち取っているところなんだと思う。 「あ、室瀬君。これね、ヘッドセット」 羽柴さんが声をかけたのは、PCの横でプロジェクターをセッティングしている男の人。 真っ黒の髪、伸びた前髪の下には黒縁の眼鏡、黒っぽい色のジャケット、その中は深緑のシャツ。 顔全体は良く見えないけれど、全体的な色からの印象だと、悪く言えば暗そうで、良く言えば大人しそうな人だな…って感じだ。 受け取ったヘッドセットをPCに接続して、イヤーカフの部分を片耳にあててチェックをしている。 「どう?」 「大丈夫だと思います。音も拾ってるし」 「良かったぁ」 安心した羽柴さんに一礼して、「ではこれで」と歩き出した彼――――――ムロセさんは、私とすれ違う瞬間、ちらりと視線を向けてきた気がした。 ――――――あれ? シャツの襟に入ってるあの刺繍…、 「良かった。間に合った!」 ムロセさんが出て行って、電子ドアが再び施錠されたタイミングで、羽柴さんがそんな声を上げる。 私はハッと我に返って壁の時計を見た。 十五時に二分前。 「それじゃあ、私も失礼します」 「うん、ありがとうね、 「はい」 ボタンを押せば、中からは自動ロック解除。 廊下に出て、羽柴さんと手を振り合う内に再びドアは閉まって カーペットが敷かれた廊下を来た時とは違ってゆっくりと歩き進むと、辿り着いたエレベーターホールでは、呼び戻しボタンを押したらしいムロセさんが立っていた。 「お疲れ様です」 「…」 挨拶は、必ずしましょう、社会人。 心の唄を詠みながら、ムッとした気分をどこかに向けられるよう努力する。 そして、 ――――――何? 見られてる。 絶対に見られてる。 首筋辺りに、強い視線を感じる。 気になって、思わず手をやって感覚を拭った。 それでも、やっぱり視線は外される事はなくて――――――。 準ミスになって何を得られたかと尋ねられれば、私は間違いなくこの視線感知能力だと答えると思う。 ただの好奇心、悪意ある視線、さすがにその区別は目を見ないと判断出来ないけれど、今見られているのは絶対に確かだ。 もう階段で行こうか。 居心地悪くエレベーターを待っていると、二台中一台が、漸く九階にやってきた。 早足で乗り込んで、非常ボタンのあるパネル前に立つ。 「…何階ですか?」 マナーとして、尋ねては見たけれど、無駄だった。 目の前に伸ばされてきた手。 ボタンを押す指の動きに思わず目を奪われてしまう。 すみませんね、余計なお世話をいたしました。 心の中で悪態をつきながら、光るボタンが変わっていくのを目の前にぼんやりと眺めていると、 「――――――え?」 急に室内灯が遮られたと思ったら、何故かムロセさんが体を傾けて私に近づいていた。 「ちょ」 人によれば痴漢行為とも取られかねないその距離に、抗議しようとして気づく、ふわりと香ってきた花のような匂い…。 それに気を取られて言葉を止めた隙に、 「――――――君、サクと寝たでしょ?」 耳元に寄せられた唇から綴られたのは、私の息を止めそうな程に破壊力を持った言葉。 どうして…? 突然の事に、どんな行動をとればいいのか、最善の何も思い浮かばない。 「どうして分かったと思う?」 エレベーターのパネル前に両腕で閉じ込められるように接近されて、私は混乱で崩れ落ちそうだ。 「ど…して?」 掠れた声で尋ねると、耳元で微かに笑い声がした気がした。 「サクはね、セックスした女の子に印をつけるんだよ」 「…印?」 思わず反応した私の首の後ろに、ムロセさんの手が触れる。 こんな状況なのに、印が何かという興味よりも、掌に温度があって意外に暖かいと感じた事の方が先だった。 「――――――ここ」 そこは、丁度結んだ髪の毛が隠す真後ろ。 「母猫が子猫を運ぶ時のように、ミーミー泣く女の子を後ろから突きながらここに吸い付いて、所有印をつけるんだ」 「嘘…」 行為自体が激しくて、そんなの全然気づかなかった。 他にも気づいた人がいるんだろうか。 でも、相手がサクさんだなんて、ホストだなんて想像もしない筈――――――、 そこまで考えて、私はピタリと思考を止める。 「でも、四日も経てば薄くなるね」 肌に、触れるか触れないか、そんな感触が首の後ろを走っていた。 それはまるで、息がかかるかのような…――――――、 「…ぁ」 花の香り。 強くなったと、そう感じた瞬間には、濡れた何かが首筋を這った。 「ちょ、」 ベロンと一舐め。 その直後、強く吸われた感覚と、微かな痛み。 「…ッ」 除けた髪の撫で方、 もう片方での腰の寄せ方、 「…して?」 私はこれを、知っている。 「どうして?」 力を振り絞って振り返った瞬間、高い音を立ててエレベーターが停止して、容赦なく扉が開かれる。 その外へと、動いたのはムロセさんだ。 私は茫然と、降りてこちらを振り向いた彼を見ていた。 黒縁の眼鏡をずらし、左側の前髪をかきあげれば、知った顔が現れる。 「また週末に、オレを買ってよ、西脇 扉が閉まる直前、不敵に笑ってそう言った彼に、私はただ、息を飲む事しか出来なかった。 |