小説:夜は秘密の花香る


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夜は秘密の花香る
SECRET:04

 顔半分を覆う黒の前髪と、物静かなイメージに拍車をかける黒縁眼鏡。
 私より一つ年上、入社五年目の室瀬さんは、現在はシステムサポート部所属のシステムエンジニア。

 「でもですねぇ、 たくみ さん親衛隊のお姉様方が言うにはぁ、三年前まではシスサポにいなかったらしいんですよぉ? 見るようになったのはここ三年くらいって聞いてますぅ」

 テーブルを挟んだ向かいの席で、肩までのふわふわにカールさせた髪を揺らしながらそう言ったのは藤代雪ちゃん。
 ラッシュ時間をとうに過ぎた社食は人も疎らで、可愛らしい容姿からは有り得無さそうだったカツ丼というチョイスを堪能している満面の笑みは、意外な一面だったなと、

 『西脇さぁん、昨日はどうでした? やっぱりタクミさんじゃなかったんですかぁ?』

 午前中に手掛けた仕事が切り良く片付いたのが十三時を過ぎたタイミング。
 売店にはそれなりのものしか残ってないだろうし、久しぶりに社食にでも行こうかと席を立ったと同時に、ちょうどやってきた藤代さんにそう声をかけられ、成り行きでランチを一緒にする事になってしまった現状からの収穫の一つが、室瀬さんの情報。

 もう一つは、この藤代さんとの、思ったよりも居心地の悪くないこのひと時だ。

 「技術部の人に聞いてみたんですけどぉ、もしかしたら海外の開発部から来たんじゃないかって当初は噂されてたみたいですねぇ。そうなると超エリートじゃないですかぁ? なので人事部の人にも寝技使って頑張ってみたんですけどぉ」
 「寝技…――――――、あ」

 唐突に思い出した過去の噂に、私は思わず声をあげていた。
 規律を守り、風紀を乱さなければ社内恋愛は認められているわが社で二年前に大きくクローズアップされた藤代さんの恋の事件。
 確か広報部と人事部の男性職員二人と同時に付き合って、それが発覚した事により、この社食で取っ組み合いの喧嘩になったとか、廊下で殴り合いになったとか。
 聞こえてくるのは噂ばかりで事の真相は分からないけれど、総務部から女の園であるうちの部署へ異動が打診された時、特に問答も無く引き受けた。
 まだ入社一年目だった彼女は、短期間の研修で会社の顔である受付の仕事をきちんとこなしていたらしいし、先輩や同僚との関係も良好だったという評価を受けて、男がいない現場なら懸念すべき問題はないだろうと結論付けたのがその理由だ。

 実際、コールツールの使い方を覚えて業務に入るまでの期間は想定よりも短く、OJTの卒業も早かった。
 勘は良いし、就業態度も問題なし。
 数値も安定していて、次の新人の研修担当として育てられないか候補に入れてもいいと越智さんも言っていた。

 『小悪魔っぽくはあるけれど、男好きにも見えないのよね。不思議』

 そう漏らしていたのは小谷さんだったか。
 皆藤さんが何も語らないのはプライベートとして包んで終息したって事でいいのではないか、羽柴さんのその言葉を締めに、以降は誰も話題にしなかったからもうすっかりと忘れていた。

 「…うちの人事部は、優秀…だから、ね」

 わが社の人事部は、鋼鉄と呼ばれる程に口が固い。
 特に社員情報を扱う職員は厳選され教育され、その育成プログラムは他社が講習会の実施を依頼してくる程に有名だ。

 別の方向に深堀する事にならないように、何とか声をあげた事を誤魔化そうとしたけれど、藤代さんがクスリと笑ったのを受けて、私はそれを諦めた。

 二人だけで話したのは初めてだけど、自意識過剰なくらい、自分に対して人が何を考えているのか、無駄に深読みした時期があったから何となくわかる。

 きっと藤代さんのプライベートな一面は、この見掛けに反するところに位置づいているのかも知れない。

 「あ、すごい。噂をすれば、ですよ」
 「え?」

 動いた彼女の視線を追ってみれば、そこにはシステムサポートのメンバーが四人いて、

 「アレが たくみ さんです。キラキラしてますよねぇ」

 トレイを持って一団を率いて歩いているのが、その宮池 たくみ らしい。

 「確かに…」

 額を見せてわけた栗色の前髪はウェービーな感じで、顔立ちも正統派。
 テクニカル系の人は線が細い印象だったけれど、背の高さに加えて、ちゃんと鍛えてますって感じの身体にベージュの春物のジャケットがとても似合っている。

 『わかり易いイケメン』

 皆藤さんがそう例えた理由が分かった。
 確かに、その隣に立つサクさんと違って、宮池さんは一目見て直ぐに特別枠に分類できる程の格好の良い人だ。
 そのイケメン度は余りにも周りから抜きんでていて、

 …サクさん――――――つまり室瀬さんは、前髪や眼鏡で顔を隠すよりももっと効果的な手段として、この宮池さんの威光を利用している。
 キラキラ眩しい人が周りにいれば、大抵は影となって埋もれるだろうから、最初から地味っぽく装っている室瀬さんにとって、その効果は絶大だと思う。

 「室瀬さんもぉ、よく見れば綺麗な顔立ちに入るかなとは思うんですけどぉ、ああいう訳ありな感じは好みじゃないんでぇ」
 「…訳あり?」

 凄い。
 本当の顔を知っている私でも気づかないくらいの隠し方なのに、藤代さんは気づいていたんだ。

 「あの人ぉ、イタリアのブランドのシャツ着てるんですよねぇ。日本には店舗無くて、直接行くかお取り寄せかのシャツ。しかも一着二万くらいのシャツですよぉ? それを色違いで持ってるんで、もしかしてお金持ちなのかなぁって、それが室瀬さんを観察する切っ掛けになったんですけどぉ」
 「そのシャツって、ここに刺繍が入ってる…?」

 襟の部分を指して聞くと、藤代さんは少し驚いたように目を瞬かせた後、肯定した。

 「そうですぅ。余程の服好きじゃないと知らないブランドなので、気付いている人はいないと思いますけどぉ」

 昨日、室瀬さんとすれ違いざまに目についた、緑のシャツの襟にとられた刺繍。
 あれは、 あの夜 ・・・ にサクさんが着ていたシャツと色違いの同じ物だった。

 目の覚めるような赤のジャケットを脱いで、その下から上品な光沢のある黒のシャツが出てきた時、その辺りで量販されている品ではないような気がして、無意識にロゴを求めたからこそ気が付いた印。
 自分を高く売るホストは、きっと身を包むものにも拘っている筈で、サクさんに良く似合っていたあのシャツはどこのブランドだろうと、あの後、一度だけ――――――とは言ってもかなり長時間検索をかけて徒労に終わった事は記憶に新しい。
 国内に取り扱い店舗がないのなら、辿り着けなくて当然だ。

 「意外ですぅ。西脇さん、ああいう室瀬さんみたいなのが好みですかぁ?」
 「え?」
 「だって今、――――――あたしが知る中で、ダントツに興味を以って耳を傾けているような気がします、西脇さん」
 「藤代さ…」


 語尾が、伸びてない。
 そう気づいて、正面から真っすぐに、藤代さんの視線を受け止めた時だ。

 「あれぇ、藤代さんじゃん。今昼休み?」

 そんな言葉を私達の間に割り入れたのは、顔を上げて見れば宮池 たくみ で、

 「やだぁ、 たくみ さんじゃないですかぁ。今日は十三時からでーす」

 その直ぐ後ろに立っているのは、室瀬さん。

 「そうなんだ。あ、カツ丼美味しそうじゃーん。ねぇ、ここ一緒していい?」

 軽い調子の宮池さんのお伺いに、嘘、と私の内心は強張った。
 そして、私のこの反応に気付かれたなら、室瀬さんが前髪の向こうでほくそ笑んでいるかも知れないと、何だか悔しい気持ちになる。

 「えぇっとぉ、実は今、女の子同士のお話し中でぇ」

 ――――――え?


 あんなに慕っているように見えた宮池さんからの申し出だから絶対に承諾するだろうと思っていた藤代さんから出てきたのは、想定外のお断り文句で、私は思わず目を見開いてしまう。

 「あ〜、女の子同士の内緒話か。なら無理にはお邪魔出来ないかなぁ」

 特に気を悪くした風でもなく、さらりと応えた宮池さんはさすが女子の扱いに慣れているというべきか。

 「さすが たくみ さん。見た目だけじゃなくて中身もイケメンですねぇ」
 「でしょ? 君が早くこの魅力に陥落してくれるといいんだけどなぁ」
 「やだぁ、そんな事口癖みたいに言うからぁ、会社中の女の子が本気にして騒いじゃうんですよぉ」
 「女の子は、そういう純粋なところが可愛いよねぇ」
 「もう、 たくみ さんったらぁ」
 「あはは。それじゃあ、西脇さんも、良かったらまた今度ね」

 手を振って、トレイを片手に奥へと進んでいくその姿は、――――――個人的に、話し方は軽すぎる気がするけれど、見た目を裏切らない颯爽としたイケメン振りだ。
 食堂にぽつぽつと点在している女子達の視線をすっかり一つにかき集めてしまっている。
 他の二人はそんな事は慣れっこなのか、この雰囲気をものともせずにさっさと次の席を目指して歩きだしていて、その後ろをついていく室瀬さんの目線だけはどうしてか私に向けられているような気がして、耳の後ろがじんじんと痒くなった。

 息をかけられた瞬間や、首を這った舌の感触を思い出す。


 「――――――西脇さんって、結構顔に出るタイプだったんですね」
 「え?」
 「隠したいならもっと気を付けた方が良いと思います」
 「藤代さん…」
 「多分ですけど、 たくみ さんも気が付いたかも知れません。西脇さんが誰かを意識して同席を拒否したって」
 「…あの」

 言いかけて、私はハッとした。

 「宮池さん、私の名前…」


 あまりにも自然に呼ばれて気づかなかった。
 初対面の筈なのに、どうして名前を知っているのか。

 まさか室瀬さんが――――――?


 変な方向に想像が働こうとした私を、藤代さんの声が止める。


 「別に大丈夫ですよ。あの人、うちの会社の女子の名前は全部把握してるって噂ですからぁ」
 「…そうなの?」
 「噂ですけど」
 「…」

 お箸で、一口大にカットしたカツを可愛らしい口の中に放り込んでいく藤代さんに、また新たな発見をする。

 「…私、藤代さんは、気になる人に会うって知ってたら、パスタにしておけば良かったって、全身で悔しがるタイプの人かと思ってた」

 気が付けば口を突いて出てしまっていたそのセリフは、どんな風に藤代さんに届くのだろう。
 いつもの私なら、決して思っていても音にはしない言葉。


 ふと、藤代さんの目がテーブルに落ちる。


 「…会社での顔は、所詮は余所行き顔ですよ。人によって、どう見せたいか、その価値観は違うと思いますけど」
 「藤代さん…」

 言いかけて、けれど何を言えばいいのか分からなくなる。

 誰だって、自分しか知らない顔を持っていて、
 誰だって、見せる顔はきっと自分でルールを作って持っている。

 私が、会社では眼鏡をして顔を晒さないようにと俯いているように。
 お洒落をして、面倒な誰かの目に留まってしまわないように。

 「そうだね。私も、よくこうした方がいいのにって言われてる自分と、今の自分の違いは、きっと明確じゃない」

 見た目が違うだけで、根本的な私の中身の何が変わるというのだろう。
 でも、お洒落は自分がいる時だけにして欲しいと、元カレのその欲求は解りやすく、そして私の中身を相手にしているからこその願いなのだと信じていた。

 だから、彼が結婚相手に選んだ女性が、その手のタイプだった事にもとてもショックを受けたんだ。

 「知ってしまえば、ここにいる藤代さんだって、あまり変わらないように思えるもの」
 「西脇さん…」

 ミスコンの後、私はあの手この手と騙されながら、何度もそのタイプの女の子達が主催する合コンの餌にされた。

 西脇さんがそれを使っているならそれにしよう。
 西脇さんがそれを食べるのなら私もそれにしよう。
 今日のマニキュアの色は何?
 服の色は?
 髪型は?

 私の真似をしたら彼氏が出来たと、戸惑う私にそう嬉しそうに報告してくれた彼女達の幸せは束の間。
 しばらくすれば、私のせいで彼氏と別れたと理解出来ない主張を何度もされて、挙句には私が浮気相手。
 人の彼氏を寝取る女だと大学の掲示板にイニシャルで投稿された。

 二カ月が経つ頃には、巻き込まれた彼女達の元彼達や、私を信じ続けてくれた数少ない友人達の協力を得て、理不尽に騒いでいた彼女達には大学側が警告を発して収まったけれど、今でも、それを信じている人はいる筈だ。

 だからこそ、私は更に向けられる視線に敏感になり、自分の弱い部分に何度も負けそうになっていた。


 「――――――あたし、西脇さんには、室瀬さんはあまりお薦めしたくないですねぇ」
 「え?」

 不意に発せられた藤代さんの言葉に、私の思考は、学生時代の記憶から目の前の時間へと引き戻される。
 首を傾げて見せる事で、無言のまま、私はその続きを促した。
 きっと言う気が無いのなら、藤代さんは声にしなかったような気がしたからだ。


 「あの人、多分借金があるんです」
 「借金…?」
 「それも数百万単位の」
 「数百万…」

 どうして、大手企業に勤める彼がホストなんてやっているのか。
 密かにめぐっていた疑問が、解けたような気がする。

 「あたし、前に受付してたじゃないですかぁ? 金髪の、派手な格好した人が時々尋ねて来てたんで、まあ、それでも見て見ぬ振りしてたんですけどぉ」

 でも、一部では有名な話ですけどね。ここのロビーにあの金髪は目立ちますし。

 そう付け加えながら、お箸で最後のお米ひと粒まで綺麗につまんで食べきった藤代さんは、お行儀よく両手を合わせて「ごちそうさまでした」と小さく頭を下げ、それから改めて口を開く。

 「でもぉ、前に駐車場に向かう途中で、偶然見ちゃったんですよねぇ。室瀬さん、その金髪の男に、もう待てねぇとか、三百万とか、早くしろとか言われててぇ」
 「三百万…」

 社会人五年目、システムエンジニアとして給料を多めに考えたとしても、三百万は結構な大金だと思う。

 「相手の声はちょっと荒くなってたんですけど、暴力的って言うか、最悪険悪って程でも無かったので守衛さんは呼びませんでした。あたしもあまり関わらない人ですし。…でも、西脇さんがあの人を好きになっちゃうと、ちょっと嫌だなぁって思いますので、敢えて告げ口しておきますねぇ」
 「藤代さん」
 「あ、もうそろそろ二時になりますよぉ。戻りましょうかぁ、西脇さん」

 言いながら、既に行動に移していた藤代さんは、私が一線を引いて見ていた彼女とは今はまったく違う人に見える。


 あれからずっと、私は人を嫌いになり過ぎて、
 特定の人以外をちゃんと見てこなかった人生を歩んできた。


 そのツケが、もしかしたら今になって底の浅い人生観として回ってきているのではないのかと、
 私は初めて、自分の未来への不安というものを、モノクロのまま実感したような気がしていた。








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