『また週末に、オレを買ってよ、西脇
眼鏡をずらし、前髪をかきあげた事により露になったその額の下で、魅惑たっぷりの眼差しが挑発的に私を見つめていた。 エレベーターという箱の内と外、距離は1メートル以上も離れていたのに、その言葉の合間に紡がれる吐息が聞こえている気がしたのは、私の中にあの夜の事が鮮明に残っているからだ。 "まだだ、イケよ、ほら" お互いの睫毛が触れ合う位置で、その目線は、私の思考ごと頭をベッドに固定して縫い付けて、 "待って、ぃや、ぁ、ああッ" どうしてこんなに動く事が出来るのか。 指を絡めて、全身で私の自由を奪ったサクさんの腰の動きはまるで限界を知らない "ココ? それともココか、な!" "ああああぁッ" その振動のような動きから、時々奥を抉るような衝撃は、私の息を止めそうな程の強い痙攣を体に "ココ好きか?" "ああ、もうやめて、もう動かないで" "好きだろ、好きって言え" "やぁあああぁぁッ" "言うまで終わらねぇぞ、ずっとこのままか? あ?" "あああ、好きぃ、好きだから" "サヤッ" "好き、すき、ッ、いくぅ、…ぁッ…っ" それは、私が知らなかったセックス。 そして、知らないから出来なかったセックス。 時折名前を呼び、耳元で好きだと囁かれる事以外はほとんどが無言のセックスは、元彼と付き合っている時は嫌いじゃなかったのに、それが私と 『彼、あたしと初めてシタ時、ボーゼンとしてたの。凄い、こんなの初めてだって』 綺麗に巻いた髪が、首を傾げた弾みで左右に揺れて、とても可愛い人だった。 『あ、もしかして悪い事言っちゃった? ごめんなさい、そういう意味じゃなかったんだけど…』 眉尻を下げて、困った様子で声のトーンを下げながらも、口元は楽しそうに上がる彼女達のようなタイプは大学でもなかなか彼氏が切れる事は無い。 男の人はやっぱり、昔の文学小説で現わされるような、"昼は淑女で夜は娼婦"、そんな女が理想なのだろう。 『週末に、オレを買ってよ』 週末。 今日は金曜で、そして時計はもうすぐ夕方の5時を指す。 あの夜に辿り着くまでの間にメールのやり取りをしていたスマホは解約したし、コンタクトがあるのなら、会社のチャットを利用する以外は方法が無いと思っていたけれど、 「…まさか、ね」 電子錠のドアの向こうが、無性に気になってしまった終業前の時間。 「お疲れ様でーす」 「お先に失礼しまーす」 時計が5時を示して三分も経てば、早番のコールテーカー達が退社へと列を成す時間になる。 「西脇さん」 その人の流れを割って奥から颯爽と現れたのは、シックな黒のパンツスーツ姿の越智さんで、 「来月の報告会議はあなたもここからWebで参加してね。アカウントは申請済み。会議までには届く筈だから」 「私、がですか?」 驚きと戸惑いで言葉が切れてしまった私を気にする様子もなく、席に戻って椅子に座った越智さんも、流石に週末の気怠さを醸し出していたけれど、それすらもキャリアウーマンっぽく目に映って素敵だ。 「主任って肩書がついたからには、あなたもこの部署の利益を算出する側に回ってもらうわ」 ただ会議を聞けという事ではなく、一般から一つ抜きんでた職位となる業務主任は、それなりの責任を負うのだという教えも兼ねるという事。 ちなみに、この部署では初めて抱える役職で――――――もしかしたらその役割の必要性を模索しているのかも知れないと考え至る。 だとしたら、私が残す実績が、下に続く後輩達の岐路を増やせるかどうか、そこに結びついてくる話になる。 「――――――はい、解りました」 辞令を受け取った時よりも真剣な考えで覚悟を決めて、私は既にこちらを見ていない越智さんに頷いて見せた。 ふと、気配を感じて視線を上げると、越智さんの向こう側から藤代さんが私を見つめていて、 「お疲れさまでした」 反射的にそう言った私に、彼女は特に表情の無かった自分の顔を、明らかに作って笑わせる。 「お疲れ様でぇす。お先に失礼しまぁす」 その小首を傾げた可愛らしい仕草と、何かを含むような唇の端の上がり方が、今なら判る。 なんてミスマッチなのだろうと。 「…」 藤代さんが部屋を出て、再び電子錠がロックされた音を聞きながら、眼鏡のずれを、指先で押さえて調整した。 たった一度、二人だけで話をしただけなのに、藤代さんをとても近く感じている自分に、ほんの少し戸惑っていた。 結局、PCを落とす時間になっても室瀬さんからのチャットは無く、私はこれ幸いとばかりに急いで片づけを始める。 あんな言葉を切っ掛けに、私から連絡をとる必要は無いと思うし…もし、室瀬さんがそういう意味で私を脅そうとしているのなら、事は受け身でいい筈だ。 もし彼が脅して来るなら、私にも切り札はある。 「お疲れさん」 立ち上がったところで、少し前に席に戻ってきていた皆藤さんに声をかけられ、私は一礼した。 「お疲れさまでした。お先に失礼します」 「おう。また来週な」 電子錠を解除して部屋を出る。 拭いきれなかった僅かな予想を嬉しく裏切られて、廊下は無人だった。 ここはうちの部署が占有していると言っても過言ではないブロックで、この時間帯に退社するのは私くらい。 静かな廊下を平常心を努めて歩いて、角を曲がる。 ――――――いない。 再びカードで電子ドアを開け、私物を置いてあるロッカールームに入り、白のトップス、明るい茶色のチノパン、上から黒のシースルーのカーディガンを着て、社内用のローヒールから、ベージュの少し高さのあるミュールに履き替える。 手櫛で前髪を額に集めて、眼鏡を位置を直し、ロッカーの内側に貼り付けられた鏡の中の自分を見た。 朝、嗜み程度で施した化粧は既に無いに等しくて、口紅はきっとランチと一緒に食べつくしていた筈だ。 "心配なんだ。 「…帰ろ」 目を閉じて、一つ息を吐く。 それから再び目を開けて、気分を仕切り直すようにロッカーを閉めた。 肩に下げたバッグに手を添えて、足早にロッカールームを出る。 この時間帯のエレベーターは混んでいるから、この三階から一階のロビーまでは階段を使うのが習慣。 健康志向からか、階段を使う人は少なくなくて、かなりの頻度で上って来る人とすれ違い、後ろから追い抜かれたりもする。 自分のペースでロビーに出れば、そこで始まっているのはいつもの帰宅ラッシュ。 わが社の総従業員数は二万弱で、本社と呼ばれるこの建物に常勤しているのは確か千二百人くらい。 同じ会社に勤めながら、それぞれ接点がある人はほんの僅かだから、誰もが駅と同じように他人顔で帰路へと進むのが普通だ。 守衛さんが複数立つセキュリティチェックを順番待ちで通り、屋外に出て約九時間ぶりの外の空気をお腹いっぱいに吸い込んだ。 ほんのりと夕暮れ色の空。 まだ冬の透明度と冷たさを孕む空気は、自然に囲まれているだけあってとても美味しい。 窮屈ではないけれど、閉塞感が無いわけではない"職場という密室"からの解放は、ここに来て深呼吸をした今で 今日の晩御飯は何にしよう。 人の群れに紛れるようにして、敷地内の整備された広めの歩道を進めば、次は公道の狭い歩道へと一列で並んで歩く。 最寄り駅やバス停、徒歩圏内にある幾つかの社員寮へ帰路が分かれ、十字路ごとに道連れはだんだんと減ってきて、 日曜は逸美とランチの約束があるんだっけ。 なら今日は軽めでいいかも。 サラダにしようかな。 うん、このままスーパーにアボカド買いに行こう。 二駅先に住んでいる私の近所にはコンビニしか無くて、突発的な買い物はマンションの一階にあるそのコンビニ、食材や日用品の買い物はネットスーパー。 会社帰りなら、少し遠回りにはなるけれど、駅に行くルートを変えれば格安スーパーに立ち寄れる。 私は、いつもなら真っすぐに進む交差点を、横断歩道を使って左に曲がった。 歩いている内に刻々と時間は進み、辺りが少しずつ薄暗くなって、主要な外灯が自動で点灯し始める。 準ミスとして大学のHPやSNSを中心に顔が晒され、思いがけず騒がれて過ごす事になってしまった大学での一時期、こうして外を歩くと必ず知らない男の人に声をかけられた。 友人達の協力を得て、なるべく一人にはならないようにしていたけれど、突然休講になったり、どうしても買い物が必要になったり、そんな時に出会う人は何故か執拗な男の人が多くて、スマホを緊急電話の画面に変えたり、防犯アラームを見せる事で威嚇しながらなんとか振り切った。 行く手を阻むように視界に割り込んできた車から、家まで送るからと下心見え見えで誘ってきた事もある。 「こんばんは。今ならキャンペーン適用でお安くお買い求めいただけますけど、一晩いがかですか?」 「…ぇ?」 徐行で横に並んだのは、色は何色か判らないけれど、左ハンドルの高そうな車。 外灯が映り込むだけではこうまで光沢がないのでは? と訊きたくなるくらいに光っている。 そして、窓を開けて私を見上げ、魅惑的な眼差しを流しているのは――――――、 「サクさ」 窓から投げだした腕は、前回とは違って物凄くシルエットの綺麗な黒のジャケット。 後ろに流して固めた髪の先が、襟足のところでツンツンと立っている髪と交わって、垂らした右側の綺麗さと相まっている。 「週末は、 そう言ったサクさんの掌が、私の前に差し出された。 「や…約束は、してません」 ブロック塀へと背中を預けるようにして、車から一歩後ずさる。 「あれ? もしかしてサヤ、断れるとか思ってる?」 薄闇の中なのに、目が細くなり、唇の片端が斜めに上がったような雰囲気が何となく伝わって来る。 やっぱり、私がホストを買ったという事に対して、脅しの材料にするつもりなんだ。 「…はい」 「ふうん?」 不気味な沈黙が少しあって、 「お前さ、断ったらまずことになるとか、考えないわけ?」 「まずい事…?」 「大手通信会社の社員がホスト買ったとか、巷ではよくある話でも、社内では 「それは…」 確かに、ホストを買った同僚なんて、あまりにも醜聞がすぎる話だ。 幾らアレがちゃんとした商売だとしても、女がホストを買ってそういった行為を求めるなんて、男の人が風俗に行ったと噂される事とは意味合いにかなりの格差があって、広まれば、私はかなり痛い結果を見る事になると思う。 でも、 「でも、そしたら私だって」 私は意を決して、サクさんを強く見下ろした。 「――――――私も、言いますよ?」 「ん?」 キョトンとした顔で、サクさんが私を見つめている。 「私も…、室瀬さんがホストしてるって、そう言います」 不愉快そうに、サクさんの眉間が寄った。 「プ、…プライベートで風俗に行っては駄目だと、社則には明記されていませんが、副業を禁じるとは、罰則行為として記載があります」 ハッと、サクさんの目が見開かれた。 「私とじゃ、リスクが違い過ぎるんじゃないですか?」 「…」 私に伸ばされていたサクさんの手が、ゆっくりと車内に戻されてそのまま額にあてられた。 顔を隠して俯く姿に、ほんの少しだけ胸が痛む。 「サクさん…私――――――」 こんな風に、会いたくなかった。 私に女としての悦びを教えてくれたサクさんとの事は、翌朝に見た空の色のように、綺麗なまま、透明なケースに入れてリボンをかけて、記憶の棚の奥に仕舞って、それで完全に終わりたかった。 時々、その綺麗な時間を愛おしく振り返りたかった。 「…ッ」 サクさんから、短い吐息が漏れた。 驚いて目を上げて見れば、その肩がはっきりと震えている。 嘘――――――もしかして泣いてる、の…? 「サクさ――――――」 心配になって、思わず進み出てしまった私の腕が、 「えッ!?」 あっという間にサクさんの手に掴まれてしまった。 なんで? どうして? 後ずさりしようとしても、その力の強さに半歩すら離れられない。 「ちょ、サクさ」 「くくく」 ――――――え? 「くくッ、はは、やべぇ、サヤ」 愉しそうに、サクさんは笑っていた。 上下に肩を揺らして無遠慮なその仕草は、ベッドの上で私を攻めていた時のような、支配者のムードが垂れ流し。 「やっぱ、可愛いわ、お前」 「なッ、」 もう一度、体ごとで逃げようとしたけれど、サクさんの拘束でピクリとも動けない。 「残念ながら、オレはお前ンとこの会社の社員じゃない」 「…え?」 「っていうか、別に本業がある立場で、特別契約であそこに所属してる身。つまり、お前と同じ会社にいる事自体が、オレからすれば副業って扱いなワケ。もちろん、双方合意の上ね」 「嘘…」 「つまり、サヤが心配するようなリスクは、オレにはゼロ」 「サク、さん…」 漆黒の髪が風に靡く。 艶めかしく光るのは、車体か、肉食獣のように欲望を覗かせる眼差しか、それとも、唇を舐めた塗れた舌――――――。 「ほら、これで心配事は無くなったワケだ」 「…」 「オレを、買うだろ? サヤ」 「…」 「それとも――――――もう他のホストを予約済みか?」 「ちが、ぁッ」 引っ張られた手の甲に、サクさんの唇があてられた。 「…ぅ」 舌が…サクさんの舌が、肌を味わうように動き回る。 「ぁ…ッ」 親指の付け根を吸い上げ、有り得る筈もないエクスタシーの片鱗が、なぜかそこに溜まりかけている。 「オレを買うだろ? サヤ」 わざと音を立てたキスが、指先に、手首に、サクさんの思いのままに送られてくる。 「やめ…やめて、お願い、しま、サクさん、私は――――――」 「別に脅したいわけじゃない。ギブ&テイク。オレとのセックスは悪くなかっただろ?」 「…でも」 あの日の事は、一度だけだと自分を何度も言い聞かせて、やっと勇気を振り絞って飛び込んだ事だったのに。 「……今日の相手にオレを選ばないなら、来週は、 ――――――酷い。 素敵な思い出をぐちゃぐちゃにするどころの話じゃない。 色んな思いで怒りが込み上げてくるのに、 「…ッ」 けれど、どんな言葉で罵倒すればあの夜のサクさんへと届くのか、今の私には答えが出せそうに無かった。 唇を内側に噛み締める。 どうして、 どうして――――――…、 "あの人、たぶん借金があるんですよ" お金…? その為に…? 考えが、一つに纏まろうとしていたその時、 パァァアァァ、パァパァッ、 クラクションを派手に鳴らされて振り向くと、サクさんの車が道を塞いでしまって数台が動けなくなっている状況に気が付いた。 「おっと。とりあえず乗れ、サヤ。ラチあかねぇだろ」 「…」 「お前が動かない限り、オレも一切動かない」 ピーィィィ、パァァァ、 「どうする? サヤ」 「…」 車の通りは少ない路地に、何故か今日に限って、後から後から車が入ってきているようだ。 「…今は、お金、持ち合わせがありません」 一晩なら、安く見積もっても七万はいる筈だ。 指名料が取られるのならもっと、脅してお金を巻き上げるつもりなら、オプションを最大にいれて二十万は覚悟しないといけないかも知れない。 「――――――お前は逃げようもないからな。特別にツケといてやる」 サクさんの眼差しが、ゆっくりと右側の助手席へと動く。 回って来て、自分で乗り込めと、そういう指示だ。 「わかりました」 私は、緩んだサクさんの手から自分の腕を引き抜いた。 車の前方から急ぎ足で助手席側に回り込み、後続車の運転手に向けて一礼してお詫びの気持ちを伝えてから、ドアを開けて車へと乗り込む。 「ようこそ」 「…」 好きだと思っていた声が、じわりと私を悲しくさせた。 あの夜は、あんなに熱く感じられたサクさんからのキスの跡。 まるで媚薬のように私の肌に浸透してきたサクさんの唾液が、今夜は、風に晒されて冷たく壊死して、私の心以上に冷えていた。 |