「お、あっちはライオンがいるらしいぞ。その向こうがコアラな」
パンフレットを片手に少し前を歩く、…そう言えば、意外とお昼も似合うんだな、という印象を私に上書きしたサクヤは、時々私を振り返っては、目を細めた。 「ゾウにエサやりとかするか?」 「…しません」 「…」 あ。 「…しない」 「――――――ふうん。じゃあ鯉にエサやり?」 「…どうしてエサやりがメインイベント的な扱いなの?」 「サヤがしたいのかと思って」 「しません。――――――あ」 また敬語を使ってしまい、気まずくサクヤを見上げれば、彼は口の端を上げていて、 「別にそんくらいはいい。そこまで神経使えって話じゃない」 「だったら敬語でも」 「それはまた別。お、ワニ」 「…」 読めない。 何がしたいのか、私に何をさせたいのか、サクヤの望んでいる事が何なのかが全く量れない。 「池のあっち側が座れそうだな。そこでメシ食うか」 手を引かれるまま、小さな子ども連れが目立つ日曜の動物園を歩き続ける。 あまり高いヒールじゃなくて良かったと思いながら、サクヤに声をかけられては檻の中の動物を眺めて、晴天の太陽に消毒された空気に混ざる、自然の――――――時には鼻をつまみたくなるような匂いを笑いながら、 「きゃあぁぁあ、パパ、やだぁ」 「あはは、ほうら、高い高いだ」 たくさんの足音。 たくさんの笑い声。 たくさんの家族の輪。 何となく、幸せが目に見える場所だなと胸に沁みる。 そう言えば、動物園に来たのは何年振りだろう。 最後に行ったのは小学生、――――――もう十五年も前だ。 「お、ラッキ」 柵で囲まれた大きな池を目の前に臨むテーブルをタイミングよく確保したサクヤは、その勢いのまま私を椅子に座らせ、持っていたお弁当をテーブルに置いた。 「飲み物買って来る」 「え?」 私が焦って顔を上げた時には彼はもう既に歩き出していて、呆気に取られて見つめるしかない私の視界の中を駆け足で進み、百メートルほど先にあるワゴンショップの列の最後尾に並んでこちらを振り返った。 目が合って、――――――ふと、遠目にも笑ったような気がしたのは、サクヤの側を通りかかった女の子達が嬉しそうに彼をチラチラと見ているからだ。 逃げるように目を逸らす。 でも、それがサクヤに露骨に伝わるのが嫌で、食べる準備をするからだと良い方に自分に言い聞かせながら手を動かし、覗くようにしてお弁当箱を開けてみた。 「ぅわ…」 サンドイッチにしては随分と重さがあると思っていたけれど、 「…凄い、アソート五つ、全部二個ずつ…」 ただならぬ雰囲気を醸し出していた箱の見た目を、中身はやっぱり裏切らなかった。 卵にカツにトマト、これ魚? パンの種類も見て判るだけで二種類使われていて、 「デザート…?」 仕切りを間にサンドイッチに垂直に詰められている白いパンの中は苺とクリーム。 そのバリエーションももちろんだけど、 「…これ、本物…だよね?」 疑いたくなるくらい、具がぎっしりと詰まった、それでいて食べやすい大きさにカットされているサンドイッチは潰れているところなんか見当たらないくらいに綺麗で、これはもう絶対、掴んだら跡がつく。 空気に触れさせる事すらこの芸術的なサンドイッチに罪な事のような気がして、思わず蓋を閉め直してしまった。 サクヤの方を見ると、順番まではまだ時間がかかりそうで、何となく身の置き所がなくて顔を上げる。 不意に、池の景色に何か鮮やかなものが動いた気がして目を向けた。 「あ…」 フラミンゴ。 池の向こうで群れているのは、鮮やかな桃色のフラミンゴ達。 まるでお祭りでみかけるワタアメのような濃いピンク色から、桜のような淡い色の子まで、羽を広げたり毛づくろいをしながらこちらへと進んでくる景色はまるで、私が立つ人間側の世界とは別モノのように美しかった。 この広い、およそ人工的な水辺に放たれて、優雅で、艶やかで、とても自由に見えるけれど、決して自由じゃない。 動物園にいるフラミンゴは翼を切られていて飛べないんだと、初めて知った時は図鑑を片手に大泣きしたっけ。 「おまたせ」 テーブルに、ハートに曲げられたストローがささるプラスチックのカップを置かれ、声の主を見る。 「――――――ああ、フラミンゴ見てた?」 「…うん」 「それも、恋が叶うって触れ込みのドリンク」 「…うん」 炭酸が弾けるピンク色の飲み物が入ったカップには、フラミンゴが二羽重なる事で描かれるハートがうっすらとデザインされていて、 「食うか」 私が大事に仕舞い直したサンドイッチを、サクヤはぞんざいに掴んで取った。 同時に、反対の手で蓋が被されているカップの飲み口を開ければ、漂って来るのはコーヒーの香り。 「ほら」 箱を私の方に押しやられて、お腹が空いているのは間違いないし、促されるまま今度はしっかりと手に取った。 意識もせず手前から取ったサンドイッチは真っ赤なトマトが分厚く挟まれたサラダサンドで、 「…美味しい」 一口食べれば、トマトの甘さと、それを引き立てるレタスやハム、アボカドの絶妙なバランスに驚きが零れる。 「だろ? あそこは昼のバイキングもなかなかなんだ。また今度行こう」 今度って…、 「…」 あまり深く考えるのは、今日はよそう。 疲れが極限に来たのか、思考もうまく纏まらないのは、サクヤの突飛な言動に惑わされてきてしまっているからだと思う。 今、口を開いたら、知らない内に貯金も定期も空になってしまいそうだ。 「ほんと美味しい…」 身体が求めるままに食べた二口目も、やっぱり美味しくて、 「フラミンゴって、産まれた時は真っ白って知ってた?」 無防備に飲み込む寸前だったタイミングでそんな事を言われて、私は咄嗟に動きを止めた。 目線だけを上げて、池の彼方へと視線を止めているサクヤをジッと見つめる。 「あのピンク色は、エサになってる藻の色素が沈着したからなんだと」 「…」 私は、指の跡がくっきりと残った食べかけのサンドイッチを箱の端に置いて、詰まりそうになる喉にピンク色の飲み物をストローからコクリと飲んだ。 途端、甘酸っぱい酸味と柔らかい炭酸の刺激が、私の中の遠い記憶をまさぐってくる。 「毎日毎日、ひたすらピンクの素を食べ続ければ、生まれ持ってきた羽根の色だってああして染め変える事が出来るんだ」 足に何かが当たった。 そう思った時には既に、私の片足は、サクヤの両足の間に挟まれていて、 「中出し続けてるとさ、しばらくセックスしなくても、女の愛液からそのマーキングした男の精液の匂いがするらしいよ」 ゆっくりとサクヤの眼差しが私に戻ってきたのが視界の隅に見て取れたけれど、 「この話さ、なんかグッとコナイ?」 聞こえない振りをしたいサクヤの声が、じわじわと私の中をかきまわす。 「ねぇ、サヤ」 足の一部が、靴やヒールを通してただぶつかっているだけなのに、 「あと何回抱いたら」 肌が触れていなくても、ベッドで押さえ付けられていた時の感触が、血脈のように体を駆け巡る。 「全部オレに染まんの?」 風が凪ぐ。 まるで、時が止まったかのように空気が音を持つ。 「サヤ?」 その声音は、他意などないかのように。 眼差しは、とても意味ありげに。 「…」 そんなサクヤに、私は何も返せない。 返さない。 これは…ホストして私を堕とす為の戦略? それならいい。 でももし、そうでないとしたら…、 ――――――どうして? 動物園。 フラミンゴ。 そして――――――、 "フラミンゴはね、 「…」 いつの間にか、両手で握り締めていたピンク色のカップには水滴が幾つも付いていて、 「…サヤ?」 再び甘く呼ばれれば、カチリ、と。 音を立ててプラスチックが歪んだ事で、流された粒が合わさって、私の指の間を滴り落ちる。 「あなた…は」 再び目線を合わせて、それでも言い淀む私を、サクヤはただ楽しそうに見つめるだけで、自ら何かを切り出す気は無いようだ。 「あなたは、」 あなたは、 "誰――――――?" 疑問が、口を突いて出そうになった瞬間、 「PiPiPiPiPiPi――――――」 バッグの中から聞こえてくる着信音に、それは見事に堰き止められた。 「この私のランチをすっぽかして何をしてるのかと思ったら、ほんっ、と何してるのよ」 目の前で憤慨しているのは高校の時からの親友、逸美。 耳が隠れる位のショートボブは昔からのトレードマークだけど、その下に見える大振りのピアスを好んでするようになったのはここ数年の事。 海外に出るようになったからかなと思っていたら、どうやらホスト遊びを始めた事が、今だから私に語れる 「しかもあの時のホストとまだ会ってるって、一体どういう事なのよ!? 一度だけって言うから賛成したの。 「ご、ごめん…」 でも、ちょっとだけボリュームを落として欲しくて、「シー」って言いながら唇に指をあてたら、どうやら火に油だったみたいで、 「なんで本人がそんな呑気な顔してんのよぉッ!」 「…ぅ、うん…ごめん」 金曜の夜からホテルに缶詰めで、日曜に逸美としていたランチの約束をすっかりと忘れてしまっていた。 三十分経っても連絡すら寄越さない私の携帯を鳴らしたのが、心配と怒り少々の逸美だったけれど、慌てて動物園を飛び出そうとした私をサクヤがこの近くまで送ってくれて、一時間半遅れながら、無事に到着した私の姿を見て安心したのか、今の逸美は怒りがほとんどという塩梅。 現在進行形で心配をかけている自覚はちゃんとあるので、私も二言目には謝罪しかない。 「――――――それにしても、そのサクヤってホスト、」 「まず 「え…? そうなの?」 「うん。サイトに表示されてる値段から二割くらい差し引いたのがホストの収入で、でもそれって、店の看板借りてるから出来る商売でしょ? ホストが二回目から個人営業で持ってったら店側は利がないじゃない」 「そっか」 「これも 「え?」 「バレたらヤバイ、そんな爆弾背負ってるのは向こうでしょ。お店に言えば一発」 眉を上げて勝気に言う逸美に対して、私は思わず無言になる。 「ちょっと 逸美が、しかめ面で椅子の背もたれに倒れ込み、両腕を組んだ。 「しっかり絆されてるじゃない。しっかりしてよ、もう」 「…ぅん」 絆されている。 腑には落ちたけれど、そうなのかと改めて自分に問うと…なんだか少し違う気もする。 確かに、サクヤはとても近い存在になってしまった自覚はあって…、だけどそれは体だけの事で、 擦り合う肌触り。 溶けあう体温。 私を抱き締める腕の強さ。 私を攻め立てる息の激しさ。 目的は何なのか、私をどうしたいのか、彼の言動からは全く答えに辿り着けない。 でも、 「"二人で動物園に行って、フラミンゴのハートを眺めながらサンドイッチを食べて、気が付いたらあっという間に時間が過ぎてたって、そんな楽しいデートが理想です"」 「ゃ、ちょっと逸美!」 手をマイクのように扱い、少し俯き加減でかつての私の真似をした逸美に、流石にムッとしてしまう。 「あはは、ごめんごめん」 「ううぅ、酷い」 思わずテーブルにうつ伏せた私の頭に、逸美の笑い声が小さく続く。 「ふふ、だって、この時の 「…女子からはさんざん"ぶりっ子"って指差されたけどね」 「そう言えばそうだったわねぇ。うちの母さんが"ぶりっ子"って今でも使うのねってはしゃいでたの思い出したわ。でもま、男子は大半が悶えて結果オーライ。おかげで得票数は伸びたし、ああ、 「…初耳ですけど」 「実行委員会の戦略勝ちね。ほら、私、会場で投票券売りしてたから。思えばあの頃から、私ってばプレゼンの才能あったわ〜」 「もう…ッ」 それは、大学のミスコンでのインタビュー。 私を綺麗にしてくれた友人達の頑張りを無駄にしないように、舞台に引っ張り出されても震える足で踏ん張って頑張り、理想の初デートは? という司会の問いに、大真面目に答えたのが 動物園。 フラミンゴ。 サンドイッチに、 「――――――アセロラジュース…」 " そう言って微笑む父が持ったピンク色の飲み物を、私はいつも見上げていた。 炭酸水に、とくとくと注がれたアセロラジュースは、鮮やかな濃淡で氷と戯れ、渦の中に色を落ち着ける。 "パパがママを大事にすると、ママは幸せそうに笑うだろう? 今のママが凄く綺麗なのは、パパに愛されて、その幸せに染まって咲いているからだよ" "すごいね、パパまほーつかいみたい" 背伸びをしながら両腕を伸ばして、私はいつも、その眩しい恋色のジュースを大事に抱え込んだ。 "君が出会ういつかの恋が、こんな風に優しくて可愛いらしい色でありますように" それは、私が中学一年の時に死んでしまった、大好きだった父の言葉。 父の願い――――――。 別れた彼と付き合い始めた頃まではちゃんと覚えていたのに、ずっと、ずっと忘れていた。 " 母は、どうして会う度に私にそう尋ねてきたのか。 そして、彼と別れたと報告した時の、眉尻を下げた母の苦笑が何故かはっきりと脳裏に蘇る。 「私さ」 不意に、逸美が口を開いた。 「 「逸美…」 「準ミスになって、あっという間に環境が変わって、色んな事に呑み込まれて、 頬杖をついて、空になったグラスを見つめているようで見つめていない逸美の目は、きっと遠い過去を眺めている。 「――――――ねぇ、 逸美の目が、真っすぐ私へと戻って来た。 「今だから言える。聞いてくれる?」 何となく予測はついたけれど、 「うん」 私はその考えを纏める前に反射的に頷いていた。 すると、 「…正直、私はあいつ、嫌いだった」 かきあげた髪を指の間に掴まえたまま、逸美は私に挑むように上目で告げる。 「高校の時、 「…ぅん」 「でもあいつは、いつだって自分の都合ばっかり優先して、お互いだけで分け合う"好き"って気持ちを武器にして、 淡々と語る逸美の口調に、ずっと秘めていた怒りが見える。 いつからか、彼と付き合っている事にあまり良い顔をしなくなった逸美が初めて聞かせてくれるその本音。 私には、彼から特にハラスメントを受けていたとか、そんな傷や意識は毛頭ない。 でも確かに、彼と共にあり続ける為に、潜め隠してしまった自分がある事は否めなかった。 大学にいた時は気づかなかったけれど、社会に出て、遠距離が始まって、だからこそ冷静に捉える事の出来た現実。 けれどそれは、一方的に彼だけが悪いんじゃない。 私だってそれを甘受してきたし、逸美の言う通り、彼と付き合い始めた頃、私は確かに疲れていた。 だから、しつこく言い寄って来る見た目が派手な男の人達よりも、真面目そうな彼の外見には直ぐに好感がもてたし、不安だから人の目を引かないで欲しいと言う彼の願いは理解しやすくて、そして、鳴りを潜めて生活したいと願う私にとっては渡りに船だった。 「もちろん、今の 押し黙った私に驚いたのか、逸美が焦った様子で早口を足す。 「きっと 「逸美…」 「――――――ただ、悔しいの。過ぎた時間が、とても悔しい…」 逸美が何を思っているのか、私は十分に理解出来た。 彼と別れた直後、涙に暮れた理由が正にそれだったから。 後ろを振り返った時、あまりにも白黒過ぎる自分の軌跡に呆然とした。 裏切られてしまった事はもちろん悲しかったけれど、それと同じくらい、ただ彼の望むように生きてきた自分に頭が真っ白になった。 西脇 確かに彼の事が好きだった筈なのに、恋の色一つ、過去の自分に探せない。 まるで自分が、空っぽになってしまったような喪失感。 「だからね、 そしてその隙間を埋めてくれたのが、 「そのホストはダメ」 「逸美…」 "あと何回抱いたら、全部オレに染まんの?" 「セックスがどんなに上手くても、情熱的な言葉で熱心に口説いて来たとしても、それは 「…」 "オレを買ってよ。西脇 昼の室瀬さんと、夜のサクヤが私の中を行き来するけれど、それが清濁と呼べるのかどうか、まだ判断出来る材料がない。 「気を付けてね」 真剣な面持ちで告げた逸美に、私も慎重に頷いて応えた。 |