少し気怠さは残るけれど、調子は悪くない体に鞭打って出社した翌日の月曜日。
うちの社のコールセンターは三百六十五日、日曜祝日も通常通りの営業で、週末からのGWも希望者の休暇スケジュールをバランスよく組んで、連休対応に備えられるよう工夫している。 ただ、コールテーカー業務に位置付されている職員はGWや年末年始といった連休中の出社手当がかなり手厚くて、家庭がある人も予定に合わせて休みを取る以外はカレンダー通り、特に嫌がりもせず揚々と出社してくる。 その分、丸々休暇を取りたいという人の要望はおおよそ適えられるから、バランスは上手くとれている職場だと思う。 「あ、西脇さん。私これから会議だから、コレ、今の内に渡しておくわね」 デスクを離れかけた小谷さんが、PCを抱えた体勢でバッグから取り出したのは、鈴付きのキーホルダー。 ぶら下がっているのは独特の形をした細いカギ。 「ありがとうございます」 「転ばないように気を付けてよ」 「はい」 今朝一番で借りられるかお願いをしていた自転車のカギを受け取り、「行って来る〜」と小走りで奥へに進んだ小谷さんの背中を見送ってから、そっと眼鏡の位置を直す。 今日はお昼時間を利用して、駅前にある銀行に行く予定だった。 結局、昨日は一円の手付も払わなかったサクヤへの料金を支払う為に…。 「そうか。西脇さん、今日のお昼は外に出るんだっけ?」 小谷さんと入れ替わるようにブース付近から戻ってきた皆藤さんの、今日のシャツカレンダーは淡いピンク。 「はい」 毎週月曜に見てきた筈なのに、やけにその薄桃色が視界にチラつく。 こんなに淡い色合いなのに、今の私には刺激が強すぎるくらいだ。 「少しくらい遅れても問題ないから、慌てて事故らないようにな」 「はい。ありがとうございます」 小さく一礼して、再びPCに向き合った。 入力途中のWord文書が次の指示を待っている。 「…」 システムトレイの時刻は十一時。 意を決して、私は社内チャットをアクティブにした。 検索フィールドにMuroseと入力すれば、候補で上がってきたのが八人。 全国に複数あるグループ社員の中にこれだけ室瀬さんがいる事にまず驚いた。 Murose Sakuya――――――あった。 本名だったんだ。 僅かに見直せば、ほんの少し気分が明るくなった。 それから、所属がシステムサポートである事を確認して、念には念をと他の男性のMuroseさんの所属も全て確認する。 "サクヤ"は、このMurose Sakuyaで間違いないと思う。 ダブルクリックしてチャットボックスを起動し、万が一に備えて事務的な一文を送信した。 "お疲れ様です。カスタマー部の西脇です" しばらくして、返信が表示される。 "咲夜、どうした?" 「…」 当ってた――――――けど、 この文字からも窺える態度に、なんだか微妙に…というか、どうしても納得いかない。 逸美の言う通り、サクヤが私に対して行っている今回の営業が規約違反なら、こんな風に堂々としているものなのか。 このサービスを利用する申し込みをする時、"当店を知った切っ掛け"という項目で、私は「ここを使う事を知っている人が少なからず別にいるという事実が、気持ち的にリスクを下げられるから」という逸美のアドバイス通り、"利用者からの紹介"にチェックを入れた。 だから、サクヤはその事を知っていると思えるし、もし知らないか、例えば忘れてしまったんだとしても、あの頭の良さそうな人が、それをリスクの一つとして思いつかない筈は無い気がする。 だとしたら、現状に全く問題がないと思えるこの態度の源は、私を完全に篭絡できるという自信からきているのか。 一つ息を吸い込んで、私はキーポジションを取り直した。 よし。 "お忙しいところ申し訳ありません。以前お話のあった料金の件ですが" "料金?" 「…」 "先日の経費等の件です" "ああ、あの時間の事ね" 「ッ」 "もし計算がお済みでしたら、金額をご提示いただけると助かります。 "金額? コースの内容とか、オプション詳細も全部ここに書くけど、いいの?" 「…なッ」 慌ててキータッチのスピードを上げた。 "トータル金額をご提示いただくだけで結構ですので、そのようによろしくお願いします" "わかった。今会議中だから" 「ぇ」 エンジニアって一人黙々とPCに向かって作業しているイメージがあるから、全く気遣わなかった。 っていうか、会議中ならフラグつけなさいよ! 心の中で叫んでいる内に、次の言葉が入る。 "12時10分、9Fの第一会議室にきて" どうしよう。 社内で渡す想定は無かった。 室瀬さんじゃなく、サクヤの時に外で渡せるのが一番の理想だったのに。 "すみません。銀行にはこれから向かうので、まだ用意ができておりません。また、お渡しするのは社外が良いと考えているのですがいかがでしょうか?" "わかった。とりあえず請求書だけ渡す" 請求書って…、 「…」 どうしようか。 良い淀みを表すように、キーボードの上で、思わず指を擦っていた。 そんな私の反応を待ちきれなかったのか、サクヤから追い込みが入ってくる。 "請求した分は、ちゃんと払うんだよな? 咲夜" 新しく表示されたメッセージに、 む、と。 声にならない不快さが湧き上がってきた。 それがどこから来る "もちろんです" 反射的に一瞬で打ち込んで 「ぁ」 しまったと悔しさに唇を噛む。 失敗した。 言質を取られてしまった。 ――――――まさか、三百万なんて、請求してこないよね…? "じゃあ、後で" それきり、サクヤのIDはオフラインで。 「――――――西脇さん、大丈夫か?」 皆藤さんから掛けられた声にハッとする。 顔を上げると、目を大きく開いて私を見ている皆藤さんがいて、 「いや、珍しく百面相してたから、何かトラブルでも起こってんのかって」 「あ…いいえ。大丈夫です」 「…ならいいが」 まだ納得がいかないのか、首を傾げるその隣では、いつの間に席に戻っていたのか、越智さんが微かに微笑んでいた。 「悪くないと思うわ」 「え?」 言葉の意味を聞き返したつもりだったけれど、応える気はないらしく、越智さんは厚みのある資料とPCを持って立ち上がる。 そう言えば、十一時まで別のMTGがあるから、小谷さん達との会議には十分遅れで参加する予定になっていた事を思い出して、その足止めをする事も出来ずに私はその伸びた背筋を見送った。 四月の最終営業日を控えた皆藤さんは、月締めの 私は、しばらくの間グレイアウトしたMurose Sakuyaという文字を眺めて、それからWord文書へとタスクを戻した。 『サヤ』 サクヤが、私の名前を甘く呼ぶ声が不意に蘇ってくる。 "咲夜" 集中出来ないまま、チャットボックスに打ち込まれた文字を思い出した。 ――――――あの人、私の漢字、知ってたんだ…。 この時、 ベッドの中でしか気づかなかったサクヤからの甘い香りが、何故か、首の後ろから微かに漂ったような気がしていた。 気が進まない…。 サクヤに指定された会議室の電子錠を前に、ICカードを手に持ったまま一体何分くらい立ち尽くしているのか。 ここに来る前にロッカーから取ってきたポーチの中のスマホを取り出して見れば、既に十二時十四分。 指定された時間を四分も過ぎてしまっている。 目の前の分厚いドアの向こうに、サクヤこと、室瀬さんがいるのだと思うと、どうしても気持ちが落ち着かない。 昨日までの三日間、あまりにも濃厚に存在を焼き付けられてしまって、香りのように漂う記憶の断片から、私を出迎えるだろうその姿を想像してしまう。 昨日、逸美と話しをした時も、今朝、銀行に行く為に自転車を借りたいと小谷さんに話をした時だって、全然意識していなかったのに、ドア一枚の隔てを前にして、急に湧き上がって来たものが、私の動きを制していた。 「――――――あれ? 西脇さん?」 「え?」 ピッ。 「あ」 不意に名前を呼ばれた弾みで、ICカードをセンサーに読み取られてしまった。 ガチャリと、分厚さの中で開錠の音が小さく鳴る。 このまま開放されたレバーを下げれば、会議室への道は開けるけれど、 「西脇さん、そこに用事?」 「あ、…いえ、その…」 声がする右側へと首を少し回せばやれば、やはりというか、判り易いイケメンの宮池さんが丸めた資料片手に爽やかな笑顔で立っていて、 「そこは午後から 次第に歯切れの悪くなったセリフの最後が、何故が思いっきり弾んでいる。 「なんだなんだ、そういう事かぁ」 「え? あの」 私が聞き返すよりも先に、宮池さんのカードが機械に読み込まれる。 まだ時間切れの再施錠が無かったから開錠の音はしなかったけれど、ピッという電子音ははっきりと廊下に響いて、 「サクヤ」 そして、開かれたドアの向こうへと呼びかけたのはその名前。 そして返ってきたのは、 「 ――――――サクヤの声だ。 口調も、以前このフロアで羽柴さんをサポートしていた時の室瀬さんとは雰囲気が全く違う、私が知っている夜のサクヤのまま話している。 宮池さんには素で接しているんだと、その事がとても意外だった。 お互いに下の名前で呼び合う仲なのかと理解した途端、宮池さんは彼の副業については知っているのだろうか、私との事も…? ――――――そんな事を一瞬で巡らせている内に、宮池さんが全身を使ってストッパーとなり、重たいドアは百八十度に近い状態まで全開した。 「さ、西脇さん、どうぞ?」 にっこりと笑う宮池さんの笑顔にどうしてか圧力を感じて、私は流れのまま中へと足を踏み入れる。 「…すみません」 「―――――― 明らかに驚きが窺えたその声のトーンに顔を上げると、ノートPCの前に肘をついて座っていた、見た目は室瀬サクヤが真っすぐに私を見つめていた。 前髪に半分は隠れてしまっている黒縁眼鏡。 そのレンズの向こう側にある怜悧さを持った黒い眼差し。 「来てくれたんですね」 室瀬サクヤ的に言った後、僅かに口元が上がったのが、ブラインドの上がった大きな窓から差し込む陽光で良く見えた。 不敵さを含む笑顔の片鱗からは間違いなくサクヤの存在が臨めてしまって、ドキリと不本意に胸が鳴る。 きょ…凶悪。 中身を知らなくても、ちゃんと正面から見つめれば、彼がとても綺麗な顔立ちをしていると直ぐに分かる。 それでいてこんな風に丁寧に見つめられれば、私じゃなくてもきっと心が震えてしまうだろう。 藤代さんも見つけ出していたこの端正さは、もしかすると社内にも少なからず気づいている人がいるかも知れない。 社交的で愛想のある宮池さんの後ろに隠れて、無口で、近寄りがたいというイメージを作り出しているから表立って騒がれないだけで。 夜のサクヤは、一目見た瞬間から解る程の、香しい大輪の花のような魅力がある。 でも、この昼のサクヤも、やっぱり同じ人なのだ。 負けてはいない。 一度でも目に付けば、食中花のごとく女性を食らう男の色気がとても力強く溢れている人だと女の本能で気づかされる。 髪型と眼鏡だけで、よくこれまで騒がれなかったなと、サクヤの擬態に感動の気持ちがグッと押し上がってきた。 「ビックリだなぁ、サクヤ。いつの間に西脇さん捕まえたの」 「うるせ。さっさと席外せ」 僅かに眉間を寄せながら言ったサクヤから敬語は消えてしまっている。 「そっかぁ、それで最近は仕事が早かったんだねぇ、サクヤ」 「 「あ〜、はいはい。邪魔者は退散しますよ。どうぞごゆっくり。――――――西脇さんも」 笑いながら、本当に楽しそうに言った宮池さんが私の背中に手を触れる。 どうやらもっと中に進めというエスコートだったらしい。 「おい、オレのだ。勝手に触るな」 「え、ちょ…」 何、その発言! 私が気を張って意義を唱えようとしたその前に、宮池さんが声をあげて盛大に笑い始めた。 「あはははは、了解了解。ふ、いやぁ、それじゃ、ね、くく、西わ、さん」 「え、あ…、ちょ――――――…」 挨拶をどう返したらいいものか、右往左往する感情に冷静さを飛ばされてしまった私が悩んでいる内に、微妙に肩を丸めて必死に笑いを堪えようと頑張っているらしい宮池さんは、会議室から足早に出て行ってしまった。 ドアが閉まる瞬間、爆発したような笑い声が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいじゃない。 何が何だか分からないけれど、とても気恥ずかしい思いだけが体中から零れてしまって、ピッと施錠される電子音が響くまで、私は身動き一つとれなかった。 「…」 た…立ち直らなくちゃ。 少しの間、沈黙を噛み締めてから、私は思い切って顔を上げた。 するとそこには、心構えしていた通りにジッと私を見つめるサクヤがいて、 「あの…仰っていた請求書、ください」 単刀直入に目的の遂行。 「これから銀行に行くんです。自転車を借りたので、急げば午後が始まる前にお渡しできると思います」 「――――――ああ、請求書ね。ちゃんと用意してある」 とりあえず話が進んだ事にそっと息を吐くと、 「ほら」 PC傍のバインダーから一部を抜き取ったサクヤは、それを無造作に手元に置いた。 「ちゃんと払えよ? 「え…?」 笑みを象った唇に、私の警戒心がガンガンと音を立てる。 どうやら、傍まで取りに来いという事らしいけど――――――、 …何、あの、遠目でもわかるくらいに、びっしりと黒字で埋まっているA4用紙は…。 しかも、ステープレスで留められているって事は、二枚以上? 一体どんなオプションで、どれくらいの金額が請求されているのか、渇いた喉を思わず上下させる。 「あ…あまりにも法外な値段だった場合は、私…」 自分の中にある何もかもを総動員して、どうにかその言葉だけを吐き出した。 逸美の言う通り、客と店外で関わる事でホストには罰金があるのではという切り札を、私はまだ持っているんだ。 「ああ」 そんな私を見透かすように、サクヤは黒の前髪の隙間から見える目をスッと細めた。 「心配するな。ちゃんとお前に払えるものだ」 「え…?」 ―――――― 金額じゃなくて、モノって、 「物って、なに…?」 気が付けばそう口しながら、混乱を極めた自分をどうにか奮い立たせて、私はテーブルへと身を進めた。 ゆっくりとした動作でサクヤがノートPCを閉じたのと、私がその請求書と名のついた紙を掴んだのはほとんど同時。 「え…?」 箇条書きで続く文字を読み続けて、私は完全に思考を飛ばしていた。 内容を理解したというよりも、ただ文字が途切れた事だけを切っ掛けにして、一枚目を捲り、更に二枚目も捲る。 全部で三枚。 書かれているのは、とてもじゃないけれど他人に見せられるようなものじゃない。 「む…室瀬さん、これ」 「サクヤ」 この状況で拘られたそれに、私は呆れ顔で固まってしまう。 「サクヤだ」 「…」 「二十四時間も経たない内に、またそこから始めるのか?」 僅かに睨むような仕草をみせたサクヤに、私は話を進める為だと自分に言い聞かせて、仕方なくそれを受け入れる。 「サクヤ。 「書いてある通りだ」 不敵に笑ったサクヤは、一脚二十万はするという、購入当初は随分と騒がれた会議室用の黒い椅子の背に体を預ける。 私は座った事はないけれど、体の動きに合わせてしなる構造になっているというその椅子はサクヤを乗せて僅かに傾き、長い足を組んだ彼がアーム部に肘をおいて指先を絡めた姿は、あまりにも様になり過ぎていた。 こんな状況なのに、カッコ良すぎて悔しさが湧く。 「こ…こんなの、全部書き綴るなんて、どうかしてる」 「何をしたか、判らなくなるよりはいいだろう?」 「それにしたって…」 私は、サクヤの視線から逃げるように手に持った紙に目を落とした。 少し読んだだけで内容の異様さが理解出来る。 1番はまだ、納得出来た。 私が選んだラブラブ恋人コースにはきちんとセックス付だという明記があったから、行為そのものが料金名目の筆頭に入っていて然るべきだとは思う。 でも、例えばこの6番。 「十分間のディープキスって…」 こんなの、いちいち取り上げてオプションとして請求されるなんておかしい。 「こ、こういうのは、全部コミコミで入ってるものでしょ?」 「コミコミ?」 「そう! コミコミ」 「…コミコミね」 く、とサクヤが笑った。 「まるで携帯の料金プランみたいだな」 すみませんね。 カスタマー部では常用語なの! 心の中でバタバタと足を踏み鳴らしながら、私は必死に言葉を綴った。 「キスとか、フェ、フェラ、とか、どうして一回のエッチから分離して記載されるの? だいたいこれ、この11番のフェラと、ここ、二枚目の52番目のシックスナインって、絶対に他の誰かと勘違いしてる。だって私、い、一回しか…」 「 「それから、この40番のドライブって? 動物園から車で送ってもらった時の事を言ってるの? あれはあなたが強引に車に乗せたんじゃない」 「 「こ…これ何? アナルにバイブを挿れての二本挿し…? し…してない! してないから!」 視界は真昼間の明るい会議室。 目の前にはホストという顔を隠した地味っぽさを装う、高級なイタリアブランドの黒シャツを着る端正な顔立ちのシステムエンジニア。 そして、卑猥な文面に戦慄して、泡を吐くように常識では有り得ない単語を口にしている私。 一秒経つ毎に、自分の頭の中がかき回されているように狂ってくる。 「で…でも、意識無かったから、私…もしかして眠っている間にしちゃったの…?」 泣きそうになりながら誰へと無しに呟くと、とても大きな溜息が耳に入ってきた。 見ると、滲んだ景色の中に、サクヤが呆れ顔で私を見ていて、 「 「でも」 「お前、勘違いしてる」 「え?」 「言っただろ? それは請求書だと」 だから、明細書って事でしょう? と、言葉にはせず、念を込めて首を傾げても、サクヤは優しく別の答えをくれる気は無いらしい。 「…全然、意味がわかりません」 言いながら、一枚、二枚と無意識にページ捲りを繰り返している内に、私は漸く、あるべきものが記載されていない事に気が付いた。 「…これ、金額が、書かれてない…」 「当たり前だ」 「それじゃあ、請求書の意味が」 「それが対価だ」 「――――――え?」 これが、タイカ? 時間が、止まったかと思った。 それくらい、エアポケットに入ったかのような思考の空白が長かった。 「前回と前々回、ホストのオレと過ごした時間をそれで買え」 「…え?」 「アレだな。仮想通貨みたいなもんだ」 「…え?」 「そこから二十…――――――そうだな、フェアにいくか。オレが選んだ十個と、お前が選んだ十個で、それぞれ一日一回。それで前回の料金を 「…じょ」 冗談じゃないと、勝手に進められていく話を断固拒否しようとした言葉は、 「そう言えば」 と始まった次の言葉で阻まれてしまった。 「 私は思わず、眉間を寄せながら不機嫌に口を尖らせる。 「…最低」 「ベッドでは最高――――――だったろ?」 囁いたサクヤの左手の指が、自らの伸びた前髪を背後へと梳いた。 そして反対の右手が、露になったその綺麗な顔を見せつけるように、黒縁眼鏡をゆっくりと外す。 椅子に座ったままの高さから、私へと向けてくる視線には艶やかな笑みが含まれていて、私は今度は、別の意味で言葉を失った。 駄目だ。 もう負けてる。 負けちゃってる…。 「お前も外せよ、その眼鏡」 私をその腕に抱いた時を偲ばせる、夜の香りが色として漂うサクヤから押し出されてくるその態度は、逆らう事を是としない。 「 「どうして…?」 尋ねながらも、私はもう分かっていた。 目の前のサクヤが、お互いに眼鏡を外した状態で、一体何を求めているのか。 「激しいキスをするには邪魔だからだ」 「…」 「6番な。オレが請求する側だ。先手に文句はないだろう?」 私の手から請求書を抜き取って、どこからか取り出したペンで該当の項目に赤線を引き、スマホで素早くタイマーをセットする。 「十分間のディープキス。始まったら自分でスタートを押せばいい」 「私は――――――」 「私は?」 わざとらしく聞き返して来たサクヤの斜め加減の表情が、私の何もかもを抑え付ける。 熱さを知っている彼の唇の間から、いつかの夜のような赤い舌が覗いた事に目を奪われていた。 「負けっぱなしは嫌だろう? 西脇 |