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――――― "なんて言うか…" 帰宅後。 今日の昼休みに私に降りかかったコトの成り行きを出来るだけ詳細に伝えると、短い相槌でひたすらいてくれていたスマホの向こうの逸美が、ふと息を漏らすように切り出して来た。 "すっかり 「う」 逸美の言葉が、気になっていた要点を突いて来る。 "話聞いていると、かなり挑発してるよね。その人の性格もあるんだろうけど、… 「うん…」 確かに、思い返せば返す程、サクヤとの距離は会う度に素の私と近くなる一方だ。 一緒に過ごした時間が普通と違う濃厚さを持つものだからかとも考えたけれど、それは答えじゃない気がする。 あの後、 『負けっぱなしは嫌だろう? 西脇 挑発的に私の名前を呼んだ後、 『オレを夢中にさせてみろよ』 そう言い放って笑みに細めたサクヤの目は、口調とは裏腹にとても甘くて、優しさすら滲み出ているように感じられて、 『…』 その眼差しに捕らえられた私は、まるで吸い込まれるように身を屈めて、気が付けば唇を重ねてしまっていた。 最初は、合わさった唇を柔らかく ディープキス。 ディープキス…。 頭で単語を思うのは簡単だけど、実際に自分からスルとなると勝手が違う。 な…舐めてみよう。 舌を入れない事にはきっとこの項目のスタートにすらならない気がする。 これまでの経緯からして、サクヤが内容に対して妥協する可能性は無いと思えた。 最後の最後で"こんなのはディープキスじゃないからやり直し"だなんて、絶対に言われたくなんかない。 舌先をサクヤの唇に這わせる。 口を開くくらい協力してくれてもいいのにと、閉じられたサクヤの態度に一瞬かなりイラついたけれど、クリアしなければならないのは私だからと心を入れ替えた。 舐めて、軽く吸って――――――それを繰り返しながらサクヤの唇の形を少しずつ解していく。 頬にあたるサクヤの鼻息が少し強くなったところで舌先を唇の間に差し込めば、そこはゆっくりと開かれた。 熱い…。 知っている、温度だ。 昨日までの数日間、散々私を貪っていたサクヤの熱。 困った事に、その熱が既に知っているものだという現実は、私をかなり安堵させた。 この人が、全く知らない人ではなく、あの思い出すのも濃すぎる時間を自分と共有した人だと思えば、自然と気構えが緩んでしまう。 負けてしまっていると、思ったのもそれが理由だ。 それにしても…――――――、 この挿れた舌をどうすればいいのか。 とりあえず、ぶつかったサクヤの舌先に絡めてみたけれど、 『…』 反応がないと、どうしても続ける事が出来きずに、舌先を口内で迷わせながら、この先をどうすればいいのか考える。 サクヤは――――――どんな風にしていたっけ? いつもいつも蕩かされている最中だから、私はただ夢中でされるがままに応えるだけで、気が付けば息をするのに精一杯。 考えれば考えるほどどう動かせば正解なのかが分からなくなり、 『…あの…』 キスを止めて、サクヤから顔を離そうとしたタイミングで、その言葉は齎された。 『――――――下手くそ』 『はぁ?』 下手って、思ってたとしても普通言う!? 信じられない、信じられないったらない。 混乱した頭で体は微動すら忘れ、その裏側で内心沸騰しながらバタバタと騒いでいたら、 『今時、高校生の方がもっとまともなキスするよ』 『な』 更なる追い打ちをかけられて、自分とサクヤの唾液で濡れた唇を反射的に甲で拭いあげた。 なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう。 こんな…セックスを生業としている人に、どうしてキスなんか仕掛けたのか、状況に流されたにしては、あまりにも怖いもの知らずの自分にほとほと呆れてしまう。 『わ、悪かったわね、下手で!』 『テクニックが無いのは知ってたから別にいい』 『…ッ』 さらっと言われれば、もう悔しさも通り越した。 『…それ、とにかく十分間ディープキスすればいいんでしょ? それ自体がゴールなんだから別に下手でも問題ないと思うし』 『まあ――――――時間が書いてあるものはそれでいいが…』 ふ、 とサクヤが鼻で笑った。 『そんな舌使いで、フェラとかどうすんの?』 『ッ』 やっぱり、その選択はあるんだ。 『その時は、が…頑張り、ます、けど…』 『こういうのは、テクニックよりムードが大事だったりもするんだよ』 『え?』 『気分が盛り上がるような雰囲気にしてしまえば、大した技が無くてもそれなりに楽しめる』 雰囲気…? 『それに、お前は多分、勘違いしてる』 『――――――え?』 突然、サクヤが椅子から立ち上がった。 『今から十分な』 スマホのタイマーを素早くセットして、 『え? ちょ、ま』 ぐいぐいと近づいて来るサクヤに追い詰められる形で背中に壁が当たれば、主に、下半身を強く押さえつけられた。 身体を左右に振って逃げようとしたけれど、器用に私の足の間に入ってきたサクヤの身体を、結局ピクリとも動かしきれない。 『 息がかかる距離で、サクヤは言った。 『オレと』 左手を取られて、指を絡められたまま壁に縫い付けられる。 『お前と』 首の後ろにはサクヤの左手が入って来て、 『オレ達二人でするんだ』 『ゃ、ちょっと待って、』 嫌と頭を振る事すら出来なくなる。 『サク、――――――ッ』 唇を合わせられたかと思ったら、あっという間にサクヤの舌が口内をかき回しにきた。 一体舌が幾つあるのかと、驚くべき動きにされるがままに翻弄されていると、 『んんッ!』 しばらくして狙いを定められたのは上顎の真ん中。 丁度窪みになっている部分だ。 『っ、…ん』 ここは駄目。 自分でも怖いくらいに何かが高ぶる場所だと知っていて、サクヤにも、既に攻略されている私のウィークポイント。 『んん、んッ、ぁ』 チロチロと一点を攻めてくるサクヤの舌先のテクニックに、腰の辺りまでゾクゾクと震えが感染するように走り抜ける。 『あ、んあ、ん』 次から次へと酸素を求めるように、二人の鼻息はどんどん荒くなっていく。 同時に、合間を縫って鼻から出てしまう自分の高い声が耳に入ると、また更に恥ずかしくて、 『んぅ、んンッ』 くる。 『ぁ、』 大きすぎる快感の予兆に、サクヤの脇の下で唯一自由だった私の手は、無意識の内にサクヤのシャツを掴んでいた。 それに応えるように、押さえられた左手が、ギュッとサクヤに握り返される。 まるで壁をベッドにして押し倒されているかのような錯覚。 くすぐったい。 そんな日時用でありがちな感覚が、脳まで駆け抜ける性感としての独特の快楽になるまで、信じられないくらいあっという間だった。 『ふ、ぅあ、…ッ』 だめ、イク。 『ッ、んく、ぅ…』 声に出せない分、全身を痙攣の波が襲った。 『…はぁ、…ぁ』 どれくらい時間が経ったのか、ゆっくりと唇が離れた事によって、漸くまともな息が出来るようになる。 目の前には、何故か切なそうなサクヤの顔。 お互いにかかる息の熱さに、私を見つめるサクヤの眼差しに、どうしてか涙が溢れてくる。 『 再び、唇が合わそうとサクヤが近づいて来て、 『…』 私は、ただ受け入れようと目を閉じた。 『 重なった唇がサクヤの好きなように溶かされていく。 境目なんかわからない。 探るように舌を吸い出され、いつのまにかサクヤの口内で食まれていた。 快感に理性を殴られる。 舌の表も裏も、全てを曝け出して擦りつけ合う事に羞恥心は霧散した。 『はぁ、ぁ』 『ん、はぅ』 キスなのに、まるで性行為のように突き上げられる感じがする。 『サ、ャ…』 『…』 それでいて、気が付けば私の背中に回されていた腕が、優しく体を包むから、 首を掴まえていた掌が、優しく髪を梳いて来るから、 ほんとだ。 サクヤの言う通り。 雰囲気って大事…。 もしかしたら、愛されているかもしれないと、そんな錯覚を起こさせるムードだけで、こんなにもキスがドラマチックだ。 PiPiPiPi――――――。 あ。 ただ無言で、ひたすらにお互いの唾液を啜り合うようなキスを続けて、――――――十分。 『…思っていたよりも短いな』 『…え、…もう充分、です…けど…』 唇も心なしか腫れぼったいし、口の周りは唾液でぐちゃぐちゃ。 それに、正直言って、今すぐトイレに駆け込んで、ビデでアソコを綺麗に洗いたい。 嫌になるくらい、濡れてしまっている自分が分かる。 せめて、新しいライナーに交換したい。 『私、そろそろ…』 『提案だが』 言いかけた私を遮って、サクヤが耳元で囁いた。 『このまま立ちハメしないか? 確か30番辺りにあった』 『え?』 タチハメ…? 立ちハ――――――、 『な、な、何言って、』 『男の事情。直ぐに出すから』 『ダメ! 絶対にダメ! ここ会社! 会議室!』 必死に言いながら、既にここでキスを承諾した私には説得力なんて欠片も無いと、自覚した途端、自分自身に落胆した。 『今更だろ』 『わわわかってるけど駄目なの。挿れるのは絶対駄目! 駄目ったらダメ!』 『――――――わかったよ。じゃあ、クールダウンな』 『クールダウン…?』 見上げれば、少し拗ねたような表情で、サクヤが私を見下ろしていた。 『バードキス』 『バード、キス…?』 バードキスって、アレだよね。 チュって軽くするキス。 『…それも、項目にあるの?』 確かめようと訊いた私に、サクヤが珍しく真顔で頷いた。 『ああ。確か今のディープキスの近くにあった。番号は忘れたが、あるのは確かだ』 『…』 キスの方が、立ったままスル事よりも、断然ハードルが下がった内容だと思う。 それに、さっきのディープキスの後なら、同じキスで一つ片づけられるのも得策かも知れない。 『…解った』 『それは了承か?』 『…キスなら、うん、いい。…了承する』 これで、今日は終われるんだ。 少しくらいキスの回数が増えたからって――――――、 『――――――そうか。なら遠慮なく』 覚悟を決めた私の両頬を、 『え?』 サクヤの両手がすっぽりと包んだ。 『 私の顔を映したサクヤの目が、声と同じくらいの優しさを帯びながら、グッと距離を詰めてくる。 キスされる。 そう思って慌てて目を閉じようとしたけれど、サクヤの顔が上にあがっていくのを、私は思わず見送った。 『――――――え?』 チュ、と。 サクヤの唇が触れたのは、私の額の真ん中で、 チュっと、今度は右の頬に。 『…サク…え?』 チュっと、今度は左の頬。 私に近づいては離れていくサクヤの長い睫毛を、目を開けたままぼんやりと追いかけていた私は、 『 耳たぶへのキスと同時に名前を呼ばれて不意を突かれ、ゾクリと体の奥を震わせた。 『ゃ、』 漸く正気に返る。 これ、思ってたのと全然違う! 『待って、サクヤ』 私の顔を両側から固定したサクヤの手首を掴み、どうにかそれを止めさせようとしたけれど、 ちゅ。 口を突き出したサクヤが音を鳴らしたのは私の唇。 『サク――――――』 目が合った筈なのに、サクヤは微かに笑って、左右の頬に素早くキスをする事で私から逃げた。 そして鼻の頭、右の目尻、左の目尻、眉間、額の上…、 『ゃ』 こめかみ、首筋、下顎を経て、また唇へと戻ってきて、 『…バ、バードキスって』 『バードキスだろ?』 チュ、 『い、一回で終わるんじゃ』 『ンなわけないだろ』 チュ、 『待って、いちいちキスとか』 チュ、 『ん? どうした?』 ――――――やめて欲しい。 幾ら雰囲気づくりとはいえ、こんな甘すぎるムード。 『 私を呼ぶ声が、何だか特別なものに聞こえてしまう。 『 私を見つめる眼差しが、凄く特別に思えてしまう。 ドクン。 『好きだよ、 ドクン――――――、 初めて会った時と同じ、傷ついた私の心を泣かせたセリフが、きゅんと、痛い程に胸を締め付けてくる。 『 額に、バードキスじゃない長い口づけが落とされて、 嘘――――――。 私は眩暈を覚えてふらついた。 無理。 本当に無理。 『も、無理。サクヤ、お、願い』 こんなの、有り得ない。 『やめて、これ以上は――――――』 どれだけ、自分の顔が真っ赤になっているか、想像もしたくなかった。 お金を払ってホストに身を委ねると、そう決意した時よりも、愚かな道を行こうとしている。 『…仕方ない。その 『の…、残り?』 咄嗟の疑問を口にした私に、サクヤはニヤリと口元を上げた。 『バードキスは百回だ。今ので二十回。残りの八十回はツケな』 『い…、』 今のコースをあと四回? そんな…、 『使いどころは、まあ色々あるな。――――――楽しみだ』 意地悪な空気を含むサクヤの笑みは、怖気づいた私の心情を明らかに見越しているようだった。 ―――――― ―――― "はあ…" 包み隠さず顛末を打ち明ければ、逸美は深い息を吐く。 "ほんと、聞けば聞く程、相手の方が一枚上手って感じね" 「…そう、かな」 返事をしながら、私はソファの上から引きずり下ろしたクッションを抱きながら絨毯の上に寝転がった。 "そうでしょ? そのバードキスだって、最初に立ちハメって言葉があったからハードルが低く感じただけで、実際はもっと低いハードルの項目が他にあったわけだし" 「う…」 "結局、好いように遊ばれたわけだ" 「…おっしゃる通り、です」 渡された請求書、 バードキスを、それくらいならと受けてしまったのは、確かにサクヤの巧みな呼び水の言葉があったからのような気はする、けど…。 「お金じゃないとしたら、一体、何がしたいのかな…」 サクヤの目的が全く見えない。 "ん〜、穿った見方をせずに正面から素直に考えれば、向こうが自分を買った 「考えなくも無かったけど…だとしたら変則的すぎると思わない? 脅迫染みた変な仕掛けの舞台を作らなくても、あんな感じで迫って来られたら、普通に好きになると思う…」 "はあ? もう! 「いや、好きっていうか、胸キュンを知る女子なら少なからずトキメクと思うよ。私だってそういうのは、派手な人達に関わり合いたくないって避けてただけで、例外じゃないもん。恋愛小説読んで、夢のような恋物語に憧れてた事もあるし。――――――逸美だってわかるでしょ? "そりゃあね。そういう女の夢を叶えたり、癒したり、口説いたりする技を磨いているんだもの" 「でしょ? でも、ちゃんと分かってても、グラグラくる。アレは」 男として、サクヤはかなりの強敵だ。 恋愛経験の幅のない私なんか、彼にとっては指先で弄ぶくらいの存在でしかないだろう。 "あ〜もう、まさかこんな事になるなんて…" ホストを紹介した事に対して後悔を思わせるその口調から、逸美が、サクヤとの事を警戒して、私の事をとても心配してくれているのが伝わって来る。 「大丈夫。いざとなったら、ちゃんとビシッとするから」 "う〜ん、信じたいけど、ね…?" 「う」 私はあいつ、嫌いだった。 元彼の事をそう評した逸美は、私とは違う視点で今の状況を見ているらしい。 "大体ね、 何かを言いかけた逸美の声が、途端に聞こえなくなる。 「……――――――逸美?」 話を切り出しておきながら、一向に続きが再開される様子も聞こえず、電話が切れたのかと訝しんで呼びかけてみた。 「逸美? もしもーし? 大丈夫?」 "あ、――――――うん。大丈夫" 「ほんと?」 "ちょっと考え事してた" 「考え事?」 "そ。大学の時の事…?" 「大学? っていうか、どうして逸美本人が疑問形?」 "うん。――――――何て言うか、あれっ? って感じの事が記憶に引っ掛かったんだけど、なかなかうまく手繰れなくて" 「ふうん…」 "でも、これだけは確かなような気がするのよね" 「え?」 何だか意味のありそうな雰囲気を声音で伝えてきた逸美が、私へと投げた大きな石。 "もしかしてさ、そのサクヤって人、――――――昔どこかで会った事があるんじゃない?" 「え…?」 "同じ大学だったとか、大学別でも、サークルが一緒だったとか" 「…――――――えぇッ?」 強くて大きな波紋は、唐突に私の思考を覆いつくした。 |