「皆藤さん。奨励賞のフォーマット、共用フォルダにアップしたので今月の分はよろしくお願いします」
「ああ、了解。名前入れるだけで良かったっけ?」 「はい。ファイル名で順位を分けてあるので、下地の色は気にせずに印刷かけてください」 「わかった」 「それから、これが一日付で資格情報更新になるメンバーリストです。手順書を二部印刷してあるので、業務開始前にキャッシュの削除と端末再起動をさせてください」 「OK」 「あと、明後日に業者の保守入室があります。ゲストカードは申請済みなので、明日総務から連絡がきたら受け取りをお願いします」 「はいはい」 「その他の日次週次業務については一覧をメールで出したので、すみませんがフォローお願いします」 「了解」 「あ、それから…」 下がっていた眼鏡を指で直してなおも続けようとした私に、 「 困ったように私の名前を呼んだのは、引継ぎをこれでもかと託し続けられて苦笑していた皆藤さんではなく、小さく肩を揺らしながら笑う羽柴さんだ。 「 その言葉に、「そうそう」と、小谷さんも相槌を入れてくる。 「これ、動き易く纏められてるし、これなら二週間くらいどうにかなるわ」 「そういう事だ」 二人に続くように何度も頷いた皆藤さんを見て、私はつい口篭もった。 そんな私に呆れたような顔を向けたのは、ずっと無言だった越智さんで、 「西脇さん。無駄な時間稼ぎしていないで、さっさと行きなさい」 「…ぅ」 夕方を過ぎたこの時間になってもヘアカタログから抜け出したようなセットを維持している越智さんの、心情が読めないその真顔に、私は返す言葉がない。 「…はい。お疲れさまでした」 渋々と、電子ドアの向こうにいるだろう存在を思って、まるで溜息のついでように会釈をしてしまった自分のマナーの不出来さに空しくはなるけれど、それも仕方ない事なのだと、ここにいるみんなが分かってくれる筈…だ。 「お疲れさま。 「あら、楽しいに決まってるじゃない」 「きゃ〜、そうよね、室瀬君と一緒だもんね〜」 「はいはい、羽柴さん、小谷さん、クローズまであと十分。行くぞ」 「やだホント」 「それじゃあね、西脇さん。お疲れ様」 時計を見て立ち上がった皆藤さんに促されてパタパタと奥へと歩き出した三人を他所に、越智さんだけはゆっくりと立ち上がる。 「…お先に失礼します」 ここから出る事を先延ばしにして必死だった私に"時間稼ぎ"だと告げた越智さんは、どうしてか西脇 それが伝わったのか、先に目を逸らした越智さんの側を、私は平静を装いながら小さく会釈して通り過ぎた。 「――――――最近…」 「え?」 ICカードをかざして、ドアを開錠しようとしていた私は、それが自分にかけられた言葉かも判断する前に肩越しに越智さんを振り返っていて、 「あなたに表情が戻ったのは、室瀬君の影響だったのね」 「…越智、さん?」 戻った、という表現が引っ掛かって、思わず眉間に皺が寄ってしまう。 その失態に気付いて、その縦皺が眼鏡に隠れて見えなかっただろう事を願いながら、私は直ぐに真顔を努力した。 「あなたが出てたミスコン、見てたのよ、私」 その言葉にハッとする。 「当時、私は人事部にいて、青田買いってわけじゃないけど、突出した人材を探す為に学祭とかはよく出掛けての」 記憶を手繰ろうとしているのが、越智さんの目の動きで察せられた。 「ステージの上のあなたは、垢抜けない感じだったけれど、その笑顔は原石という称号に相応しくて、友人達に囲まれた時の楽しそうな顔がとても眩しかった。――――――あの時は、まだ二年だったでしょう? 翌年も、行ってみたの。興味あって」 「越智さん…」 「久しぶりに見たあなたは、ほんの少し陰を落としてて、いつも誰かの後ろに隠れるように潜んでいて…最初に見つけた時の輝きは、残念ながら探せなかった。色んな事があったのは後から人伝に聞いたけれど、結果そうやって眼鏡をかけて、喜怒哀楽を削ぎ落として日常をやり過ごすあなたの事、見ていてずっと勿体ないと思っていたから、最近は安心して見てたわ」 「す…すみません、なんか、ご心配をおかけしたみたいで…まさか、越智さんにそんな風に気にかけて貰っていたなんて、全然知らなくて」 「本人が隠している事を私が切り出すつもりはなかったから、…ずっと傍観者でありながら勝手な言い分だけど」 ふわりと、越智さんにしては珍しく柔らかな笑みが浮かぶ。 「今後も期待したいわね、室瀬君に」 「あ、いえ、彼は――――――」 「良い連休を」 「え、越智さ」 サービスクローズの十八時を前に、颯爽と歩き出した越智さんをこれ以上引き留められるわけもなくて。 ――――――何だか、自分の主張で身動きするのが躊躇われるくらい、一気に周りが変わってしまった。 きっと、彼が狙った通りに。 「…もうッ」 昼休み中の出来事を思い返すと、小さな苛々、羞恥心、そしてわけのわからないモヤモヤが混ざって色づいて、ぐちゃぐちゃになった思考が霞のように広がってしまう。 「…駄目」 ダメダメ。 ここで弱気になって受け入れたら、もう引き返せないところまで連れて行かれちゃう。 しっかりしなくちゃ。 頑張るのよ、 彼のペースに呑まれちゃダメ。 「駄目」 ――――――よし。 強気を前面に、カードを通して電子ドアを開けた。 ――――――けれど、 「お疲れ」 見慣れた廊下に立っているのは、出来るなら、そこに 室瀬さんではなく、ホストの容姿を晒したサクヤの方だ。 「…まだその恰好なんですね!」 ふいっと露骨に顔を背けてロッカールームへと足早に歩き出せば、 「まあね。もう隠す必要なくなったし」 後をついてくるサクヤの掌が、そっと背中に添えられた事に気付く。 「良くわかりませんけど、それにどうして私を巻き込むんですか?」 その手から逃げるように更に早足。 「巻き込むって言うか、元々オレとお前の二人で中心だろ?」 「意味が全くわかりません」 「 グイっと腕を掴まれて、足を止められる。 「ここでオレにバードキスのツケを払うよう言われるのと、ちゃんと目を見てオレと会話するの、どっちがいい?」 覗き込んで告げられたその言葉は、耳には脅迫のように聞こえても、目には全く違う温度の光が宿っているように見える。 「…着替えてくるので、暫くお待ちください」 「棒読み。あと、敬語」 「…わかった。でもここじゃなくてどこか別の場所で待ってて欲しい」 「なんで?」 「もうすぐサービス終了時間。同じ部署のみんながここに雪崩れ込んでくる」 「――――――わかった。裏の駐車場への通用口、わかるか?」 「わかるけど…まさか車で来てるの?」 「ああ」 「だってあの駐車場は…」 言いかけて、やめた。 闇雲に藪をつつけば、もっと別の蛇を出してしまいそうな気がしたから。 「…何でもない」 そう言葉を足した私の唇に、フッと笑ったサクヤの指がちょんと触れる。 「待ってる」 「…」 いちいちいちいち、 「スキンシップ多すぎ」 そしてその仕草全てが、無駄にカッコ良すぎて、 「はぁ…」 深い溜息を吐きながらサクヤの後ろ姿を見送った私は、今日の昼間にあった出来事を、反芻するように思い返した。 『――――――それで? 明日からの連休、何をするかもう決めた?』 少しだけ早目にお昼に入って、外を眺める事が出来る窓際の四人席を陣取ってくれていた未希子は、私が手に持ったグラタンをテーブルに置いてホッと気を抜いたのとほとんど同時に口を開いた。 『十二連休とか、もう羨ましすぎて死ぬ…。それだけあったら、録り溜めてる異世界モノを観ては寝て観ては寝ての幸せな日々が送れるのに…ッ』 私が返事をする間もない程の勢いで、地団太を踏むような仕草と共にそんな事を言った未希子へと、 『未希子だって、毎年夏休みが長いじゃない』 小さく笑いながら言葉を返すと、 『あ、れ、は、イベントを駆けずり回る巡業期間。家でのんびりアニメ鑑賞は出来ないの』 『そっか』 口を尖らせる未希子に頷いて見せながら漸く椅子に腰を下ろし、ふと周りを見渡してみる。 いつもより人が疎らなのは、週末から始まるGWを前にして、昼休み返上で仕事を片付ける人が多くなる時期だからだろう。 『とりあえずは、家の大掃除かな』 手元のグラタンに視線を戻して答えれば、未希子は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、直ぐに『ああ』と肩を上げる。 『掃除ね。ま、現実よね』 『うん。この機会に、お風呂場もね、隅々まで綺麗にしようかな〜って』 『げ、手動で?』 『まさか! ポリッシャー、ネットで注文したの。ブラシが六種類付け替えられる万能タイプ』 『うわぁ、ヤケにすら感じられる気合の入りようだね』 『…ほっといて』 明日からの十二連休。 本当なら、元彼のところに行って大阪観光の予定だった。 彼が休みに入るまでは、お弁当作って見送ったり、部屋を掃除しながら帰りを待ったり…なんて、奥さんみたいな真似をして、一週間は観光三昧で楽しもうと、二人で相談して纏めたのは去年のクリスマス。 考えてみたら、あれが彼の顔を見た最後の日だ。 そして、あの笑い合って過ごした夜には既に、彼は私を裏切って、何度も彼女を抱いた後だったんだ。 ずっと優しいと思っていた笑顔が、平気で嘘を吐ける人だったんだと怖くもあり、それを信じていた自分について残念だったとも連鎖して考えてしまう。 大学の頃からずっと彼と重ねてきた年月を思うと、やっぱりどこかやりきれなくて、 『…』 そこまで考えて、私は改めて気が付いた。 ――――――かなり、冷静に考えられるようになったなと思う。 少し前までは、それを思うだけで自分の事が見えなくなるくらい動揺して、目の前が仄暗く感じられていたのに。 悔しいけれど、サクヤの存在が齎す効果は、何もかもにおいて絶大だった。 色んな意味で。 『やあ、ここ、一緒にいいかな?』 よく知る声に顔を上げると、 『皆藤さん』 皆藤カレンダーでは火曜日の意味を持つ薄い黄色のシャツを着た皆藤さんが、お蕎麦セットを手にそこにいた。 『いいですよ、どうぞ』 戸惑って反応が遅れてしまった私より先に応えてくれたのは向かいの未希子。 皆藤さんの奥さんは、第一子を授かったタイミングで休暇ではなく退職を選択した、元々は未希子と同じ経理部の人で、結婚式には新婦側の招待客として皆藤さんとも顔を合わせているから、知らない仲でもなく自然に出てきた歓迎の言葉だ。 『食堂なんて久しぶりに来たから、知った顔見てホッとした』 椅子を引いて着席を促す事で無言の肯定を示してから、私は直ぐに戸惑った要因から口にする。 『皆藤さん、今日はお弁当じゃないんですね』 いつもは、忙しさの合間に愛妻弁当を大事そうに食べるのが皆藤さんのランチという認識だったから、現れる想定の無かった姿に驚いてさっきは声が出せなかった。 『実家に帰ってるの、奥さん』 『そう言えばそんな事言ってたかも、主任』 『元、主任だろ?』 未希子に苦笑して見せて、腰掛けた皆藤さんは早速お箸を割った。 『金井さんとのラインが気晴らしになるって言ってたよ』 『まあ、週に一度の情報連携は昔から続いている長年の恒例ですので』 そう言えば、未希子と趣味が合う事でも関りは深かったっけ。 『嫁が色々お世話になっております』 『いえいえ。むしろ、こちらの世界との縁を切らせる気が全くございません宣言にも近い毎週末の干渉ですので、ご主人には大変恐縮している次第であります』 『いやぁ、アニメは俺も好きだけどね。そっちの世界はさすがに付き合えないから、こっちが矢面にならずに助かるよ』 『そう言っていただけると』 『昼ドラを見て不倫に憧れを抱かれるよりはマシだと思う事にした』 『素晴らしい夫婦愛かと存じます』 果たしてこのやり取り、どこまで真面目に聞けばいいのだろうと、なんなら聞こえていない振りでもいいよねと、左隣に座る皆藤さんと、私の向かいに座る未希子の顔色を確かめるようにして交互に見た時だ。 『すみませぇん、ここ、いいですかぁ?』 可愛らしく首を傾げならそう言って、けれど既に持っていたトレイをテーブルに置いたのは藤代さん。 誰よりも早く反応したのはピクリと上がった未希子の片眉だったかも知れないけれど、私も直ぐに後を追った。 『どうぞ、藤代さん』 『西脇さん、ありがとうございまぁす』 『…なかなか凄い量だね』 『そうですかぁ? 一応女子として控えめにしたつもりだったんですけどぉ』 言いながら、フォークを持ってくるくるとパスタを絡め始める藤代さんはやっぱり、口調に惑わされずにちゃんと観れば、色気より食い気って言葉が当てはまる。 『…俺より多いな』 『そんな事ないですよぉ。見た目だけですからぁ』 メイン皿に大盛りのナポリタン。 サイドに置いたサラダ用のプラスチック皿もこれでもかという山盛りで、持ち手のついた専用カップにも、コーンスープがたっぷりと入っているからあまり説得力はない。 『皆藤さぁん、女子にそんな事言ってるとぉ、セクハラ、なんて言われちゃいますよぉ?』 『勘弁してくれ』 『ふふ、忘れますねぇ』 このセリフを、例えば越智さんのような話し方に変換すれば、藤代さんの話の中身にどれだけ無駄が無いかとてもよく解る。 この前の切っ掛けが無ければ、私もずっと、気づかないまま通り過ぎるところだった。 『それにしても、二人がランチを一緒にするほど交流があったとは知らなかったな』 そこに込められたのは、明らかに私と未希子の事では無く、 『意外だった』 尋ねた後に言い捨てて、何もなかったかのように蕎麦を啜り出した皆藤さんに、藤代さんがこれ見よがしに息を吐く。 『そうでもないですよぉ。私ぃ、西脇さんとはずっと仲良くお話とかしたいなぁって思ってたんでぇ』 『え?』 それには、思わず声を上げてしまった私だけじゃなくて、無言のまま食事を続けていた未希子の目も反応した。 顔は動かさずに目だけが睨むように藤代さんに向けられたのが真正面に見えて、私は少し焦ってしまう。 未希子は、自分の世界やペースを乱されるのがとにかく嫌いで、そしてそれを排除する為にはかなり向こう見ずの塩対応を厭わない。 もちろん、受け入れたあとはとことん許容するという性格でもあるけれど。 『だから純粋に、こうして西脇さんとお話が出来るのは嬉しいと思うんですけどぉ――――――』 空気を読み間違えないようにしないと、と。 気を張った私に反応するようなタイミングで、ふと、藤代さんの表情が変わった。 『自分の都合で物事を動かそうとするヤツってほんとむかつく。…地獄に流されればいいのに』 耳を澄ませて聞こえるか聞こえないか。 悪態にしか聞こえなかったそのセリフと共に、藤代さんの視線がスッと動いた事に私は気づいた。 皆藤さんの――――――後ろ…? 誘惑に駆られるまま、左後ろを振り返ろうとした時だ。 『――――――あ』 皆藤さんのそんな声と同時に、私に向かってぴしゃりと何かが撥ねてきた。 『わ』 眼鏡をかけている人は絶対にあるだろう不思議の一つ。 どうしてレンズのこちら側にある目の中にも、こういう汁物って直接飛び込んで来るんだろう。 レンズを突き抜けてきたとしか思えない。 『悪い、西脇さん。大丈夫か?』 『あ、――――――はい。大丈夫です』 冷や麦でワサビ醤油なら痺れたかもしれないけれど、お出汁ならままある事だ。 あまり熱くないのも救いだった。 眼鏡を外して片目を擦り、異常が無い事を確認してから、いつもなら制服のポケットに入っているポケットティッシュが今日に限って無い事に気が付いた時、 『貸して』 皆藤さんが私の手から眼鏡を取り上げる。 『え、皆藤さん』 いつの間にか取り出していたハンカチで汚れを綺麗に拭われた眼鏡は、爽やかな笑顔で『ほら』と差し出されて気が付けば手元に返ってきた。 『あ、…ありがとうございます』 こういう所が、結婚してもまだまだ部署内はもちろん、他部署の女子からもモテるポイントなんだろうなと思う。 『それにしても…』 『…?』 眼鏡をかけ直そうとした私の顔を覗き込むような体勢になった皆藤さんが、さっきまでとはまた違う笑みで私に言った。 『うちの奥さんの言った通りだ』 『――――――え?』 何の事だろうと、気を取られて動きを止めてしまった私に、皆藤さんが言葉を続ける。 『西脇さんは可愛いって。きっとその素顔は特別な人にしか見せないんだろうって』 『えッ』 夫婦でどうして私の事を話題にしているのか、その疑問にプラスして、可愛いといつも一緒に仕事をしている皆藤さんに言われると、なんだか凄く変な感じで。 『あの…』 きっと、顔を真っ赤にしてしまっているだろう私は、あたふたと挙動不審を見せるしか出来なかった。 『ああ…そう言えば最初から言われてたかも。 『未希子?』 初めて 『なるほどね。うちの奥さん、可愛いの好きだからなぁ』 大好きな奥さんの顔を思い出したのか、皆藤さんが、会社ではあまり見せない表情で目を細める。 『分かりますぅ。許されるギリギリのところまででいいから、頑張ってテリトリーに入ってみたいって、他人をそわそわさせる変な魅力があるんですよねぇ、西脇さんって』 うんうんと頷いた藤代さんに、 『あんた』 未希子が今度は、視線だけじゃなくてしっかりと顔を向けた。 『藤代さんだった? しゃべり方はいちいちむかつくけど、良く分かってるじゃない』 それを告げる表情が、さっきまでとはすっかり変わっている。 『 『なるほど。それでこの擬態なのか』 『ち、違います!』 大仰に納得する仕草をした皆藤さんに、私は慌てて眼鏡を持ったまま両手を振る。 『皆藤さん、ほんとに違いますから。未希子も、変に想像力を煽るような言い方しないの』 『違わないでしょ? いいじゃない。色んな意味で頃合いだと思うよ? 最近の 『先輩のおっしゃる通りですぅ。みんなも言ってますよぉ? 西脇さんの表情が良く変わって可愛いって』 それは…、 『学生の時と違って、周りはみんな社会人なわけだし、それに、変態から守ってくれるような強い彼氏を捕まえるチャンスの幅も広がるから、絶対』 『――――――その新しい彼氏がぁ、また新たな元凶に成り得る可能性はありますけどねぇ』 藤代さんの言葉に、胸がドキッとした。 今、私を悩ませているのは、彼氏ではないけれど、関係を持ってしまった同僚の男だ。 『確かにそれも一理あるわね。これから サクヤとの事をまだ知らない未希子は、キュッと唇を結んで自身の決意に頷いている。 『もう手遅れかもしれませんけどぉ』 チラリと、私を見た藤代さんの意味深な表情に急に不安を感じてしまう。 もしかしたら、宮池さん経由で昨日の会議室での事を、何らかの形で知っている――――――? 『藤代さん、あんた、かなり奥深いわ。その話し方は世を忍ぶ仮の姿ってわけ? 面白いじゃない。これからじっくり観察してあげる』 『ええぇ? やですよぉ、遠慮したいですぅ』 私には、一体何が切っ掛けだったのかよくわからないけれど、状況としては、未希子はどうやら藤代さんの事を気に入ったらしい。 『まあ、それは今はいいとして、ほら、眼鏡、かけるんだろう? 西脇さん』 『あ』 ポン、と。 皆藤さんの大きな掌が私の頭に置かれた瞬間、 『 食堂に、私の名前を呼ぶ低い声が大きく響き渡った。 この会社で、私を下の名前で呼ぶ男の人は、たった一人だけ。 『…馬鹿』 呟いたのは私ではなく、さっき私が気になった、皆藤さんの後ろへと再び視線を向けた藤代さんで――――――。 それが果たして、誰に対しての言葉だったのかは全く解らなかったけれど、私を呼んだ声の主が予想と違わない限り、状況は何も変わらない。 その現実だけは既に確定だ。 でも出来れば、 出来れば勘違いでありますように――――――。 否定をする為に、祈りながら勇気を振り絞って声のした方へと振り返ろうとしたその途中で、 『誰? シスサポ?』 システムサポート……。 未希子の言葉が、その姿を目に入れる前に答え合わせを終えていた。 サクヤ――――――。 心構えをして収めた視界の中、疎らに空席はあるけれど、八割は埋め尽くされたこの社食で、長身を活かして黒縁眼鏡の奥から私を睨むようにして立っているのは間違いなくサクヤ。 その向かいには宮池さんが背中を向けて座っている。 それが宮池さんだと瞬時に分かったのは、彼が椅子の背もたれに抱き着くようにして、体ごとこちらを振り返っていたからだ。 『 再び、サクヤの唇が私の名を刻んだ。 口元を手で押さえた宮池さんの肩が小さく震えているのがこの距離でもわかる。 『 未希子の問いに、私は応える事が出来なかった。 顔を向ける事はもちろん、声だけで返す事すらも……。 それくらい、サクヤの強い視線は私を縛り、そして、 唇が、手が、その指先が、 " 私を支配していた時と同じ香りが、まるで糸のように可視化して伸びてきているのがわかる。 何だか怒ってる。 そしてその怒りは間違いなく私に向けられているらしい。 意味も解らないのに理不尽。 自分勝手だと、 そう、思うのに――――――…。 " 肌に触れてくる優しさを思い出して胸が疼く。 " きつく抱きしめられる感触を思い出して、心が疼く。 "あと何回抱いたら、オレに染まる?" 私を、触れない筈の空気に縫い付ける程の強い視線は、サクヤのそんな声さえ過去から伝えてきていた。 『うわ、…なんか歩き出したんですけど』 未希子のセリフが、珍獣を遠くから眺める そんな私を他所に、 『…室瀬…か? いや、なんか、すごく睨まれてるような気がするんだが…』 皆藤さんの言葉に、藤代さんが短く息を吐いて言葉を綴った。 『あのぉ、皆藤さん。あたしぃ、西脇さんから距離、とった方がいいと思うんですけどぉ』 『え?』 『皆藤さんだってぇ、他の男に奥さんが頭ぽんぽんされたら嫌だと思うんですよぉ。その辺、どうですかぁ?』 『それはそうだけど――――――って、あれ? アレってそういう事? え? 尻尾踏んだの俺?』 『分かったらさっさと離れてください。はい』 『お、おぅ』 怯えるように椅子を動かして距離をとった皆藤さんに、私は眩暈を覚えそうになる。 『ちょ、やめてください、皆藤さん!』 『え? やっぱり サクヤの その反応を更に煽るようにこちらへと一歩ずつ進みながら、黒眼鏡を使って前髪を上げ、拾われずに横に零れた一房を指で背後へと梳き流すサクヤの仕草は、胸が掴まれる感覚があるくらいとても妖艶で、綺麗で、 ――――――言葉はないのに、小さく顎を上げての眼差しの投げ方が、オレを待っていろと言わんばかりに私の動きを制してくる。 それは、宮池さんの光に隠れていた室瀬さんではなく、明らかにホストとしての雰囲気を前面に押し出す表情を見せているサクヤの姿。 まるで、花の蕾が弾けて綻び咲くかのように、悔しいけれど、既にその形体を知っていた筈の私も、自由を奪われたかのように目が離せない。 "誰、あれ" "シスサポにあんなイイ男いた?" 誰かの囁きから始まって、それからは情報の探り合い。 彼がただ歩くだけで撒き散らす、香りのような色気に浸食されて、社食の空気が音を立てながら温度を上げていく。 『なんなのあの人! 甲高い悲鳴のような呼吸が混ざるそのセリフは、未希子にとってきっと最大級の賞賛で、 そして、 鋭いね、未希子。 しかも現在、通貨価値不明瞭の方法で絶賛支払い中。 読み進めるだけで悶絶しそうになった内容の一部を頭の片隅に思い出して溜息が出る。 現実逃避も兼ねて、意識を果てしないところまで遠くしてみる。 このまま夢オチとか…、 『 ないよね、うん。 やっぱりこれは現実だった。 『ぇっと…な、何かご用でしょうか? 室瀬さん』 いつも通り、会社で培ってきた"西脇咲夜"の表情を崩さないように平静な振りでそう返すと、私を見下ろしていたサクヤの片眉がピクリと跳ねた。 『――――――ふうん?』 何かを納得したような、それでいて"誰が飲むか"と言う副音声が聞こえてきそうな程に作られた一見は緩慢な笑みが、私の背中を冷やりと撫でる。 『 『え?』 再び私の名前を呼んだサクヤは、気が付けば皆藤さんとの間にあった狭いスペースに体を差し入れて、その位置で屈みこむようにして顔を近づけてきた。 途端、ざわりと社食の雰囲気が揺れる。 "え、キスしてるの?" "マジかよ" 『ち、ちが』 どうやら、サクヤ側から私達を見ている人達にはアングル的にそう映ってしまうようで、耳に入ってきた誰かも知らないその声に思わず反論しようと席を立ちかけた私は、寸での所で我に返る。 腰に、手が添えられた感触――――――。 まさかと思いながら慌ててサクヤを見上げて目を合わせると、その唇の片端が明らかに上がっていた。 同時に、多分親指が、私のウエスト辺りをそろりと撫でる。 『ちょ…』 いくらサクヤでも、社食で倫理観を問われるような行動は起こさないだろうけれど、でもきっと、私が立ちあがれば何かしらサクヤの 『…』 私は、小さく咳払いをしながら、座り直す振りで体勢を整えた。 この、一見嫉妬に駆られたかのように見える、角度によっては誤解を与えるような位置取りも絶対にわざとだ。 抑えつつも、隠しきれない動揺を自覚しながら顔を上げると、私の向かいでは口を半開きのままの未希子がスマホに手を伸ばそうとする誘惑と視線をそわそわ戦っていて、隣の藤代さんはというと、こっち…つまりは、私とサクヤを視界に入れないようにしながら黙々と食事を続けている。 皆藤さん――――――は…、 『 様子を窺おうと背中を仰け反らそうとしたところで、サクヤが更に私へと体を傾けるようにして視線を合わせてきた。 『あんまり無防備にオレ以外の男に触らせないで。妬けるから』 そう言ったサクヤの指先が、私の頭を撫でるようにして触れてくる。 『それとも、オレを煽りたくてわざとやってる?』 表情も、声も、耳触りはとても柔らかい。 けれど、偉そうじゃない、いつものサクヤと違うこの口調が、何て言うか、 物凄く、 『…怖い…』 逃げるように目を逸らした私の顎に、サクヤが手の甲を当ててきた。 そのままグイっと顔を上げられる。 『ん? 何か言ったか? 逃げる事を許さない笑顔の裏の、圧力と強制。 『ぃえ、なんでもありません…』 やっぱり、動の本質は私が知る夜のサクヤだ。 『今日は一緒に帰ろうか、 流れるように、手の甲が顎の線に沿って耳元に辿り着き、指先に変わって掌で折り返し。 上を向かされた格好の私は、サクヤからほんのりと香って来る毒に中てられて、その羞恥を撥ねのける事すら行動に移せない。 『ぇ…と、色々と、お忙しいのでは…?』 真っ向から否と言えば絶対に敵に回す。 この場でこれ以上の展開をドツボに填めたくなかった私は、当たり障りのない答えを選んだつもりだったけれど、 『9番の残り八十回。ここで請求しようか?』 『ぅ』 誰にも聞かれないような小声で囁かた内容に、思わず喉の奥が唸ってしまう。 9番。 バードキス百回。 額や頬だけじゃない。 鼻の頭や顎の先、瞼の上下に左右の小鼻――――――もう頭がおかしくなりそうな程に続けられたあのキスの嵐。 死にそうなくらい息も辛かったのに、まだ二十回しかしてないって、本気で酸素不足で倒れそうになった。 究極過ぎる恥ずかしさ満載の行為を思い出して、顔が徐々に熱くなってくる。 『ちょっと、それは…』 こんなところであんな風にされたら、連休明けに出社する気力が完全に殺がれてしまう。 っていうか、もう今の段階で既に帰りたい…。 『ちゃんと恋人のように振る舞うのなら、それを9番の為替として扱ってもいい』 為替――――――? 為替ってなんだっけ。 現金代わりに発行される小切手とかもその一つだっけ? キスの代わりに振る舞いを受領してくれるって事? つまり、9番が無くなるって事? 『 背に腹は代えられない。 『わ…わかりました。一緒に帰ります』 『イイ子だ』 ふわりと、サクヤが笑った。 え? そう思ったのも一瞬。 そして、 ちゅ。 サクヤの手によって前髪をかきあげられて晒された私の額に、落とされたキスの音が大きく鳴ったのも一瞬だった。 ざわりと、それが見えている人達から空気が波打つ。 『ひッ』 悲鳴を上げたのは私じゃなくて、未希子。 私はと言えば、衝撃のあまりに動きも声を失ってしまっていて、 『じゃあ後で』 ポンポン、と私の頭を叩いて去って行くサクヤの後ろ姿を視界の隅に茫然と見送った後、 目の前で苦笑する皆藤さん、 そしてその後ろに見える遠くの席で、顔を真っ赤にしながら周囲を巻き込んで興奮している羽柴さん、 それから、 『大丈夫ですかぁ? 西脇さぁん』 どちらかと言うと、棒読みに近いその言葉を発した藤代さんと、その隣に座りながら、今にも倒れそうなくらい鼻息が荒い未希子、そして最後に、まだほんの少ししか手を付けていなかったグラタンへと視線を移す。 『ちょっと "私も、作った覚えはありません" 口にしたかったけれど、元のテーブルに戻っただけだろうサクヤの存在を思うと、未希子への説明は時と場所を改めた方がいいと判断出来て、大人しく目を瞑る。 同時に、同じような意味を含んだとてつもない好奇心があちこちから犇々と伝わってくる事にも、私は気づかない振りをしようと全力でとりかかった。 ――――――というのが、今日のお昼時間の出来事で。 その後は、今まで平和に過ごして来た会社とは、まるで居心地が違っていた。 部署内でも、羽柴さんを筆頭に色恋での話題を提供した私が珍しかったのか、小谷さん、越智さんまでもが好意的に祝福の言葉をくれて、 『 終業の三十分前から、電子ドアの向こうの廊下でサクヤが私を待っていると、何故か頬を染めながら教えてくれたのは羽柴さん。 それからは、なぜか今日に限ってトイレ休憩に立つ頻度が高くなった部署のメンバー達が、入ってくる度にニヤニヤと私を眺める感じで見世物になり、当初の計画とは随分と違ってしまったけれど、それなりに楽しもうと思っていた連休への序章の帰宅が、これまでで一番重い足取りへと変えられたのは全部サクヤのせい。 「…もうッ」 着替えを終えて、鍵を閉めたロッカーに額でもたれながら、深く息を吐く。 かなりの広さがある部署専用のロッカールーム。 私物の持ち込みが禁止されている唯一の部署だからこその待遇でもある。 私の帰宅時間が他のスタッフと重なっていなくて本当に助かった。 しかも、サクヤが普段は地味系で通していた事への好奇心の方が大きく勝って、私がその隣に並ぶという事に対して悪意のようなものはまだ向けられていない。 これが宮池さんとかなら、今頃トイレとかに呼び出しされてそう。 …社会人だから、さすがにトイレはないかな。 「――――――よし」 気合を入れて姿勢を正す。 今日は仕事帰りに駅前で雑貨を見て回る予定だったから、スキニーパンツを選んでいた。 何となく、防御力がある気がする。 "待ってる" そう言って、さっきサクヤが指先で触れてきた唇への感触を思い出し、打ち消すように一舐め。 「平常心平常心」 バッグを小脇に抱え直し、自分に言い聞かせるようにしながら歩き出す。 明日から十二連休。 今日のサクヤをどうにかやり過ごせば、どうにかなる筈だ。 ――――――そんな甘さが、正しく私の愚かさの証明だったと知ったのは、彼のテリトリーの中に入った後の事だった。 |