小説:夜は秘密の花香る


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夜は秘密の花香る
SECRET:13

 脱いだトップスの汚れを確認して洗面台の上で軽く洗い、乾燥までの全自動ボタンで洗濯機を稼働させる。
 便利だとは思うけれど、太陽の光の中で、家族の洗濯物を幸せそうに干す母の笑顔を見て育ったせいか、こういう利器にはあまり興味が湧く方じゃない。
 ベランダ…向こうのガラス戸がそうかな?
 少し好奇心が生まれたけれど、「他人の家、他人の家」と、そこは自制。
 振り切るようにバスルームに入ってまず驚いたのはその広さ、次にバスタブの向こう側の木目調の壁、最後は、TVでしか見た事のないようなバスタブの大きさ。

 「…ホテルと同じ…くらい?」

 大学を卒業する時、逸美を含む女子四人でハワイに行き、そこで利用した、割り勘にしてもかなり高めの印象があったコンドミニアムのバスルームがこれくらいだった。

 「サクヤって…」

 ただの会社員のお給料で住める場所じゃない。
 車といい、このマンションといい、副業のホストでどれだけ稼いでいるのか、これこそが証明で知れてしまう。

 借金。

 藤代さんが目撃したという情報を前提に、サクヤはきっとその借金をどうにかする為に、脅してお金を引き出せそうだと思った私に食らいついてきたのだろうと考えていたけれど、今、サクヤとの間で締結されている支払い方法を鑑みれば、その要素は通らない。

 「聞かないと分からない事を、必死で考えても仕方ないよね…」

 ちゃんと聞いてみよう。

 コックを捻ってシャワーを出す。
 それを頭から浴びて汚れを感覚的に洗い流し、髪の毛にたっぷりと水を含ませたところで、腰の位置にある壁のアメニティ棚にシャンプーを求めて視線を移した。
 そこに並んでいたのは、これまで見た事もない三つのボトル。
 表記はフランス語。
 それぞれシャンプーとコンディショナー、ボディソープと英語で書かれているから区別は助かったけれど、

 「…この香り…」

 ポンプで飛び出してきた琥珀色の液体に、ドキリとする。

 「コロンだと思ってた…」

 サクヤが近くなる程に漂って来る媚薬のような甘い香り。
 それは、嫌になる甘ったるさではなく、瑞々しい爽やかな甘さで、それでいて、何故か心がホッとする優しを持っている。

 「…イランイラン? 嘘、これが?」

 ボトルに表記されているのは私も知っていた花の名前で、一時期はまっていたお香の、その中でも割と好きだった香り。
 けれど、私が知っているイランイランは、喉に微かにかかるくらいのスパイシーさを持つもので、こんなにスッとする軽さはなかった。

 「ボトルからして、高そう、だね」

 今日もサクヤが身に着けていたイタリアブランドのシャツを併せて思い出して、小さな笑いが零れて落ちる。
 何にでも、ピンキリは存在するわけで。

 「困ったな…」

 セックスをしている時とはまた違う、サクヤを感じさせる香りに包まれて、私の戸惑いは今にも極まる寸前だった。





 「 咲夜 さや 、着替え置いておく」

 ちょうどシャワーを終えたタイミングで、ガラスモザイクのドアの向こうからかけられた声に動きが止まる。
 板チョコのように配されたガラスははっきりと透き通らないけれど、人の影が動いているのはちゃんと見えた。

 「 咲夜 さや ?」
 「あ、ありが、と…」

 危なかった。
 あともうちょっと早く出ていたら、裸のままサクヤと遭遇していたかも知れない。
 何度もセックスをして、サクヤに知られていない場所なんてもう私には無いのに、心にブレーキをかける為に解き放てない領域がその辺りにある。

 理由がある行為以外は、これ以上混乱しない為にも、なるべく受け入れたくない。
 息を潜めるようにしてサクヤの気配が消えるのを待っている間に、髪の先から流れる滴が胸のカーブを次々に滑った。

 「…ッ」

 変な気分になってくる。

 体はサクヤのテクニックを覚えていて、ふとした時に思い出すそれは、私の女に疼きを齎した。

 ドアが閉まる音がして、神経を尖らせて耳を澄ませれば、微かに廊下を歩く音が聞こえてきた。

 ホッと息を吐いてドアを開ける。
 シャワールームに溜まっていた湯気が、洗面所のある脱衣スペースに広がった。

 「…ドライヤー」

 さっき、棚に見たような気がしたのに、見当たらない。
 気のせいだったかと目線を移せば、男性用化粧水や、シェービング、一本だけ立った歯ブラシ。
 タオルはツートーンの色違いで揃えられていて、お洒落だけど女性的な要素はなく、きっとサクヤの好みなんだと、シャツや車、そしてインテリアから何となく理解出来た。

 「着替えって…これ?」

 まだ袋に入ったままの新しいショーツと、そして、

 「…嘘」

 辺りを見回して見たけれど、当然、着れそうなものはそれしかなくて、

 「どうしよう…」

 どうしてか、足元が底無しのどこかになったような気がして、私は全裸のままで膝を抱えて座り込んだ。



 ――――――
 ――――


 恥ずかしい。

 もう、何て言うか、顔が火照っているのが自分でも解る。

 それでも、いつまでも他人がここに閉じ籠もっているわけにもいかず、私は覚悟を決めてリビングへと足を進めた。


 「やっと来たな」

 口を斜めに笑うサクヤは、明らかにこの状況を楽しんでいる。

 「ふ、普通のTシャツで良かったと思うんですけど」

 太腿の半分から下を露出している自分の姿を見下ろしながた言った私に、サクヤが今度は声を出して短く笑った。

 「確かに、それもアリだな」
 「どうして…」

 よりによって何故Yシャツなのかが、さっぱり分からない。
 それも、サクヤがいつも着ている例のイタリアブランドのシャツ、色は淡いミントカラー。

 「見たかったから」
 「え?」
 「見たかったんだよ。オレに包まれてるって感じのお前を」

 言葉だけ聞けば、凄く情熱的に聞こえるのに、その目はまるで私の反応を楽しむかのような冷静さに光っている。

 「な…ッ」

  揶揄 からか われている。
 頭では分かっているのに、顔がますます赤くなるのを制御できない。

 「こっちこいよ」

 大きなTVの前のソファを示したサクヤは、自らもそこに進んで、テーブルの上からドライヤーを掴み取った。

 「あの…」

 まさか、乾かしてくれるつもりなの?

 「早くしろ。風邪ひく」
 「…」
 「 咲夜 さや ?」
 「…ぅん」

 流れに負けて、おずおずと足を進めると、最後は手首を引かれてソファに座らされる。
 それからサクヤは、無言のまま私の背後に廻り、さっきバスタオルで適当に滴を払っただけの髪の毛を、慣れた手つきでその手に握った。




 ――――――
 ――――

 …凄く、気持ちいい。

 クーラーが適温に効いた部屋で、柔らかなコットンを身に纏った時の微睡みのような心地良さ。

 到底現実離れした感覚の世界に身を委ねながら、これは自分が眠っているからだという事がどこかで分かっている。

 これは夢?

 違う…。
 この心地よさを、私は知っている。

 そうだ。
 ここ、何処だっけ…?

 私は、どこで眠っているんだっけ…?


 「…ん」


 ぼんやりと考えるけれど、まるで水の中に浸っているみたいに、思考が溶けて たゆたゆ ・・・・ している。

 ああ、指先まで、このままどこかの果てに溶けてしまいそう――――――…。

 上下も判らない空間の中で、寝返りを打った気がする。

 腕に触れた感触に、そっと息が漏れた。
 逃がさないように両腕で囲い込む。

 抱き枕…、

 何だか、私の身体にピッタリ合ったそれを全身全力で抱き締めてみれば、その心地よさは更に実感できた。


 ゆらゆらと揺れる、私という存在。

 梳かされる髪…、時々、頬に触れる温もり――――――。



 ――――――っ、


 水が、


 「…ちゅ」


 口の中に――――――、


 「ぁう」


 息が出来ない、


 「く、」


 苦しい…、


 「ん…」


 口の中に、これは、


 水――――――じゃなくて、


 「んく」

 歯列に添って私の口内をぐるりと回った肉感が、

 「くちゅ、ん、…ま、」

 この妖しい水音の、源――――――…。


 「待って、ま、」

 どうにか目を開けて、隙間を縫ってそんな言葉を綴ったけれど、阻まれるように唇を啄まれれば、反射的に顎が反ってしまう。

 「ん、んんんんッ」

 まるで食べられてしまいそうな程の深い口づけ。
 体内から空気を抜かれそうな程に舌を吸い上げられて、ここで漸く、自分が誰に何をされているのか頭がはっきりとしてきた。

 あうあうと舌を食まれている間に、拳でサクヤの胸板を叩いて抗議を何度か入れたところで、やっと唇が解放される。

 「サ、サク、な、キ」

 息も切れ切れの状態で目の前の鼻筋アップに文句を言おうとして、

 「メシ」
 「――――――え?」

 息がかかる距離で告げられたのは、まったく想像もしていなかった単語。


 「飯。さっさと食うぞ」
 「え…?」

 呆然とする私に背を向けて歩き出したサクヤの肩の向こうに本棚の置時計を見えた。
 時間は二十時を少し過ぎたところ。

 「…寝ちゃった…?」

 良かった。
 眠ったのは三十分くらいだ。

 キッチンで動くサクヤのシルエットを視界の端に止めながら、私は横になっていた体勢をソファの上で整える。
 ふと髪の毛を触るともうすっかり乾いていて、それを確認すると同時に、何処かに行ってしまったらしい警戒心を思って自己嫌悪する。


 「ほら」

 そんな私を他所に、サクヤに運ばれてきたお皿の上には、美味しそうなカルボナーラ。
 微かに上る湯気が彩った景色を、思考を固めて見ている内に、ニンジンの入ったポテトサラダとカップに入ったスープもやってくる。

 「…これ、サクヤが作ったの?」
 「スープはインスタントだ。サラダは昨夜の残りだな」
 「…パスタは…?」
 「さっき一緒に買い物しただろ? 茹でてあっためたソースかけただけ」

 怪訝な表情で見下ろされて、ついたじろんでしまう。
 買い物中は、まさか今日作る材料だなんて考えもしなかったから、それが目の前に成果物となって現われて、私は強く動揺していた。

 「下に座るか?」

 座ったソファとテーブルがほぼ同じ高さなのを気にしてか、サクヤがそんな事を提案してくる。

 「う…ううん、大丈夫」

 最初は躊躇いながらもはっきりと首を振って応えれば、私から斜めの位置に座り込んだサクヤが眉間を狭めた。

 「やっぱ下に座れ」
 「え?」
 「目に毒だ」
 「あ」

 サクヤの目線は、明らかに私の太腿と同じ高さで、

 「ごめ」

 幾らシャツの裾が腿の半分までを覆っているとはいえ、食事中の正面にこれはちょっと見苦しい。


 「オレをこのままセックスに誘いたいってんなら構わないけどな」
 「違います!」

 反論しつつ、床に座り込む。

 「いただきます」

 律儀に、そう言ったサクヤは、フォークを使って盛られたパスタに乗っていた、橙と白が綺麗に映えた卵を割った。
 とろりと流れ出したその黄身を、パスタを使ってソースと一緒に絡め取り、大きく開けた口の中に入れていく。

 「…」

 フォークを何気なく回す指の動き。
 上下の唇が食べ物を取り込んでいく様。

 アシンメトリーの前髪の一部が、時々、長い睫毛に触れては揺れる。

 その目元が、パスタが美味しかったのか、ふと笑みに緩んだような気がして、私はハッとした。


 …何、キュンと見つめてるのよ、私のバカ。


 ぶんぶんと頭を振って、ここは夢の中じゃなく、現実の世界だという事を自分に言い聞かせた。

 この人はホスト。
 この生活感からして、先入観で思い込んでいたお金とかが起因じゃなく、多分、私との事はサクヤにとって、暇つぶしみたいなものだと思う。


 "オレが選んだ十個と、お前が選んだ十個で、それぞれ一日一回"

 つまり、十日だけサクヤのこの遊びに付き合えば、きっと終止符を打ってくる筈だ。


 この人は――――――、


 特定の女に長期間構う事を、他の女の人達に許される存在じゃない。


 「 咲夜 さや 、食べないのか?」
 「…いただきます」

 とりあえず、家に帰ってから考えよう。
 明日からは休みだし、サクヤには出来るだけ事前にスケジュールを組んでもらえるようにして――――――。

 フォークを手に、少量のパスタを持ち上げると、食欲を促す香りが漂って来る。
 誰かに作ってもらうという事自体が久しぶりだからか、いつもより強い空腹感があった。


 「美味しい…」


 よく見れば、ベーコンの他にほうれん草も入ってカルボナーラは、思わずそう呟いてしまう程に美味しくて、

 「そりゃ良かった」


 そして、


 そんな私に向けたサクヤの微笑みは、いつもの意地悪さが一切見えず、

 「…」


 ソースの中に感じるほんのりとした甘さが、強く、胸の奥まで沁み落ちた。





 「…ごちそうさまでした」

 TVを点けないまま、サクヤと時々会話を交わしながら過ごした食事は意外な程に心地良い時間で、

 「ああ」

 立ち上がったサクヤの唇の端が、私の方へと視線を流したと同時に微かに上がったのを見つければ、なんだか胸がときめいてしまう。

 見目が良い人は、こういう時の効果が絶大だ。
 普通の人よりも、相手に多幸感を強く与えられるような気がする。

 「ぇ…と。そろそろ、乾いたかな…?」

 洗濯機に放り込んだ洋服の事を思い出して、胸に湧くものを誤魔化すように声に出してみた。
 三時間もあれば終わると言っていた気がするし、もし生乾きでも、帰宅途中でにわか雨に降られたと諦めれば着られない事もない。
 私の言葉が聞こえていたのかいなかったのか。
 サクヤは無造作に立ち上がり、空になった食器を手の上に重ねてキッチンへと歩き出す。
 それを短い間だけ見送って、ふと、存在を知っていた本棚の置時計へと視線を上げた私は、


 「…え?」

 思わず、そんな声をあげてしまっていた。

 「…ど…どうして?」

 何度目を瞬いても、目に入る情報は変わらない。

 「け…携帯、鞄、バッグ、私の――――――」
 「これか?」

 半ば立ち上がった私の目の前に、サクヤがしたり顔でやってくる。
 その片手には、私が玄関で手放したバッグが提がっていて、

 「放りっぱなしじゃ何だからな、あっちのテーブルに置いてた」

 キッチンへと肩越しに目を向けてから再び私を見下ろして、うっすらと笑みを象った唇でさらりと告げる。

 「音消ししてないなら、着信は無かった筈だ。少なくとも、オレは気づかなかった」
 「そうじゃなくて」
 「ああ、ラインか? 通知音は気づいてないかもな」
 「違う!」

 何故か上機嫌に見えるサクヤの、その上に足して来るわざとらしい態度に、イライラが募って心の中では地団太を踏む。
 でも、怒りよりも何よりも、

 「今一体、」

 何時なのか。
 その疑問への答えが欲しくて叫びかけた私に、サクヤが被せるようにして「ああ」と鼻で笑った。

 「パスタが茹で上がった頃には、一時を過ぎてたな。確か」
 「一時って、そんな…」

 それはつまり…。

 「…」

 これ以上の言葉を紡ぐと現実から逃れられそうにないと。
 どうにか懸念を飲み込んだ私の頭上から、誘うような香りが落ちる。

 「 咲夜 さや

 名前を呼ばれて、ギクリと思考が固まった。

 「46番」
 「…な」
 「一日、お互いに一回。日付は変わったんだ。問題ないだろ?」
 「あの…もう、夜も遅いですし…、明日も、仕事…ですし、また今度にした方が…」

 言葉も、体も、とにかく逃げ腰。
 早くここを出なければと、本能はガンガンと警鐘を鳴らして、私は帰る事だけを目的に嘘を混ぜる。

 「その、また改めて日程を…」
 「お前、明日から十二連休の筈だろ?」
 「…よく、ご存知で、すね」
 「今の時代、知りたいと思って手に入らない情報は多くない」
 「…」

 内心からの冷や汗で、背中にゾクリと悪寒が走る。


 「――――――46番だ」


 未だ、二十時過ぎを示しているあの置時計は、サクヤの手によってわざと止められたのだと確信する。
 きっと、サクヤが私の髪を乾かしてくれたあの時に。
 無防備に、眠ってしまったその間に――――――。



 私のバッグをいつの間にかソファの上に手放していたサクヤは、その手に銀色の輪っかを持っていた。
 重なったそれを指の動きで器用に擦りながら音を立てさせている。

 46番、46…46…、

 必死で記憶をたどるけれど、リストを全て暗記しているわけじゃない。

 「あの、サクヤ? えっと、それって…」
 「手錠」
 「…」

 それは知っている――――――と突っ込む勇気は、何だか怖いくらいに満ち足りた笑顔のサクヤを目の当たりにすると、出す事は出来なかった。

 「46番。拘束プレイ、かっこ手錠かっこ閉じ」
 「用意…してたんだ?」

 拘束プレイ。
 確かに、手錠を拘束以外に何に使うかなんて他には思いつかないけれど、だからといって、手錠をかけてエッチをするって事に、笑顔で応じる余裕はない。

 「 咲夜 さや 、貸して、手」

 掌を見せられて、それはつまり、その上に私の手を置けと、そういう意味で。

 「あの…」

 だからと言って、素直にお手をする気になる筈もなく。

 「…ぇっと…、それは、今?」
 「今」
 「…これから?」
 「直ぐに」

 目の前にあったサクヤの手が、更に伸ばされて私の頬に触れ、それにピクリと反応したのを見届ければ、そのまま横髪の根元へと進んで埋もれる。

 自然と、私の顎が上を向いた。

 サクヤの眼差しから、欲情の色がありありと窺えた。
 男の人にしてはささくれの無い、淡い桃色にすら見える血色の良い唇は、抱き合っている内に私の香りになるのだと、唐突に思い出して体が火照る。

 ドクドクと、自分の心音が全身を駆け巡った。

 サクヤに抱かれる事を、私はすっかりと覚えていて、
 そして、抱かれればどうなるか。

 その快楽を、体は正直に欲している。


 「ぁ」

 腰が抜けたように、私は背後のソファに座り落ちた。
 立ったままのサクヤの指に、自分の髪が絡まって解けたのを、まるでスローモーションのように見て、

 「サク、」

 私が呼びかけたのと同時に、床に膝をついたサクヤは、その手で私の両足首を強く掴んだ。

 「きゃ」

 そのまま床に引きずられて、落ちそうになった上半身をサクヤの腕に包まれる。

 「…」

 気が付けば、目の前にはサクヤの顔があって、その後ろには天井、柔らかいけれど、はっきりとした白の照明。


 ガチャリと、左の手首に手錠がかけられた。

 「ちょ」

 それを見ようと首を動かした隙に、右腕もとられて再び手錠がかかる音がする。
 安っぽい音だと思ったけれど、軽く引っ張るくらいでは外れそうになく、

 「え、嘘、ちょっと待って」

 そして、手錠で輪になったその中に、太いテーブルの脚が一本。

 繋がれた。


 「やばいな」

 一度だけ逸らされたサクヤの目が、再び私の正面に戻る。
 ほんのりと、頬が赤くなっているのは、ここからでもはっきりとわかる、大きくなったサクヤのソレと同じく、興奮しているという事。

 「サクヤ、あの…」
 「これで、もう逃げられないワケだ」
 「え?」

 サクヤの両手が、まるで私を象るように、頭の形から髪の毛先、首筋、両肩をなぞって下りて行く。

 「彼シャツってのは、男の独占欲が示されたその結果だな。セックスして一つになっていなくても、自分のものだって視覚的に安心するよ。簡易的だが、有効だ」
 「…」

 どうして――――――?

 「ぁ」

 シャツ越しに、胸の膨らみをゆっくりと揉み上げられた。
 既に立ち上がった胸の先が、シャツに擦れて妙な感覚を運んでくる。

 「お前…好きだよな? ここ」

 サクヤの指の腹が左右に動いて痺れを育む。

 「ん…」

 抗おうとしても、頭上に繋がれた両腕は意味が無く、結局は体を捩るしかできなくて、でもそれをする事で、シャツの裾は捲れ上がり、下半身がじわじわとサクヤの身体を受け入れる体勢になっていく。

 「そしてここも」
 「あ、ぃや」

 ショーツの上から、サクヤの手がそこを撫でた。
 既に知り尽くされた位置はピンポイントで抓み取られて、マッサージするような周囲への刺激が、そこだけを膨らませる感覚を生み出す。

 「直接触れるよりも、布越しの方がずっと濡れる」
 「サク、ャ」
 「そういう女は、男に満足させられてなくて、自分でした方が気持ち良いから、慣れている体がそう反応するんだ」
 「…ぁ、」

 布の上から触れる事で、快楽を覚えた事は否定しない。
 そして、元彼とのセックスで、 自慰 それ を超えるようなエクスタシーをあまり感じた事がないのも事実だった。

 「けど今のお前は」

 片方で私の胸の先をシャツごと擦りながら、
 もう片方の手は、ショーツの横から入り込んでくる。

 「あッ、ぁぁ、ッ」

 ぐちゅぐちゅと、まるで泥濘のような溜まりがあるのが、音だけで分かった。

 「熱いな…指二本、あっという間にドロドロだ」
 「ぃや、やめて、それ、いや、ぁ、ッ」

 入口の上部分を引っ掻くようにしながら、乳首を潰すような強い愛撫を始めたサクヤに、思考が飛ぶ。

 「オレが覚えさせたこの場所…ここ」
 「あぁッ、待って、まってッ」
 「たった二日でもうこんなに溜まってる」

 指の動きが、ある一点を集中して擦り上げていく。
 ここはサクヤが教えてくれた私の潮吹きポイントで、Gスポットとはまた違う場所だった。
 そのGスポットすら、サクヤが教えてくれたんだけど…、

 「ゃ、でちゃう、お願い、サクヤ」
 「出せよ。お前の匂いで、オレを濡らしてみろ」
 「ぁ、ッ」

 サクヤを、私の香りで――――――、

 それを想像した瞬間、エクスタシーとは違う極まった別の何かが体から力を奪われ、まるで、蛇口から突如流れ出す水のような音が、短く数度にわたって私から飛び出した。

 その恥辱に思考が辿り着く前に、クリトリスを強く揺らされて、今度は鞭打つような強さの痺れが溢れかえり、子宮の中までガクガクと震える。

 「あ、」

 イク――――――。


 「……っ、…ッ、――――――はぁ、はぁ…」

 サクヤにイカされると、今もそうだし、これまでもそうだったけれど、毎回不思議な想いが胸の底から沸き上がってくる。
 息が止まり、そこから必死に生を繋ごうとする本能的な呼吸、それを紡ぐ毎に生まれてくる充足感に似た、温かい感情、セックスに対する愛おしさ、

 「 咲夜 さや

 ポタポタと滴が垂れる指を、シャツをまくり上げて露にした胸に拭い、それを啜るようにして乳首や膨らみを舐めるサクヤの齎す目線と、漂って来る性の香りにクラリとする。


 ――――――愛おしさ…。


 それは、元彼に感じていた時と同じような気もするし、全く違うような気もするけれど、

 身体の関係から生まれる愛があるのか否か。
 情という意味でなら、やはりあるのだと、私は思う。

 恋とは違うとしながらも、こうしてこの人と何かを分かち合う度に、肯定が胸をキュッとさせる。


 「 挿入 れるぞ」

 気が付けば、サクヤは避妊具をつけ終えていて、

 「ん、…ぁ」

 愛液でゴムを濡らす動きはたった二度。
 そのまま、グッと私の中にサクヤの形が押し込められる。

 折り曲げられた私の足は、膝の辺りまで下ろされたショーツで固定され、

 「は、… 咲夜 さや 、ふ」

 腰をゆっくりと動かしながら、時折、苦しそうに眉を顰めて俯いてくるサクヤのその顎に、膝頭が当たらないかと心配になった。
 もちろん、そんな事を考える余裕があったのは少しの時間。

 サクヤの呼吸が短く刻まれるようになるほど、私の思考は白へと浸食されていく。

 「あ、あ、あ、ぁう、ぁ」
 「はッ、はぁ、…く、 咲夜 さや 咲夜 さや ――――――」
 「あぁッ」

 動きが激しくなる程に、手錠の鎖部分がテーブルの脚にあたってジャリジャリと言った。
 更に深く折り曲げられた私の足からは、いつのまにかショーツは無くなっている。

 代わりに、両足首を握っているのはサクヤの両手で、まるで、私の舵を取るように、額に汗を浮かべたサクヤは躍っていた。

 「ああッ、ぁぁ、サクヤッ」

 まただ。
 またこの感覚。

 抱き締めたいと、湧き上がって来るこの感情。


 ガチャリ、ガチャリ、

 「サクヤ、サクヤッ」

 気持ち良い。
 繋がったあそこが、突かれる中が、引きずられる内側が。

 でもそれ以上に、


 「 咲夜 さや ッ」
 「サクヤッ、ぁ、イク、…ッ、ィ…」

 絶頂が、脳まで駆け上がる。

 「オレも、―――――― 咲夜 さや …ッ」

 その時には、私の頭を抱え込み、折り曲げるように押さえつけられた両足は、サクヤの肩の上にかかっていて、


 「 咲夜 さや
 「サクヤ」

 啄むように合わさった唇よりも、欲を吐き出す事を知らせる息が、先にぶつかり合う到達のひと時。

 もう射精は終えた筈なのに、まだゆっくりと腰を動かすサクヤの舌は、深いキスを求めて私の中に入って来る。

 あそこと、口内とを、じっくりと愛撫されて――――――、


 「大丈夫か?」
 「え?」
 「腕」
 「…ぅん、痛くは、ない…けど」
 「そうか」

 彼が一度、私が二度の頷きを交互にかわした後、サクヤの唇が額に落ちる。


 「――――――なら、このまま続けて大丈夫だな?」


 「……え?」


 精を吐き出した直後のサクヤは、蕩けるように優しい目をしていて、凶悪な花だ。


 「特に時間や回数の指定がないものはその日一日は有効だろう?」
 「き、聞いてない!」
 「今決めた」
 「後だしなんて卑怯、ぁッ」
 「ほら、体はもっと欲しいってさ」
 「そんな…ッ、あ、ぁあッ」


 抵抗空しく、その後もずっと同じ体勢であちこちを攻め続けられて、


 「もう、ダメ、もう…サクヤで、いっぱい、なの…も、いらな…」


 三度目の射精を経てから漸く、私を拘束していた手錠は外されたのだった。





  咲夜 さや ――――――、


  咲夜 さや ――――――…


 誰かが、優しく私の名前を呼んでいる。

 この声…、


 …サクヤ――――――…?


 「ああ」


 なあに…?


 「ほら、体、ベトベトだろ? 風呂に入ろう、洗ってやるから」


 …いい…。


 「いいのか? こんなぐちょぐちょで?」


 …ん。


 「そんな匂い垂れ流していたら、また悪い虫に貪られるぞ――――――って、…ああ、なるほど。オレを誘っているわけだ」


 ちが、


 「ほら、オレが舐めて綺麗にしてやるから」


 やめて…、もう、イキたくないの…。


 「ちょっと触るだけだ」


 …サクヤに触られたら、おかしくなる…――――――。


 「ならどうするんだ?」


 自分で、入る…


 「そうか。残念だな。せっかくだから48番を前倒しで消化してやろうかと思ったのに」



 48…?


 「48番」


 よん、じゅう…はち…、


 「ああ。前倒しだ」


 前倒し…、

 それはつまり、


 つまり――――――…、



 「一日分早く消化できるって事だ」


 わかった…。

 一緒に入る…。




 ――――――
 ――――


 「!」


 目を開けると、そこには陽の光が当たる眩しい程の白い天井が広がっていて、

 「…え? ここどこッ!?」

 一瞬で意識を覚醒させた私は、跳ねるように飛び起きた。
 目に入ってきたのは、天井とは違う目に優しいオフホワイトの壁紙と、そこに温もりを与える木目のアクセント。
 そして私は、ダブルと呼ぶには随分と大きさのあるベッドの上。
 覚えのあるミントカラーのシャツ一枚、膝から下を薄青のシーツに隠している自分の頼りない姿が、テラスに続く大きなガラス戸に映っているのを見て少し落ち込んでしまう。

 「何やってるの、私…」

 少し赤くなった手首に触れて、大きく息を吐く。

 まるで自分の体じゃないようだった。

 サクヤに揺らされて、嬌声を上げ、キスを貪り合い、抱き締め合い、


 ――――――もうどうなってもいいと、全てを委ねてしまったあの到達感を覚えている。



 指先までも…、サクヤに染められてしまったような気持ちになるこの高ぶりをどうしよう。


 "本気になっちゃ、ダメなのよ?"



 「…駄目なんだから」


 ドキドキと強く打つ鼓動を誤魔化すように、膝を抱えて顔を伏せた時、ふわりとサクヤの香りがした。

 「これ…」

 思わず、自分の肌を香ってみる。

 「イランイラン…」

 サクヤの、愛用のソープ――――――。


 「――――――あ」

 何となく思い出してくる。

 背後から抱かれながら、優しい泡に包まれた感触。
 肌を滑るサクヤの指は、途中で何度も手首の赤みを労わってくれた。

 "悪かったな…"

 自分でしておきながら、本当に消えそうな声でそう呟いたから、甘えるようにその首筋に、頭を寄せてしまった事も覚えている。


 「――――――バカ…」

 私の中に、どんな感情が芽生えているかなんて、正面から認める事は、

 …今はまだ、どうしても難しかった。





 「起きたか、 咲夜 さや

 持て余した感情をどうやって秘めようか、そんな事を考えている内にドアが開かれて、すっかりと身支度を整えたように見えるサクヤが顔を覗かせた途端にそう言った。

 「あの…」
 「もう昼過ぎだ。出かけるぞ」
 「え?」

 投げられたのは、昨日の私の洋服一式。
 それを両手で受け掴み、

 「…」

 どうしよう。

 全部が、サクヤの匂いになる。


 「――――――あれ…?」

 自分の服から、改めてサクヤへと視線を上げた。

 社内にいる時とは違う、カーキと水色の切り替え柄のシャツに、黒のパンツ。
 耳のピアスなんて、遠目にもわかるくらいの大きさだ。
 シルバーに彫刻がされた、…クロム…かな?

 片側に流して固めた髪型は、サクヤの綺麗な顔の造りを全て晒してしまっていて、初めて会った時以上の人を惹き付ける輝きがある。

 「…仕事…それで行くの?」
 「は?」

 聞き返したサクヤの片眉が、明らかに不機嫌そうに下がっている。

 「お前、昨日の約束、覚えてないのか?」
 「やく…そく?」
 「今日から暫くオレといる約束だ」
 「…え?」

 暫く――――――?


 言葉を反芻して、

 「待って! そんな約束知らない! 全然覚えてないから!」
 「…まあ、そう言うとは思ったけどな」

 短く息を吐いたサクヤは、困った様子で首の後ろを擦り、それから腕を組んで私を見つめる。

 「連休の間にさっさと支払いを終わらせたいと、お前がうわ言のようにオレに頼んできたから、一応頷いただけだ」
 「え…と」

 連休中に終わらせたい…。
 それは、なるほどと言える良案のような、反面、かなりの 不安 リスク がある愚策のような…。


 「オレはどっちでもいい。お前の好きにすればいいさ」


 そう、言われると――――――…、


 「サクヤ、今日…仕事、休んじゃったの?」

 水曜の昼過ぎに、ここにいるという事はそういう事だ。
 幾ら朦朧としていたとはいえ、私の言い分を聞き入れて休暇を取ったのなら、悪いような気がしてしまう。

 「毎年、繰り越しでも使いきれなくて有給を十日は捨ててる。今年はこれを切っ掛けに使い切るよ。気にするな」
 「…」

 微かに溜息を吐いたサクヤを見上げながら、ふと思い出す。

 「…どこかに、出かける予定…だった?」
 「ん? ――――――ああ、せっかくの良い天気だから、ドライブでも行こうかと…」

 ドライブ…、

 「40番!」

 思わず私が声にすると、

 「――――――ああ」

 ふっと、サクヤが笑みを浮かべた。
 暖かな陽光の中、これまでとはイメージの違う暖かい雰囲気が、私の胸をきゅんとさせる。


 「行くか?」

 顎を斜めにして私に問いかけるその仕草は、甘い毒となって私へと誘惑の香りを届けてくる。
 セックスする時以外でも、こんな攻撃をしかけてくるこの人は、本当に根っからのホストなのだと観念した。


 「行く――――――」

 顔を上げて、真っすぐにサクヤを見つめてそう応える。

 すると、目を見開いてそれを受け止めたサクヤは、フッと鼻で一つ笑った。


 「お前が言うとアレだな。セックスでイクみたいだ」
 「…なッ、」
 「はは、冗談だよ。さっさと着替えてこい」
 「もう!」

 部屋を出たサクヤの手によって、ドアが閉められるのを動かずに待って、

 「…もうッ」

 ガラス戸に映る、赤くなった自分の顔から目を逸らし、着替えを始める。

 袖を通すたびに、仄かに香るイランイランの香り。
 その香りに包まれながら髪をサイドに束ね、コームの入った化粧ポーチはリビングのバッグの中だという事を思い出した。

 眼鏡…シンクの中に落ちた音を聞いたのが最後だ。
 サクヤ、料理の前にちゃんと拾ってくれたのかな…。

 置き去りにしていた物事が漸く拾えるようになった頃、私の手は乱れていたシーツを整えていて、


 「…?」


 ふと、ベッドの下に目に付いたのは、薄青の封筒の端っこ。
 手を伸ばせば、私もよく知っている保険組合からの定期便だった。

 わざわざ自宅に送らずにWebで情報を共有すればいいのにと、年に一回の社員アンケートにその記載だけは継続している、受け取って読み終えれば、ゴミ箱に向かうしかない共済のパンフレット。


 「…封も開けてない」

 思わず笑いを零しながら、何気なく宛名シールに印刷されている名前を見て、


 「――――――…え?」


 まるで時間が止まったかのように、私は身動きすら忘れてしまう。





 「…室瀬、 咲夜 ・・ ――――――?」



 その呟きが漏れたのは、大分時間が経ってからの事だった。








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