小説:夜は秘密の花香る


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夜は秘密の花香る
SECRET:14

 "もしかしてさ、そのサクヤって人、――――――昔どこかで会った事があるんじゃない?"

 逸美にそう言われた時、突拍子も無い事だとただ驚くばかりで、どこか本気には捉えていなかったけれど、


  咲夜 さや

  咲夜 さくや


 夜に咲く――――――なんて。

 同じ会社に、同じ漢字を使った名前の人がいる事すら、驚きの確率だと思うのに、


 "サクって呼べ"


 夕暮れの中、不安に満ちた雑踏から、清々しい程の強引さで溺れそうだった私を引き上げてくれたホストが同僚で、更に同じ漢字を名前に持つ人だなんて、そんな偶然、本当にあるの?


 「…」

 耳を出して、綺麗に後ろに流された艶やかな黒髪から、微かにイランイランの香りが漂う。
 かけた薄茶のサングラスからの光が当たり、綺麗な顔立ちがキラキラと輝いて、

 …その見た目だけを描写するなら、まるで時代が違えば中世の貴公子のような品さえ窺えてしまう、不思議な美しさがある人――――――…。


 この室瀬咲夜という人が、


 私がたまたまフリーで てたホストで、
 そしてたまたま同じ職場で、
 更にたまたま、同じ漢字を名前に使った人だった…?



 ――――――絶対に、


 違う気がする。



 「ホットで良かったのか?」

 ドライブのお供にと、通りかかったファストフードのドライブスルーに寄って購入したカフェを示してそう言ったサクヤ…改め、 咲夜 さくや に、考え事をして思考を縛られていた私は慌てて頷いた。

 「うん。大丈夫。…ありがと」
 「どういたしまして」

 チラリと助手席にいる私を流し目で見て、ふっと笑ったその表情は、誰がどう見てもきっとカッコいい。
 大学で一度でも顔を見たのなら絶対に印象に残る筈だし、それ以上に、うちの大学の彼女達が噂にもせずに放っておくなんて有り得る筈もない。


 なら大学とは別の場所…?

 どこだろう。

 あの頃の私の行動範囲はそう広くなかった。

 大学、マンション、下のコンビニ、バイト先――――――バイト先…就活が始まるまで三年近くお世話になった駅前の書店?

 確かに、不特定多数の人と刹那に出会う事を考えれば、従業員ですらフロアが違えば顔すら知らないという巨大さも含めて、その可能性は一番濃厚だ。


 でも、 咲夜 さくや がお客様だったとしても、同じバイト仲間だとしても、やっぱりネックになるのはこの容姿。
 出没すれば話題にはなりそうだし、女子力よりもインドア力が強かった女性スタッフが多かったけれど、なおさらに、観賞用としての需要は高かったんじゃないかと思う。

 そうなると、三年もいて 咲夜 さくや に気付かないなんて、さすがの私も有り得ないんじゃないだろうか。


 はい、振り出し。



 やっぱり、本人に真正面から訊くのが一番早いとは思うけれど…、

 「…あの」

 勇気を振り絞って声を出せば、

 「ん?」

 思いのほか、優しい声音で返されて、聞きたかったことは呑み込んでしまった。

 「お休み…よく、とれましたね…?」
 「ああ、 シスサポ うち の繁忙期に連休は絶対に重ならないんだ。ここ十年の常識らしい」
 「そうなんですか?」
 「部長がかなりの愛妻家で、年間スケジュールが明快だ。清々しいくらいだよ」

 愉快そうな笑みに、私も釣られてしまう。
 確か、うちの部署のマネージャーである皆藤さんと同期の人だ。
 最年少で部門長になったのに、そのポジションをとても気に入って、後輩を何人か上司に押し上げた変わり者。

 「奥さんがイベント好きの旅行好きで、世間のカレンダー通りに楽しむのがデフォらしい。ホテルなんか、来年の分まで予約は完了しているとか」
 「え、それって、来年はどこに行くか、もう決まってるって事?」
 「ああ。春夏秋冬、全部な」
 「凄い…」

 情報に感化されやすい私には絶対に無理だ。
 旅行の予定が来る前に、行きたい場所はきっと変わってる。

 「オレには無理だな。旅行は成り行きと気分もあるだろ? 来年はあそこに行ってみたいとか、その程度の漠然さならいいけどな」
 「…」

 そう言われれば、今はどこに向かっているんだろうと、ふと疑問が湧いて来る。

 「今は…どこに向かってるの?」
 「さあ。ドライブだろ? とりあえず、アクアラインを目指してるくらいかな」
 「アクアライン…」
 「これだけ天気が良けりゃ、富士山も綺麗に見える筈だ」
 「富士山…」
 「前に たくみ と行った時は向こう側が雨に煙ってある意味の絶景だった」

 本気なのか、負け惜しみから出ているセリフなのか。

 「今日は、 咲夜 さや と一緒ってのがまたいい」
 「…」

 うまい事を言うものだと、心の底から感心した。
 この雰囲気に押され続けて、この関係性の中で、自分の立ち位置を見失いそうになる私がいる。


 「ねぇ、――――――私は一回で、あなたは六回よね?」

 これは、支払いという名の契約の形なんだという事を、ちゃんと認識しなければ。
 そんな私の必死さとは裏腹に、

 「…何?」

 応える 咲夜 さくや の声が少し低くなった。
 機嫌が悪くなったと、空気からそれらしき何かが伝わって来る。


 「あの、…例の、支払いの項目。お互い一日一つって話だったけれど…」
 「前倒しの消化はお前も許可した筈だ」
 「分かってる。でも、先に 咲夜 さくや が十回使い切ったら、後は私が選択する項目だけって事になるけど、それは問題ないの?」
 「特には」

 ぴしゃりと会話を閉められた気がして、次の言葉を失ってしまう。
 思わず 咲夜 さくや の横顔を凝視していると、

 「――――――それと、訂正だ。オレが五回。お前が二回な」

 そんな事を言われて、頭を叩かれたように一気に思考が巡った。

 「待って、」

 十分間のキスが最初。
 その後の、直ぐに挿入したいという要望を避ける形で引き受けたバードキス、それからキッチンと、手錠…私はあまり覚えていないけれど、二人でお風呂に入った事と、現在進行形のこのドライブ。

 「六個よ。私は車でのキスだけだもん」
 「風呂」
 「え?」
 「あれは、前倒しでどうだってオレの提案をお前が受けた形だろう? お前の方にカウントすべき項目だ」
 「ええ? ちょ、」

 反論しかけた私に、チラリと 咲夜 さくや の目線が流れてくる。


 「なら、――――――オレの方にもっと軽いヤツがカウントされればいいのか?」
 「へ?」

 また、変な方向に話が流れ出したような気がして、思わず身が引き締まった。

 「38番」

 「…さん、じゅうは、ち…」

 それを言われた途端、無意識に数字を反芻していた私の頭は、また思考を停止した。



 「実は、これが一番楽しみだった」




 随分と、違うんだな――――――と。


 「海ほたるで何か食うか」
 「え?」

 景色が途切れる合間のやり取りよりも、ずっと気になっている事があって上の空でそんな事を考えていた私に、 咲夜 さくや が怒る様子も無く繰り返してくれる。

 「海ほたるだよ」

 海ほたる…?

 あの、海の上の――――――、


 「有名な食い物、何かあったろ」
 「あ、どう…かな」
 「ん?」
 「あの、私、海ほたる、初めて…」

 思わず呟いたその答えに、 咲夜 さくや が一瞬だけ私を見た。


 「…――――――だろうな」
 「え?」
 「いや。何でもない」

 素っ気なく言い返して来た 咲夜 さくや の、私の手を握るその指に、ほんの僅かに力が入ったような気がする。
 そして、私とは随分と違うんだなと、繋がれてからついさっきまで、ずっと意識が釘付けだった。

 男の人の手…。

  咲夜 さくや の手は知っていた。
 何だかんだと言いながら、ベッドの中の 咲夜 さくや はずっと大事に私を扱ってくれるから、撫でる手も、力強い手も、強引な手も、優しい手も、ちゃんとこの肌で感じてきた。

 けれどこうして重なると、また別の意味で違う大きさを感じてしまう。
 私の手の甲なんか完全に包まれてしまう、指の関節の三角の形が、女子にはない存在感を醸し出し、そこまで続く浮かび上がった血管の逞しさが男の人の手の魅力を伝えてくる 咲夜 さくや の手――――――。


 「…」


  咲夜 さくや が指定した38番。
 それは、"手を繋ぐ(常時)"事――――――。


 言い出してから三十分は経った。
 あれからずっと、私達は手を繋いだまま。

 右手だけで行っている 咲夜 さくや の運転は危うげもなく、それどころか、こうしている事に安心すら覚えてしまう。
 安全運転よりそれが勝るなんて、それを受け入れている私もどうかしていると、つくづく本気で考えた。

 自分で思っている以上に、私は 咲夜 さくや に絆されてる。


 「コートで食い倒れるか」
 「食い倒れ…」
 「結構手軽なフードが多いから色々食べられるし、パノラマで海を見ながら足湯なんかも出来る」
 「足湯…」

 …楽しそう。


 「上手く時間を潰せれば、帰りは夜景が見られるな」
 「夜景…?」


 高鳴った胸に、少し冷静になるように言い聞かせながらも、こんなにキラキラと目に映る会話が、学生の時以来だと気づいて、私自身に愕然とした。
 人との関係だけじゃない。

 私は――――――、


 「せっかく遠出してるんだ。楽しまないとだろ?」

 少し声を弾ませた口調の 咲夜 さくや に、

 「――――――うん」

 私は、心から素直に頷く事が出来ていた。




 しばらく走ると、僅かに開けていた運転席側の窓から潮の香りが届き始め、とても官能的な道路の絡み合いの先には、一見、船のような建物が見えてきた。


 「凄い…まるで軍艦…」
 「ああ、なるほど。そうだな。確かにそう見える」

 微かに笑いを含んだ 咲夜 さくや の親指が、そっと私の手の甲を撫でた。
 思わず目線をやりかけて、そこはぐっと我慢する。

 「今日は混んでない方か」
 「平日だし、水曜日だし…」
 「そうだったな」

 三階の、エントランスに近い位置に空きスペースを見つけて、私の手を握ったまま、器用にシフトレバーをバックに入れた。
 周囲への警告音が鳴る中、サイドミラーだけでピタリと枠内に寄せる事が出来たらしい 咲夜 さくや に、半ば呆れてしまう。

 見た目が良くて、頭も良くて、セックスも上手くて、運転までなんて。

 「どうかしてる…」
 「ん?」
 「…何でもない」

 何故か、自分でも驚く程に拗ねた私の態度に、

 「ああ」

 何かを閃いたように、 咲夜 さくや が声を上げる。

 「もしかして、胸キュンポイントが足りなかったって苦情か?」
 「え?」

 私の手を持ちあげて、

 「ほら、運転でバックする時に助手席の方に腕を廻して――――――ってヤツ」
 「…えっと…、すみません。何を言っているのか全く分からないんだけど」
 「…そこからかよ、お前」
 「え、ちょっと!」

 ねっとりと、はっきりと甲に感じた舌の感触。
 サングラスを避けるように、上目遣いで私を見てくる 咲夜 さくや は、それを受け止めている私が切ない気持ちになるくらい、凄く優しい表情をしていて、

 「バードキスからマイナス1」
 「え?」
 「残り79回」
 「い…今?」

 思わず周囲を見回した私に、「ふ」と短い笑いが聞こえてくる。

 「待ってろ」
 「あ…」

 車を出て、前方から回り込んできた 咲夜 さくや は、私が座る助手席のドアを開ける。

 「…」

 サングラスの薄茶の向こうで目を細めた 咲夜 さくや はとても害無く私の目に映り、差し出されたその手に、無言のまま左手を乗せて応える。

 「何か食うか?」
 「ううん。まだお腹はあまり空いてない」
 「ならドリンクと、――――――デザート…その前にトイレか」
 「…ッ、…うん」

 反論しかけて、生理現象には勝てないんだからと言葉を呑み込む。

 「行こう」

 手を引かれて、車の間を歩き出した。
 根元まで絡まる私と 咲夜 さくや のそれぞれの手は、境目が分からないくらいに互いの体温で溶け合っている。

 「出たらここで待ってるから。もしオレがいなくても、勝手に動いて迷子になるなよ」
 「…なりません」

 口を少しだけ尖らせて私が応えたのを合図に、せっかく一つになっていた手がゆっくりと放された。

 「じゃあな」

 長い足を、男子トイレに向けて踏み出した 咲夜 さくや 容姿 シルエット を、まるで後ろ髪を引かれるような思いで横目で意識しながら、私も女子トイレへと足を進める。
 まるで自分のものじゃないくらい体温を変えていた左手が、用を足して鏡に向かう頃にはすっかりと常温に戻っていて、 咲夜 さくや と離れているのだと、そんな実感をさせられた。


 「…脅威的」

 完全に、馴らされている私がいる。

 抱き合っている間は香りで縛り付け、まるで食らうように私を貪り、
 ただ傍に居る間も、物理的に掴まえておきたいなんて、見た目で惹き付けるだけじゃなく、その後も徹底しようとする管理能力が賞賛に値する。

 鏡の中に映る私は、ここ数年付き合いのある会社の同僚にはわからない私だ。
 手櫛だけで垂らした髪、何の隔たりもなく晒された瞳、…不可解ではあるけれど、男としての 咲夜 さくや に優しさに、明らかに女の顔をしている私がここにいる。

 香りも――――――すっかり 咲夜 さくや と同じで…、


  この私 これ じゃあ、色々と鋭そうな藤代さんに会ったなら、直ぐに 咲夜 さや との関係を悟られてしまうだろう。


 それに…、


 "楽しい"

  咲夜 さくや と時間を重ねていると、この感情が否定できない。


 元カレとだって、楽しいデートが無かったわけじゃない。
 でも、とにかく外に出る事が少なかったから、過去を巡って蘇る思い出は多くなくて、今思えば、逸美の機嫌を窺うように何とか彼にお願いをして、最低限こなした幾つかのイベントの写真が少し残っているだけ。

 異性との時間の共有がプライベートで楽しいだなんて、ミスコンに出る前の私みたいだ。
 元カレと付き合い始めた頃は既に、バイトや仕事以外に私の世界は扉を開けなかった。
 友人と呼べる人はいたけれど、その中で特別なのは、逸美と、社会人になってから出会った未希子だけ。


 変わりたくないと。
 関わりたくないと。

 他人から頑なに守ってきた自分の世界が、 咲夜 さくや に初めて会った夜から、別の光に照らされているのが解る。


 元カレと別れて、道を失くしたかのように蹲っていた私が、再び立てる切っ掛けになった 咲夜 さくや が、

 今度は、私の何かを壊そうとしている。


 …何かを、変えようとしている。


 それは――――――…、





 ――――――

 ――――

 「―――――― 咲夜 さや

 トイレから出た私を出迎えたのはサングラスを頭にかけた 咲夜 さくや だった。

 綺麗な顔立ちに。それは僅かに可愛さをトッピングする最強のアイテムでしかなくて、

 …なるほど。

 それで釣り上げたんだろうスタイルの良さを強調した露出の多い服装の、二十歳くらいの女子が左右に二人。

 素敵な男の人を前にして、この手のタイプが敵と認定した女に対して一体何を考えるか、大学の頃に嫌というほど味わわされた。

 過去からの苦い思い出が心の底に波紋のように広がり、無意識の身構えで歩幅が物凄く小さくなる。

 でも、

 「遅かったな」

  咲夜 さくや が透かさず私の目の前までやってきて、徐に肘を掴んだかと思うと、そのまま指を滑らせて私の手を握り込んだ。

 「その人?」
 「ほんとだ、可愛いね〜、お姉さん」

 声高くはしゃぐ、後を追ってきた彼女達を他所に、 咲夜 さくや は私へと僅かに上身を傾けて口を開く。

 「フードコートのおすすめを教えて貰ってた」
 「そう、なんだ」

 曖昧に頷いた私に、二人が突然声をあげて笑い出す。

 「あはは、彼女さん超クール。彼氏と比べて凄い温度差なんだけど」
 「これは、もうちょっと真剣に頑張んないと駄目だね、お兄さん」
 「うるさい。ガキが諭すな」
 「ふはは、うける。んじゃああたしらはこれで」
 「お幸せに〜」

 大袈裟に手を振りながら、何度も肩越しにこちらを振り返る二人は、ただただ無邪気に元気いっぱいな感じで、なんだか拍子抜けだった。
 背中から力が抜けたところに、 咲夜 さくや が私を見下ろして言う。

 「あれであいつら、国立大の二年らしい」
 「え」
 「若さはそれだけで武器だな」

 真面目な顔でそんな事をいう 咲夜 さくや が、なんとなくおかしい。

 「…何だよ」
 「ううん。 咲夜 さくや も、きっとああいう感じで目立っていたんだろうなって思っただけ」

 ピクリと。
 見た目には何の反応もないように見えたけれど、私の手を握って繋がっていた 咲夜 さくや の右手は、ほんの僅かに反応した。

 「――――――まあ、それなりには」
 「ミスターとか、出たりしてたんじゃない? そう言うのあった?」

 時代錯誤だと言われても、ミスミスターコンテストはうちをはじめ、周囲の大学でもスタンダードだった。
 風潮に合わせて名前を変えても、趣旨は変わらずなんて学祭もあった。
 きっと 咲夜 さくや なら、私みたいなイベント枠じゃなく、メインとして参加必須の存在だっただろうと予測して軽い気持ちで告げたつもりだったけれど、思いがけず、その表情のトーンが落ちる。

 「出てればよかったと、思った事は一度だけあったな」


 出ていれば良かった…?

 私の問いに対する答えとしては、妙に角度が違う気がする。
 それを疑問に 咲夜 さくや を見上げたけれど、その会話は続く事は無く、気が付けば腰にその片腕が回されていた。

 「 咲夜 さや 、バードキス」
 「…ぇ、えッ!?」

 突然の展開に頭が真っ白になった私の反応を、 咲夜 さくや が愉しそうに見下ろしている。

 「79回」
 「ぅ…ぁ、その」

 辺りを見渡せば、それなりの人の行き来があって、特に女性の目線が 咲夜 さくや に集まっている分、そんな事を始めてしまえば、注目を浴びるのは間違いない。

 「い…今?」
 「今」

 頷いた 咲夜 さくや の、ほんのりと色付いたように見える頬、そしてほんのりと香ってきた色気に、胸の奥が優しく痛み、そして疼く。
 抱き寄せられて密着した肩の部分から、反対の繋がった手の辺りまで、何かが伝導して、体が徐々に熱くなってきた。

 「 咲夜 さや ?」

 見つめ合う事に、息すら熱を持ち始める。
 その熱さを逃そうと、唇が開いてしまったのは不可抗力。

 そして、そんな私を見て満足そうに笑った 咲夜 さくや は、


 チュ。


 まだ合意していない私の唇を、素早い動きで一瞬だけ啄んだ。

 思考を止めた私の目と、悪戯っぽい笑いを含む 咲夜 さくや の眼差しが重なる。

 「――――――ちょ…」
 「腹減ったな。外のモニュメントを見るのは後でな。飯が先」

 反論しかけた私の手を引いて歩き出したその背中に、

 「もう…」

 言葉ではそう返しながらも、


 「…」


 もっと欲しかった――――――。


 私は、物足りなさをはっきりと感じている自分の心を見つけていて、


 "本気になっちゃだめ"



 これは、性的欲求――――――?


 「…もう、遅いのかも」


 " 咲夜 さくや "


 名前を呼んで、彼が振り向くのを期待する私は、


 "ねぇ、 咲夜 さくや "


 そう言って、背中に抱き着いて甘えて見たいと考える私は、



 もしかしたらもう既に、何かの扉を開かれた後なのかもしれない――――――。





 ――――――
 ――――

  咲夜 さくや の息が耳元で弾む。

 「 咲夜 さや …」

 切ない声で名前を呼ばれる度に、素肌の背中に添える指先に力が入った。

 体を打ち付けられて、押し上げられる快楽の先にいつも私を待ち構える、額に汗をかいて満足そうに微笑みかける 咲夜 さくや の存在にはすっかり慣れてしまっている。

 「は、はぁ、…いくぞ、 咲夜 さや
 「ぁ、ぁあ、ゃ」

 ベッドに押さえつけられる掌が、痛いくらいに掴まれた。

 「これ、で、三回…ッ」

 眉間を狭めて、苦しそうにすら見える表情で長い射精をした 咲夜 さくや は、どさりと私の体に重なって倒れ込んでくる。
 その重みをどこか心地よく抱き留めて、私もまた、息を整えようと深呼吸を繰り返した。


 58番。
 抜かずの三発。

 海ほたるから帰るなり、最初にそれを言われて目を丸くした私は、まさか本当に 咲夜 さくや がそれをやりとげるとは思っていなかった。
 逸美に正面から聞く事も出来ず、ネットで調べて何となく内容を理解してはいたけれど、本当に一度も私の中から出ないまま、 咲夜 さくや はそれを達成した。

 「やばいな。心臓がいきそうだ」

 小刻みな笑いが、肩に響いて来る。
 密着するお互いの濡れた肌がしっとりと馴染みよく感じられた。

 「本当に出来るなんて…思わなかった…」
 「オレもだ」
 「…え?」

 腕を立てて身体を起こした 咲夜 さくや の眼差しが、数分振りに私のと絡まった事に胸が弾む。

 「お前だからだな」

 目を細めた 咲夜 さくや からの、頬に一つの短いキス。


 …それは、私以外の人とのセックスを匂わせる言葉だ――――――。


 背中を向けた 咲夜 さくや は、着けっぱなしだったゴムを取り外している様子で、


 ――――――綺麗な背中…。


 ほんのりと、赤く入った複数の線は、私が夢中になっていた時のその名残。
 思わず手を伸ばしかけて、その痕をなぞりたいような気になった時、


 「次は 咲夜 さや だな。何番だ?」

 僅かに肩越しに振り返った 咲夜 さくや が尋ねてきて、慌てて引っ込める。


 「――――――66番」
 「66…、公園で散歩か。健全」

 笑いを含んだその言葉を引き取るように、私は透かさず口を開く。

 「あの、その前に着替えとか、一度家に帰ってもいい?」
 「家に?」
 「駄目…?」

 窺うように訊いた私に、 咲夜 さくや の視線が一瞬だけ動く。

 「…もう夜中だ。とりあえずシャワーを浴びて、ひと眠りして、それから考えよう」

 あ、機嫌が降下した。

 「…わかった」

 一見変わりはないけれど、怒ると、言葉を音にする前に視線が斜め下を向く癖に気付いてしまえば、分析は簡単。
 交渉の余地は無さそうだなと、何故か分かってしまった私の 答え 直感 は正しかった。




 66番。
 公園を散歩。

 平日の筈の今日、人が多いのは、GWを目前にしているからなのか。
 それとも人口密度の割合からしてこれが通常なのか。


 「ほんと…健全…」


 陽差しの眩しさ。
 緑の優しさ。

 どこもかしこも、日常の暖かさが漂っている。
 そしてその中を私と 咲夜 さくや は、二人がどんな出会いだったかなんて誰にも想像させる事のないように、普通のカップルの真似をしながら手を繋いで歩いていて、

 でもこれも、とても居心地が良いような、悪いような…。

  咲夜 さくや に出会って――――――思いがけず会社で再会してからは特に。
 ずっとセックスだけをしているような、そんな後ろめたさがあって、この健全さが責めにも思える。

 「…」

 私の左手をしっかりと握った 咲夜 さくや をチラリと見上げてから、私は小さな溜息を吐いた。
 今日の見た目もサク仕様。
 会社仕様の室瀬さんは、あれからずっと出番無し。

 それどころか――――――、


 私は、自分の姿を見下ろして、また反射的に息を吐く。

 襟の付いた薄青のワンピース。
 ストラップの付いた白のサンダル。

 寝起きの頭に、 咲夜 さくや から手渡された下着との一式はまるで稲妻のように落ちてきた。

 『 咲夜 さくや …? これ何?』
 『着替え。何セットか届いている。これでしばらくは大丈夫だろ?』
 『…ねぇ、あの、買ってきた…、の?』

 ずっと私を抱き締めて眠っていた 咲夜 さくや にそんな事をする時間は無かった筈だと、分かっているのに確かめてしまった私は、随分と怖いもの知らずだったと思う。

 『いや、知り合いの店に頼んだ』
 『…あ』

 何かを言おうとしたのに、何も言葉にならなくて、

 『別に数日帰らなくても問題はないだろ?』

 至極当然といった、躊躇する私を不思議そうに見る 咲夜 さくや に戸惑ってしまう。

 『え、…』

 いや――――――…いやいやいやいや。


 結構大変な事だよ?

 冷蔵庫の中にレタスあるし、モヤシも、あ、残り半分の豆腐とか、ヨーグルトだって…。
 それに、お休みに入るからって気を抜いて、二日分くらい洗濯物を溜めていたし、それから、火曜に朝食で使ったお皿やカップがまだシンクに入ったまま。
 戸締りはしてあるけど、かえってそれが、匂いが充満した部屋に仕上げる要素になりそうで、ただただ不安が募るんですけど…。

 一瞬で室内で起こり得る色んな事を想定して、心の中では全力で首を振ってお断りしている私がいたけれど、


 『ないよな?』


 言葉だけ聞けば、まるで従う事しか許されないような口調ではあるけれど、別に、その瞳に凄まれているわけじゃない。
 強要だとも感じられない。

 どちらかというと…、


 『…うん』


 私を見つめる目も、指先を掴まえてくる手も、

 甘えているように感じられたから、



 「似合ってるな、それ」
 「え?」
 「 咲夜 さや っぽい」

 これまでと変わらない同じ顔、同じ髪型の筈なのに、身に着けた青と白のサマーニットとダメージカラーのデニム姿が功を奏しているのか、健全な公園の景色以上に、何故か私には、目の前の 咲夜 さくや が一番眩しく映り込んでくる。


 「…ありがと」

 素直にお礼を返せば、嬉しそうで、


 「のんびり歩くか」
 「…うん」



 どうしよう。



 「…ぁ、 咲夜 さくや 、それ、ゃ」

 部屋に戻るなり、番号を宣言して私をソファに押し倒した 咲夜 さくや は、今は私のスカートの中。




 最初は瞼にキスをされて、それから目尻、頬、首筋を下って行く 咲夜 さくや の舌の熱さを感じている内に、いつの間にか太腿をまさぐっていた手は、私のショーツを脱がしていた。
 あまりの素早さに呆然とする私を、舌なめずりをしながら見下ろしてくる、少し細くなった 咲夜 さくや の色っぽい目つき。

 「66番。これから 十分 じゅっぷん 、全力で溶かしてやるよ、 咲夜 さや
 「え…」

 見せた舌先を尖らせたり丸めたり、言葉の合間に見せつけてくるのは挑発の類だ。

 「あ…ちょ、ま」

 状況を覆す言葉を探す間に、 咲夜 さくや はもう顔を私の足の間に近づけていて、

 「待って、まだシャワー、…ぁ」

 何かが、私の そこ ・・ の溝を浚うように動き始める。

 何かが――――――なんて、もう今更だ。

 肌とは違うデリケートな部分で、火傷しそうな程に熱く感じる 咲夜 さくや の舌先が、私の割れ目に沿うようにして這わされていた。
 後ろから前にかけて右側の溝をなぞり、それから左側を通って、 咲夜 さくや に触れられるだけで濡れる事を覚えてしまった泥濘へと、ゆっくり戻って行く明らかに焦らした動き。
 その合間に、漏れる 咲夜 さくや の息が触れて、意識してしまうクリトリスの存在が私の中で急に花開いていく。

 「あぁ…、ぁ、」

 行ったり来たりと、丁寧にその蕾の形を浮き彫りにされて、

 「ぃや…、ん、ぁ」

 腰が、自然と揺れてしまって、


 恥ずかしい――――――、


 そこじゃない――――――、


  そこ ・・ に触れて…、


 期待する快楽と、理性の抑制が、複雑に左右から重なって、私から人としてあるべき姿を奪っていく。


 「やめて…」

 言葉とは裏腹に、

 「ん、ぁ…、 さく …や」

 思わず掴んだ 咲夜 さくや の髪の毛を、本気で引っ張って排除するような事はない。
 そんな私をいつも通りに見越した 咲夜 さくや の手が、見せかけだけの建前を封じるように、両手を使って私のそれぞれの手をソファに押さえつけた。
 全ての指を根元から掴まえられた力の強さに、痛みではなく、激しさを思う。

  咲夜 さくや は私に酷い事はしない。
 それは知っているけれど、何処かに飛ばされそうな程、極限まで攻め立てられる怖さはあった。


 「 咲夜 さや 、足、開こうか」
 「きゃ」

 体を畳まれた体勢になったのは、 咲夜 さくや が器用に膝裏をソファへと押さえつけてきたからだ。
 途端、ワンピースの柄が私の目の前を覆うようにして降って来る。

 「ぃや、 咲夜 さくや !」

 叫んだ瞬間、僅かな風が私の薄い茂みを揺らした。

 「――――――やばいな。相当卑猥だ、これ」
 「 咲夜 さくや ッ」
 「顔が隠れて表情が見えないから、なおさら想像をかきたてられて興奮する。ねぇ、オレの視界いっぱいに 咲夜 さや の大事なとこが広がってるよ。天井向いてヒクヒクして…こっちの口は、何が欲しいかちゃんと解ってるみたいだな」

 短い笑いの後、

 チュ、


 「ああッ…、ぁ」

 音を立てて強く刺激されたのは私のクリトリス。
 まるで吸い出されるような感覚が、思考の全てを奪っていく。

 かと思えば、後ろの信じられない部分まで丁寧に舐めあげられた後、また前の茂みへと戻ってきた。


 「ん、…ぅ、さく、…ぅあ、…ん、ぁ、」

 小さな波は何度も私の全身を震わせた。
 それに呼応するように掴み合った手が強く握られて、私がいるべき世界を思い出させてくれる。

 引き戻されている、とも言うのかも知れない。
 実際、イキきれていないと残念に思う瞬間もあった。

 安心させるような行為をしながら、実はイカせないという非道。
 根拠はないけれど、セックスの最中にだけ発揮される 咲夜 さくや の特性から、それが容易く想像出来る。


 「ふ…舌が溺れそう。中へ中へと引き摺られるよ」
 「…さ、く、ゃ…めて、言わな…はぅ」

 言葉を封じられるようにまたクリトリスを含まれて、指先まで小さな痙攣が駆け抜ける。

 「…ぁ、ぁ」

 顔が、視られていないのが救いだった。
 自分がどんな顔をしているのか、それを映す 咲夜 さくや の表情をみればきっと恥ずかしさに泣いてしまっていたかもしれない。

 「 さく …」

 でも本当は、指摘される前から気づいていた。
 異物と捉えきれない舌の感触はずっと入口の浅い部分だけを愛撫していて、それに物足りなさを感じた自分の中が、飲み込む獲物がないと、収縮する度に内側から暴れている。

 これまでの経験から、ここで 咲夜 さくや がはいってくればどんなに気持ちいいか、私は知っている。
 それを期待する欲望が、私の思考を支配している。



 「――――――ああ、十分経ったな」



 ――――――え?


 ピタリと止まった愛撫に、頭の中が真っ白になった。

 この疼きを、

 「…どう」


 どうすればいいのか、と。
 無意識の内に口から零れそうになって、寸でのところで飲み込んだ。


 冷静になれと、西脇 咲夜 さや という人間が理性を叩く。
 懇願しろと、西脇 咲夜 さや という女が本能を叩く。


 「抑え込めば抑え込むほど、蜜が溢れてくるのはなんでだと思う?」
 「…痛ッ」

 腿の付け根を舐められたかと思うと、突然の痛みが私を襲った。

 「 さく …」

 強く吸われる感覚。
 他の誰にも、私自身にすら確認出来ない場所に痕をつけられているのだと、その行為自体になぜか泣きたい気持ちになる。


 「…女ってのは元来から強欲なんだ。一度覚えた男の形は自分のものだと体が主張する」
 「ん…ッ」

 今度は反対側の付け根が、さっきよりも強く吸われた。

 「男もこうして――――――、他の男に主張する」
 「 咲夜 さくや …」
 「セックスにおいて、お互いを求めあうのは当然の事だ。お前のメスの匂いは、間違いなくオスのオレを誘ってる」

 優しいように聞こえて、巧みに誘導しようとする 咲夜 さくや の言葉に思考が支配される。

 入って来て欲しい。
  咲夜 さくや に。

 イカせて欲しい。
  咲夜 さくや に。


 「お前の中がオレを求めるのは当然の事なんだ」
 「……て」
 「そして、それがお前の女としての本能の欲なら」
 「ぃれて…」
 「――――――そのおねだりは、オレにとっては可愛くて仕方ない」


 耳元で囁かれたその言葉に、私の何かが瓦解した。


 「…挿れて、 咲夜 さくや
 「ん?」

 わざとらしい、その返し。


 剥がれる――――――。

 防御で纏っていた心のヴェールが、 咲夜 さくや の唇で持ち上げられた、このスカートのように容易く剥がされる。



 「挿れて」
 「それから?」
 「――――――イカせて、 咲夜 さくや ので、いっぱいイカせて」



 再び、顔がスカートに覆われて、 咲夜 さくや がどんな顔をしたのかは、見えなかった。


 布越しに唇が重ねられる。
  咲夜 さくや の唾液と私のとで、生地が透き通るような錯覚さえ起こり始めた。

 恐らくは、ボトムを脱ごうとして動いている 咲夜 さくや の、気遣いのないありのままの重さに押された私の体は更にきつく折り畳まれて、

 「可愛く言えたご褒美だ、 咲夜 さや
 「…あッ」

 ソファの背もたれに足の甲が触れ、同時に、私の中に熱い塊が押し込められる。


 「ああ…ッ、ん」

 じっくりと確かめるように埋められている 咲夜 さくや の熱は、はっきりと私の頭の中で形になって、


 「これが欲しかったんだろ?」
 「…ん、欲しかった」
 「… 咲夜 さや


 掠れた声が私の名前を呼んだかと思うと、またスカートが除けられた。

 目の前にあるのは、 咲夜 さくや の瞳。
 濡れた黒が、綺麗な光を宿す宝石のように美しい眼差し――――――。


 ああ、



 好きだわ。



 そう言葉にして刻むだけで、胸がキュンと痛む。


 ずっとずっと、ブレーキをかけて、

 …でも、ブレーキをかけるという事は、つまり自覚があったという事。


 初めて、ホストと客として会ったあの夜。
 心が繋がっていなくても、セックスで泣きたくなる程に埋まるものがあると、私は知った。

 そして今、心が繋がっていなければ、埋まらないものもあると、私はまた知る。


 「…好きだ、 咲夜 さや


  咲夜 さくや から吐息のように漏れた言葉に、私はまた、泣き笑いを浮かべてしまった。
 初めてのあの夜とはまた違う、嬉しくて、寂しい、私の心。


 「私も…」


 この人は、ホストだ。

 だから、私達は始まった。



 それがなければ、たとえ同じ会社でも、きっと接点は無かっただろう。


 「私も、好き――――――」



 初めての夜と、変わっていない振りで私は告げる。

 この人が、次の ひと に渡るまで、きっと秘密にして見せる。


 「1番――――――だからね、 咲夜 さくや



 私が、支払い項目から拾ってそう告げた時、 咲夜 さくや がどんな 表情 かお になったのか。
 ちゃんと目にしていたのなら、これから起こる事に、もう少し覚悟が決められたのかも知れない。








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