『――――――…で?』
何の感情も乗せていない、そう聞こえてしまう事が物凄く怒っているかもしれないな、と想像させる逸美の声が、スマホの向こうから耳に届いた。 『今もそのサクヤの部屋にいるわけ?』 「う…うん」 『連休始まった筈なのに、お泊りのお誘いがなかなかこないなと思ってたら…何しっかり巣穴に囲い込まれてんのよ』 巣穴…。 一人でお留守番というこの状況が少し怖いくらいに、高級な 「囲い込まれてるっていうか…」 『囲い込まれてるでしょ? どっぷり嵌められちゃってるでしょ?』 「は…、ハメられてって、それは」 『ああああ、そっちのハメるじゃない! いやああ、私の 「う…あの…」 何て言うか、 「…ごめん、ね?」 『何が』 「忠告、…きけなくて」 ホストに本気になったら駄目だと、何度か貰っていた忠告を警鐘として頭の中では鳴らしながらも、結局はすべて無駄にしてしまった。 『 何かを言いかけた逸美が、はあ、と大きく息を吐いた。 『好きに、なっちゃったんだ』 その言葉に、一つ頷いてから答えを口にする。 「…ん」 それから少しの無音が、逸美に必要な決断の時間だったのだろう。 『――――――わかった。応援する』 「逸美…」 馬鹿な私を叱りながらも、きっとそう言ってくれると思っていた逸美の言葉だったけれど、やっぱり嬉しくて泣きたいような気分になった。 『今に至るまでの話の流れを聞いてると、まあ、あいつよりはマシなのかなって気はするし』 あいつというのは元カレの事で、よっぽど嫌っていたんだと、改めて思い知った。 『あ、でもお金を貸したりは絶対に駄目よ。あげるのも駄目。あと保証人も。今は 「うん。もしもそんな話が出たら、ちゃんと逸美に相談する」 『絶対だからね。――――――それと…』 ふと、逸美の声が何故か小さくなった。 『ねえ、今、そのサクヤって、出掛けてるんだよね?』 「え?」 私も、思わず部屋の壁を見回しながら声を潜めてしまう。 「うん。会社から呼び出されて…」 公園での散歩を終えて、64番の"クンニ10分"の後に1番の項目である"セックス"へと繋げて果てた私と ところがベッドに入るその直前、携帯の電源を切っていたらしい もしかしたら、バッグも洋服も持って行かれるかなと考えた私をよそに、 "ちゃんと休んでろよ" 甘噛みを加えた、とても優しいキスだけを残して、いつものイタリアブランドのシャツを着て出かけてしまった その後姿を見送りながら、眼鏡はもうかけないんだなと、指で撫でつけただけの髪型に、複雑に胸が騒いだのを覚えている。 会社の女性達の、一体どれだけの視線を集める事になるのだろうか――――――と。 『ねぇ、 「…え?」 『大学の』 アルバム――――――。 思わず寝室の壁に視線を這わせてしまったけれど、 「でも、本人がいないから、勝手に開けたりはしないよ?」 本棚は、そういえばリビングにあったなと置時計の存在を思い出しながらそう応えると、 『 「あ…」 『なんか記憶のここんとこに引っ掛かってさ、サクヤって名前が。それであの後、久しぶりにヒロのとこに行ってきたの』 「比呂ちゃん先輩? 元気だった?」 懐かしい名前に声が弾んでしまう。 彼――――――もとい、彼女は、大学の時に私がミスコンに出る切っ掛けをくれた人。 メイクアップ研修室の室長で、あまり化粧をしない子を見つけては魔法をかけて楽しんでいた、学年は二つ上だけれど、年齢は不詳の存在。 今は実家の美容室を継いでいるらしいと聞いた事があった。 『元気元気。彼氏と一緒に住んでるって惚気られたわよ。相変わらず明け透けなんだから――――――じゃなくて』 物凄く理想の高かった先輩に彼氏が出来たなんて、それはもうどんな人なんだと興味津々で耳を傾けていたのに、 『今重要なのはヒロじゃない』 「え、大事だよ?」 学生の時のノリで突っ込んでしまう。 『そうだけど今はもっと違う事が大事』 逸美の声が、少し低くなった事に気付いて、茶化すのを止めた。 「うん。解った」 『じゃあ、言うけど』 「うん」 『二年の、冬休み』 「――――――え?」 その季節には良い思い出が無くて、というよりも、嫌な思い出の方が多くて、私は思わず眉を顰めた。 「逸美…?」 『ごめん、思い出したくないだろうけど、でも、大事な事だと思うから』 「…」 きっぱりと言われて、私は仕方なく口を閉じる。 大学二年生の冬。 それは、ミスコンの思わぬ結果に、私の事がネット上で派手に取り上げられて、一部の女子の干渉と攻撃を受けて傷つき、他人に見られるという事がかなりのプレッシャーになって、生活に必要な買い物に行く事ですら、コソコソと存在を潜めていた時期の事。 "あ、あんたニシワキサヤちゃんでしょ? ほら、準ミスになった" "顔隠してもバレバレだって。オレら出待ち。写真撮らせてよ、ほら" "なんか、思ったより普通なのな" スマホを持った何人かの男達に声をかけられた私は、いつも通り無視して通り過ぎようとして、けれどその日は、気が付けば最悪に展開していた。 私の腕を掴み、何を目的としているのか、近くの公園に引きずり込もうとする男達。 真昼間だったから、バイト帰りの夜よりは全然警戒していなくて、防犯ベルも手にしていなくて…。 口を押さえられて力任せに抱えられれば、私には足をバタつかせる事しか出来なかった。 嘘! やだ。 なんで――――――ッ、 茂みに連れ込まれたら終わりだと、全身で抵抗したのはどれくらいの時間だったのか。 『おい! 何やってる!』 はっきりと非難を込めた声音が、私を掴む男達の手を緩めさせた。 『そこの人! 警察に電話してくれ!』 こちらへ向かって来る足音。 『チッ』 『やべぇよ、行くぞ』 走り去っていく幾つかの足音。 その交差を聞きながら、私は、最後の一本で繋いでいた精魂を手放して、崩れるように地面に座り込む。 掴まれていた腕が痛かった。 足に刺さる地面が痛かった。 でもそれよりも、 何もかもがもっと痛かった。 『もう嫌…』 望んだのは、こんな環境じゃない。 『もう、嫌だ…』 頑張ってるのは、こんな目に遭うためじゃない。 『大学辞めてもいい、もう帰る…帰りたい、帰りたい…、お母さん――――――ッ』 私には少しハードルの高かったこの大学に合格出来たのは、母から沢山の応援を貰ったからだ。 その入学費には、父の意思でもある学資保険を充てている。 だから途中で弱音は吐けないと、逸美や他の友人達に支えられて普通じゃない環境にも何とか頑張ってきたけれど、 その痛みと恐怖は、それを限界から押し上げるには十分な威力だった。 『もうやだぁあああ…、』 声を上げて泣いたのは、父を亡くした時以来。 でも、内なるものを放出しないと、どうして息をしたらいいのかも分からなくて、人目も憚らずに私は泣いた。 『――――――そんな事、言うな』 低い声で綴られた言葉と共に、頭を優しく撫でられた気がするけれど、そんな事はもう何も心に響かなくて、 『大丈夫だから、西脇さん。――――――ね?』 どれくらい時間が経ったのか。 警官が駆けつけてくるまでの間、私をずっと抱き締めてくれていたのは、少し前に告白してくれた、たまたま付近を通りかかっていた同級生で、 『もう大丈夫』 『…ぅん、ありがと…』 今思えばその日から、 ついこの前までの、視界を狭くする事で静かな世界を守って生きてきた西脇 『あれが切っ掛けで、 「…そう言われれば、そうなのかな」 『そう言ってたじゃない、助けてもらってホッとしたって。これからはちゃんと同級生の友人じゃなくて、男の人として見てみようかなって』 「うん…」 応えながらも、本当はそうじゃなかったんだと、今なら解る。 元カレを、大切に思う事はあったけれど、 元カレを、愛しく思う事はあったけれど、 ちゃんと好きだったけれど、 でもその好きは――――――、 『でね、連絡を受けた私が、 そう。 結局私は母には連絡せず、内々に済ませられるよう逸美を頼った。 『あの時、 「…逸美?」 話が行きつく先が想像出来なくて、思わず口を挟んだけれど、逸美は構わずに言葉を紡ぐ。 『前に 息継ぎの短さに、逸美の興奮度が伝わってきた。 『隣の大学の、実質見た目ナンバー1なのに、そういうのが嫌いでミスターにはならないシステム工学部の超イケメン、その名もサクヤ・ロランディ。父親が日本人、母親がイタリア人のハーフ。噂では、在学中に会社を興してかなり成功したって話もあるんだけど、意外にも今彼が何してるのか、知ってる人はあまりいないみたい。SNSにもその名前では上がってこないみたいね。イタリアに帰った説もあり、美形は早世して儚くなっちゃったよって説もあり』 「…逸美、それってつまり…」 『そう。私が言いたいのはまさにそれよ』 それはつまり、 もしかしたら 「あの時私を襲った犯人を、捕まえてくれた人かも知れない…って事――――――?」 『じゃなくて』 ぴしゃりと否定した逸美が、勿体ぶって一呼吸を挟む。 『――――――あの時、 「――――――え…?」 突拍子もない話の展開に、私はそれ以上、何も返す事が出来なかった。 逸美と話をした後、水を求めてリビングに移動した私は、意識して探してしまったアルバムらしきものの背表紙を本棚に見つけて対峙して、けれど手を出す事も出来ないまま放心状態で何分かを費やし、 それから、 「――――――あ、お母さん?」 現状をひと時でも振り切ろうと、私は、メッセージに返信出来ないまま一日放置してしまっていた母へと電話をかけた。 「ごめんね、連絡遅くなって」 『いいわよ。別に大した用事じゃないから。GW前後は長い連休を取ってあるって言ってたから、帰って来るのか確認したかっただけ』 「あ…」 元カレのいる大阪に行く予定だと話をした事があったから、心配して様子を窺ってくれたようだ。 「うん。もう連休には入ってるよ。もしかしたら来週末は帰れるかも」 週末を待たなくても、この調子でいけば 『あら、週末来るのなら都合好いわ』 「え?」 『ほら、従妹のさっちゃん。結婚が決まったのよ。授かり婚』 「さっちゃんが?」 『そ。もう六か月ですって。それで来週末に、身内だけでお式と披露宴するから、 「…」 今日まで、母が私に参列の可否を尋ねる事が出来なかったのは、きっと元カレと別れて空っぽになっていた私を知っていたからだろう。 言い出すタイミングを探していたのかもしれない。 「行く」 『――――――そう。良かった。きっとさっちゃんも喜ぶわ』 不自然な間合いに、安堵するような息遣いを量る事が出来た。 長い間、気を遣わせてしまっていたのだと反省する。 しっかりと前を向いて歩き出した今の私を、ちゃんと見せてあげたいと心から思えた。 「さっちゃんの結婚式かぁ。せっかくだし、ドレス、新調しようかな」 社会人になってから、二度ほど招待を受けて参列したけれど、成人式の直後に招待された地元の同級生カップルの結婚式の為に買ったドレスを着まわしていた。 さすがに、今の私には少し可愛らしすぎる色とデザインのものだ。 『そうしなさい。お母さんも半分出してあげるから』 「ほんと? やった」 反射的に、まるで実家にいるようにリラックスしてそんな言葉が出た時だ。 ガチャリと、玄関の鍵が開いた音がする。 「あ」 思わず、玄関へと続く廊下のドアを振り返った。 "もしかしたら そんな前から "そんな事、言うな" 元カレじゃないと知っていたあの声の主が、もしかしたら…? 僅かな期待に高鳴った胸の鼓動に気付きながらも、冷静にと言い聞かせながら気配に耳を澄ませる。 " 私の名前を呼ぶ、あの声を求めて――――――、 「ああッ、女物の靴! 信じられない! ちょっと ――――――え? 「お母さん、ごめん。人が来たみたい。またかけるね」 『え? ちょっと 「それじゃ」 これ以上、こちらからの音声が届かないように、私は慌てて通話を終える。 何、今の――――――女の人の声…だったよね? 「また適当な 私の疑問に答えをくれるかのように聞こえてくる高い声。 そして、廊下を歩いて来る激しい足音がそれに続く。 つまり、合鍵を持っている人。 …もしかして、 微かな胸の痛みが、一瞬だけ私の呼吸を停止させた。 「いるんでしょッ」 バン、とドアが開いて、私を睨みつけてきたのは、ファッション誌から抜け出したきたような美女で、 「誰よ、あんた」 オレンジにも近い栗色の髪が、感情に呼応して腰まで揺らめく。 膝上より股下を計った方が早そうな白のミニスカートから伸びた足は鍛えた筋が見えるのに、それでも柔らかな線を保っていて、引き締まったウエストを強調する黄色のジャケット、胸の谷間を見せつけるオレンジのチューブトップ。 どこかで見た事があるような気がする綺麗な顔はとても小さくて、赤い唇の色が不思議と可愛く目に映った。 芸能人と言われても、疑えない。 「… 冷たい眼差しが私を見据えてくる。 その目線が、私の全身を下から舐めた。 「…なるほどね。あなたが ――――――え? 「どうやって 「あ、あの…」 「解放感溢れるビーチでたまたま知り合って気が合って、一緒に楽しくビーチバレーしたからって、その相手とそれを一生続けようなんて考えないでしょ?」 確かに…と、思わず相槌を打ちそうになってしまう。 一緒に盛り上がったからと言って、それを明日も明後日もずっとずっとなんて、普通なら、きっと考えない。 でも、 「そう…ですね」 「は?」 ポツリと呟いた私に、相対している彼女が眉を顰める。 それでもいいと。 その先で手を放されたならそれも仕方ないと、覚悟を決めて 「でも…」 きっと 「その時が来たら」 ちゃんとお別れまで、 「自分の言葉でそう言ってくれると思うので」 彼なりの誠意を尽くしてくれる。 どうしてか、そう信じられるから。 「ちょっと」 私は、眉を顰めて声を上げた彼女の視線を避けるように、視界の隅に映っていたソファの上のバッグを目指して歩き出した。 彼女から続かんとする言葉を制する気持ちで、決意のように宣言する。 「私、帰ります」 精一杯、平静を装って行動したけれど、良く知りもしない他人に、これだけ感情的になれる女性の暴力性を経験で知っている私の手足は、どうしたって震えてしまう。 「わ…解ればいいのよ」 どことなく戸惑ったような表情でそう言った彼女の横を通り過ぎる時も、完全にすれ違うまでは気を抜かなかった。 腕を掴まれたらこうしよう。 もし肩を掴まれたらこうして――――――、 真似だけでもと習った護身術を何とかイメージしながら、心を強くして開かれたままのドアをくぐり、玄関へと廊下を歩き進む。 そこへ、まったくの想定外だった新たな声が、向かう先から聞こえてきた。 「ちょっとジュリィ? 勝手に入ったらまたサクに怒られるって」 そこには、靴を脱ぎかけた真っ赤なスーツ姿の男の人。 眩しいくらいの金髪で、ちょっと爽やかさのある端正な顔立ちの下の開けたシャツから覗くのは、そのイメージを覆す、二連の金の太い鎖。 見る限り、夜の人って感じの、 「…」 …この人も、どこかで…? 「あれ? 君…」 そう呟いた正面の彼の、長い睫毛の目が驚いたように見開かれたのと、 「ケイ! そんな女、早く追い出してよ!」 後ろから、私を追い抜いたその言葉はほとんど同時。 ――――――あ。 記憶の中から、閃きのように思い出したその人は、 "こんにちは。ケイトと申します。ケイと呼んでください" 初めてホストを利用する時に、半月もの間、形式的なメールのやり取りをしていたその相手。 "元彼を忘れたいという動機でご連絡くださる女性は多いので、気にしなくても大丈夫です。楽しい時間を過ごしましょう" "サヤさん。ようやく明日お会いできますね。待ち合わせ場所は…" でも、その待ち合わせ場所に現れたのは、"サク"と名乗る 『――――――はい、これがケイト』 『凄い…ほんとに金髪だね』 サイトのホストメンバー紹介のページで、逸美に見せられた写真、あの煌びやかさがそのまんま――――――。 「あれ? えっと、サヤちゃん、だよね?」 区切りながらのそのセリフは、同じような丁寧さで私の頭に入ってきた。 「…――――――え?」 どうして、直接会ってもいないケイさんが私の事を知っているのか。 「サヤちゃん、だよね?」 「あの…」 疑問を投げかけようとした私の耳に、また怒鳴り声が攻めてくる。 「ケイ! さっさと追い出してったら!」 「えっと、え? 待って、サヤちゃ」 ミュールに爪先を入れた私に、ケイさんが慌てた様子で手を伸ばしかけたけれど、 「ちょっと何してるのよ! ケイにまで色目を使う気ッ?」 「え? ジュリ、あ」 足音を立てて迫ってきた彼女の剣幕に、私は逃げるように玄関を出る。 「ふん! 二度と来ないでよね!」 「あ、こらッ、ジュリ!」 「 「うわああああ、ちょっと待ってジュリ!」 「や、何すんのよッケイ、口塞がな、んぐ、んんんッ、んんんん――――――ッ」 「待って、サヤちゃん!」 やってきたエレベーターに乗り込んで、操作盤に向き合った私は、平静を装って正面を見つめながら閉じるボタンをゆっくりと押す。 「待って――――――」 扉が閉まる直前、ケイさんの声が近くなったような気がしたけれど、私は聞こえなかった振りをしてエレベーターの下降と共に、高ぶりそうな思いをゆっくりと、腹の底に沈めこんだ。 『 元カレに初めてそう言われた時、どんな言葉を返せば彼にとっての正解なのか、突然の事に真っ白になってしまった頭で必死に考えた遠い出来事を思い出す。 『そう…かな?』 答えになるような言葉を探しきれず、誤魔化すようにそう返せば、 『なんて言うか…就職も先に決まったし、余裕があるのは解るんだけど、でも、こっちにそれを見せないのは、気を遣ってかとも思えるし、…逆に、下に見られてるのかなとか』 『え?』 『あ、ごめん。今の無し』 『…』 『無しな』 私だって、自分が何を考えているのか、時々判らなくなる時があった。 でも確かに、先に就職が決まって、それを口にしないように意識している自覚はあって、だからと言って、私がそこで上から見ているとか、そんなつもりは全くなくて…。 けれど、恋人として誰よりも近くにいる筈の人にそう言われてしまえば、何かを口にしようとする度に、相手の顔色ほどではなくても、その場の空気は精一杯読んでしまうようになり、 『何言ってるよの。 『逸美…』 『人格にクセってある程度あるものでしょ? 性悪はそれを悪意として人に向けられる形に研ぎ澄ませる人の事を言うと思うのよ。 眼鏡をかけて下を向いていたのは、いつからか、周囲に対する防御の為じゃない。 自分を守る振りをしながら、私は、元カレとの世界を護っていた。 その理由は、彼の事がどうしようもなく好きで、大切だからじゃなくて、ただ、変化を怖がっていたから。 あのコンテスト後と同じように、自分の生きる世界が劇的に変わるのを、もう二度と見たく無かったからだ。 ――――――だから、 「…ぅ」 視界が揺らいで、自分が泣いているんだと気づいたと同時に、 「ふぇ…」 感極まって、抑える事の出来ない慟哭が私の口から溢れ出た。 「…ッ、うっ」 両手で押さえて、堪えようと願えば願う程に、心の悲鳴が嗚咽となって声になる。 「ぃや」 " 彼はホストで、今はゲームをするように私の相手をしていても、いつか熱を醒まして去っていく人。 分かっていても、 それでも、 " 私の名前を呼ぶ声を、思い出すだけで、胸がギュッと潰れそうになる。 その痛みが愛しさに塗れて切ない分、失った時の寂しさを想像して、空っぽになる怖さが、涙と共に声になる。 体の中に、嵐があるみたいだった。 何年も付き合った元カレとの終わりを知った時以上に、たくさんの感情が私の中を走っている。 「…ッ」 掌で、何度も何度も涙を拭う。 その痕にまた流れてくる涙を、今度は手の甲で何度だって払う。 この涙を流す原因となっている人が、この仕草に邪魔になる眼鏡を外した人だという皮肉に気づけば、何だか更に泣けてきた。 大通りに出て、タクシーを拾うまでの人の視線なんか気にならなかった。 運転手さんの、ミラー越しに向けられる視線もどうでも良かった。 車の振動に体を預け始めてどれくらい経ったのか、外の景色が見慣れたものになった頃、 「…はあ」 深く息を吐き、いっぱい泣いたなと自分を振り返る。 思う存分、湧き出る 涙を外に放出した分、内側に新しい考えを埋め込む隙間が出来たような気がして、ほんのちょっぴり前向きな気分になる。 "パパがママを大事にすると、ママは幸せそうに笑うだろう? 今のママが凄く綺麗なのは、パパに愛されて、その幸せに染まって咲いているからだよ" "すごいね、パパまほーつかいみたい" "君が出会ういつかの恋が、こんな風に優しくて可愛いらしい色でありますように" 私――――――、 "素敵な恋が、 私は…、 「お客さん、この辺りですか?」 「え?」 運転手さんの気遣わしい声に、私はハッと外を見る。 目の前には、私が住んでいるマンション。 「はい。ありがとうございました」 お金を支払い、車外へと出れば、初夏の匂いを混ぜた風が私を出迎えてくれた。 公園を散歩しながら、 対比すれば、不思議と色濃く思い出してしまう。 同時に、私がマンションを出たと知ったら、 何故か、不機嫌になった 泣いたり笑ったり、また、自分の事がわからなくなった。 セキュリティコードを打ち込んでドアを開ける。 とにかく眠ろう。 久々に、自分のベッドで、気が済むまで。 そう考えていた私は、 「 呼ばれて、無防備に振り返り、 「…――――――ぇ?」 数カ月ぶりに目にした元カレの姿に、 体も、思考も、呼吸さえも、全てフリーズさせていた。 去年の秋――――――あれは確か九月の終わり頃。 出張でこっちに来ていた彼は、宿泊予定だったホテルをキャンセルしたと言って夜遅く突然私の部屋にやってきた。 その前に会ったのは、実に二カ月前。 部屋に着いて荷物を手放すなり、ロクな会話もないまま性急に行為を始めようとした彼に、こういう一面もあったのかと驚きに戸惑っていた時だ。 『しゃぶって』 服も脱がず、ズボンの前を寛げただけの状態で自らのモノを出したと同時にそう言われ、 『…え?』 一瞬、頭の中を白くして固まった私に、彼はハッとしたように息を飲んだ。 『あ、…いや、…何でもないよ、 私の名前が、まるで溜息のように紡がれた気がして、どうしたのかと口を開きかけたけれど、 『何でもないから』 『…うん』 そこからは、いつもと同じ手順とゴール。 ティッシュで自身を拭っている丸まった背中を横目に、私はそのままバスルームに行ってシャワーを浴びて、そして部屋に戻ろうとした時に耳に入ってきたのは、正体の分からない憂いを含む何もかもを、全て気のせいとして塗りこめる事の出来る言葉だった。 『ああ。クリスマスにはプロポーズしようと思ってる。…ん。ちゃんと正月には連れて帰るから、…解ってる』 実家のご両親の、どちらかと話しているんだと直ぐに分かった。 幾つになったら子離れするのかと、最低でも週に一度は実家から連絡が入る事を嫌そうに言いながらも、それを語る度に目を細めて口元を緩めていた彼は、家族をとても大切にしていて、 その家族を相手に話されていた"プロポーズ"の事…。 大学を卒業してからは、ずっと遠距離恋愛。 一年の内、実際に会った時間はひと月も無い筈で、それでも、考えてくれていたんだという事が意外で、でもとてもホッとして、 そして何よりも、私が臨んだ平穏な生活がこれからも守られるという未来の可能性に大きな喜びを見出させた。 だから去年のイブに会おうと連絡をくれた彼を駅まで迎えに行った時、私は久しぶりに精一杯のお洒落をしたんだ。 眼鏡も外して、美容室を予約して髪もネイルも整えて、ワンピースもコートも、この日の為に新調したもの。 プロポーズされる事を期待しながら、楽しく食事をして、彼が前以て予約してあったイルミネーションの有名なプロムナード前のホテルに入って、抱き合って…、 『ごめん、仕事で急に帰らないといけなくなった』 急にそんな事を言い出したのが夜中過ぎ。 『…え?』 『本当にごめん、 『うん…』 『本当にごめんな、 『…大丈夫。仕事なら、仕方ないよ』 PCの入った仕事用のバッグと、一緒に持っていた小さな手提げの紙袋。 もしかしたら指環が入っているのかなと、意識したその中身は、結局、私の前では開かれる事が無かった。 年末年始は忙しいからと、かけた電話に折り返しもないままテキストだけの会話が続き、 "本当にごめんな、 最後に見たあの顔が、妙に胸の 『ねぇ、あなた、西脇 器用に巻かれた髪がとても清楚な印象の、 『彼がまだはっきり言ってないみたいだから、きてしまったの。突然ごめんなさい。だってそうしないと、これからもずぅっと彼の事を信じて待ち続けそうな気がしたから…。あたしも同じ女だし、そんなの可哀想って思って』 可愛らしい口元が、高慢な笑みに象られている人。 『あたし、彼と結婚が決まったの』 『…え?』 『お正月に、彼の実家に行ってご挨拶してきたのよ』 『…彼――――――?』 呆然とし過ぎて、考えられないまま首を傾げると、彼女はフッと鼻で笑い、私が恋人だと信じていた人の名前を言った。 『…嘘…』 たっぷりと時間をかけて反応した私に、満足そうに笑った彼女は、けれど次の瞬間には悲しそうに眉尻を下げる。 『本当にごめんなさい。でも彼が、あたしの事、ずっと守っていきたいって。 どうしたんだろう。 世界が回っている気がするのに、真っすぐに立てている自分が可笑しく感じる。 『…いつから…ですか?』 『去年のバレンタインが始まり』 『バレンタイン…』 『あなたが、インフルになって大阪に来れなかった日。予約してたホテル、もったいないからって誘ったら、彼もその気になっちゃって』 "ここ、ずっと泊まってみたかったんだ" "予約とれて良かったな" "…インフル罹った…。大阪、行けなくなっちゃった" "仕方ないよ。三月にはそっちに出張あるから" "ホテル、今日のキャンセルだと料金戻ってこないから使ったら? 会社にも近いでしょ? " "バレンタインに一人で行けって…?" "ふふ、写真とか送って欲しいな" "…わかったよ" 『次の日の朝、あなたに送った写真、アレね、あたしが撮ってあげたの』 道理で、いつもと違ってとても綺麗に撮れていた筈だ。 『あなたは…誰?』 『同僚。大阪でずっと一緒に仕事してたわ。去年からは、プライベートもずっと一緒だったけど』 『…ずっと…?』 『夏以降はほとんど一緒に住んでたようなものだわ』 『…』 『で、去年のクリスマスに、プロポーズされたの。イブは用事があるから無理だったけど、日付が変わったら直ぐに合流してくれて、セックスして、朝食を一緒にルームサービスで食べて、その夜のディナーでイルミネーションを眺めながらプロポーズ。もちろん、そのホテルでもう一泊したの。すっごく素敵な時間だった。――――――ちなみに、プロムナード前のホテルだけど、有名だからあなたも知ってるわよね?』 骨が震えるって、そんな居たたまれなさを感じたのは生まれて初めてだった。 私と何食わぬ顔でセックスして、その夜中に仕事だと行って部屋を出て行った彼はその後、同じホテルに泊まっていた彼女の部屋に行き、そして彼女を抱いて――――――、 『用事がつまんなかったって言ってた、彼。だからあたしとのセックスを思い出して、それで予定を繰り上げてきちゃったって、困ったように笑って…。ああいう素直なところ、彼の魅力よね』 …そうなの? 私には、彼女の話している事と、そして、私が知っている彼とはあまりにも違い過ぎる彼の話を到底理解出来なくて、 『彼、あたしと初めてシタ時、ボーゼンとしてたの。凄い、こんなの初めてだって。あのクリスマスのは、それ以上に盛り上がっちゃった』 『…ッ』 込み上げてくる嫌悪感に近い何かが、私を 『あ、もしかして悪い事言っちゃった? ごめんなさい、そういう これまでの積み重ねは、一体何だったんだろう。 振り返ってみても、同じような景色の続く私の過去。 それでも、私になりに大切にしてきた、平穏の日々。 彼にとっては、意味の無くなったものだったのか。 私にとっても、それは無意味だったのか。 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、 そして私の中には明らかな隙間が出来てしまった。 何をしていいのか解らない、どうすればいいのかも判らない、持て余した、自分の中の空白。 つまり、その空白を作らせる程に、私の中に――――――西脇咲夜という人間の人生に入り込んでいたのは間違いない、良い思い出にすらなってくれなかった元カレが、 今、幻でもなく目の前に立っている。 |